15.あぁ、お前の正体は

 あわてて立ち上がり、流や蒼の後を追って京介は走り出す。

 京介は走りに自信がない方ではない。体力面でもそうだ。田中を抱えているのでスピードは普段と比べればやや劣るものの、そこまで遅いわけではないはずだ。


 しかし、どうしてだろうか。

「ひ、引き離される」

 遠くに彼らの姿をとらえてはいるものの、その差はまったく縮まらない。どんなに頑張って走っていても、彼らとの距離はむしろ大きくなっている。

「本気で走っているようには見えないが… アイツら、どうなっているんだ」

 腕に抱えている田中がうろたえる。彼の言うとおりだ。蒼にしろ流にしろ、本気で走っているようには見えない。走り方だけに着目するのであれば、そこまでのスピードは出ないはずだ。流に至っては踵の高い靴を履いている。にもかかわらず、追いつける気配が全くない。


「もうわけわかんない…」

 京介の混乱なぞ知る由もなく、流が膝を少し曲げ、その場から飛び上がる。軽いジャンプのように見えたが、彼か彼女はたった一度の跳躍で電柱のてっぺんまで上ると、それを踏み台にしてすぐそばのアパートに飛び移る。蒼も同様に電柱へと跳躍する。


 もはや人間の動きではない。


「ウソでしょ!」

 電柱のてっぺんに足をつけた蒼目掛けて、流が再び空から針を放つ。京介や田中の肝が冷える間もなく、蒼は流のいるアパートのさらに上を目指して飛んだ。

 結果、針は蒼にあたることなく、コンクリートの柱だけを無意味に貫いた。それどころか、地面にまで到達してアスファルトを砕いた。激しい土煙が上がる。衝撃に耐えられなかったらしいそれは根元から傾くと、ちょうど真ん中のあたりからぐにゃりとくの字に折れ曲がる。

「走れ、京介!」

 電柱というのは一定距離を開けて建てられ、そのすべてが電線で繋がっている。

 ということは、1本でも倒れるなり傾くなりしてしまえば、電線のたわみによって他の電柱も引っ張られてしまい、ドミノのように崩壊が伝わっていく。


 このままでは巻き込まれる。京介は奥歯を食いしばる。


「ツイてない…!」

 土煙の中をそのまま突っ切る。一瞬だけ何も見えなくなった。砂っぽいじゃりじゃりした感触が皮膚を撫でる。通り過ぎた後にドシンという音がした。電柱が倒れたのか?

 道路の真ん中を走りながら後ろを振り返る。ついさっき走り抜けた場所に横たわるコンクリートの柱が視界に写った。


 ゾッとした。最初の針から田中が守ってくれなければ、自分もあの電柱のようになっていたということだ。

 幸運なことに、折れてしまった電柱に引っ張られ、周りの何本かが傾きはしているものの、それ以上の損傷は見られない。電線も大きくたわんでいるだけだ。

 よかった、そう思って視線を上へと戻す。


 絶句した。

 流の背後をとらえ、しつこく追い続ける蒼の背後に、いくつもの球体が現れる。それは瞬く間に長さ10cmほどの針へと姿を変えると、流目掛けて放たれる。


あぁ、そんな

 流と同じ未知の力を蒼が使った。見間違いじゃない。


 ついに立ち止まってしまいそうだった。

 世界がスローモーションのようにゆっくりと回る。人間が危ない目に遭う寸前には、危機を脱するために思考が素早くなり、その結果、周りの動きがスローモーションのように見える、というのはどこで得た知識だろうか。昔本で読んだ、とか、そういうところだろう。それが正しいかどうかは知らないが。

 別に、自分の命に危険が迫っているわけではない。今命が危険にさらされているのは流の方だ。


 蒼の目は本気だ。大きく見開かれ、ギラギラと輝きを放つそれはまばたきすらしなかった。京介たちの命を狙った黒いコートの人物を逃がすまいと、ひたすらに狙いを定めている。

 心臓が早鐘を打つ。ヒルの怪物に遭遇した時よりも大きな音がした。


どうして?


どうして蒼ちゃんが?


 蒼と流が同じ力を使った。見間違いじゃない。見間違いじゃないんだ!

 流は赤ヶ原の人で、血液として神様の亡骸を身体に宿している。あの日記の言葉を借りるならばエーテルだ。流は血液のほとんどがエーテルに置き換わっている。彼か彼女が未知の力を使えるのは、恐らくだがそれによるものだろう。


 普通の人間は針なんか出さない。エーテルなんて持ってない。


 じゃあ、流と同じ力を使った蒼は?


 エーテルを、神様を、身体に宿している?


 彼も赤ヶ原の人間なのか。いや、苗字がそうでないことは知っている。彼は戸木蒼だ。そこには赤ヶ原の赤の字もない。

 まてよ。母親か父親が赤ヶ原の人で、結婚の都合で苗字が変わったということかもしれない。そうなら辻褄が合う。


 息を呑んだ。

 別に、自分に危険が迫っているわけではない。ただ、衝撃だったのだ。蒼が撃った針が空間を貫いていくありさまが。

 その衝撃は、京介の中にある蒼という人物への理解を、たった一撃で根底から覆した。


 思えば、自分は蒼のことをよく知らない。彼がよその地域からここに来たのは知っている。高校進学をきっかけに単身引っ越してきた。でもどこから越してきたのかなんて知らない。彼が一人っ子なのは知っている。以前、京介が妹や弟たちの話をした時にそう言っていた。でも父親や母親の話を聞いたことがない。彼の好き嫌いは知っている。彼が気分屋なのは知っている。でも、でも! 彼が、赤ヶ原という特殊な信仰を抱えた一族に連なるものだったなんて知らない。


 自分が一番、蒼という人間をわかっていた。そう思っていたのに。自分は彼の正体すらわかっていなかった。

 もちろん、友達だからといって全てを共有しなければならないと思っているわけではない。別に相手の全てを知る必要はない。


 ただ、何も知らないということを突き付けられるのは心地が悪い。

 俺は、何にもわかっていなかったんだ。


 蒼の放った針の切っ先が流へと迫る。


「あの針は…!」

 田中が悲鳴をあげた。京介は足を止めなかった。今ここで立ち止まったら、本当に蒼を見失うかもしれない。


 建物の上を飛びながら、流がまた球体を出現させる。それは針に変わることなく、幾重もの線となって空を貫く。まるでビームだ。ゲームなんかで目にするような。

 真っ赤な液体のように見えるそれがガラス張りのビルのそばを通り抜けると、ガラスたちは炉に放り込まれたように熱を帯び、みるみるうちに溶けて、捻じ曲がっていく。

 針とは違い、複雑な軌道を描くそれは、蒼の放った針を巻き込んでは溶かし、標的となった蒼へと収束していく。

「!」

 蒼は高い建物の屋上で立ち止まると、膝を折ってその場に屈む。彼を取り囲むように真っ赤な膜が出現し、ガラスが溶けるほどの圧倒的な熱、おそらく千度を超えているそれの直撃から蒼を守る。

「大丈夫なのか、蒼は」

「わかんない! どうしたらいいんだ」

 ビームらしきものをしのぎ切った蒼がまた駆け出す。建物と建物との隙間を跳躍しようとしたその時。彼の細い足首に赤い紐のようなものが巻き付いた。


 勢いを殺され、身体が大きく傾く。紐がしなる。その動きに引っ張られ、蒼の身体がふわりと宙を舞った。

 悲鳴をあげたのは自分だったかもしれないし、田中だったかもしれない。

 落下する蒼の足から紐が離れていく。普通の紐じゃない。

 蒼を受け止めようと走る。今来た道とは逆方向だ。京介の動きを妨げないように、田中が腕から飛び降りた。そればかりか、動きの鈍いからだを引きずって、懸命に走る。あぁ、でも


でも…


「蒼ちゃん…!」

 到底間に合わない。糸の切れた人形のように、彼は目の前で容赦なく地面にたたきつけられる。

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