16.よりにもよって
そんな
横たわる蒼の傍に駆けていく。
力なく横たわる彼は、薄く目を開けていた。微かではあるがまばたきをしている。少なくとも死んではいない。
「だ、大丈夫?」
すぐそばに座り込む。かなりの速さで落下し、地面に衝突したはずだが、彼の身体には傷一つ付いてはいなかった。が、本人はかなりのダメ―ジを負っているようだ。表情はうつろで、目の焦点が合っていない。
「…あ」
音は聞こえているようで、京介の言葉に反応しようとしているのか、喉からひゅうひゅうと息を漏らしている。
「無事か!」
田中が大声で呼びかける。
「ごめんなさい。アイツ、殺せなかった」
息も絶え絶えと言った様子で、蒼が途切れ途切れに謝罪の言葉を述べる。
「よっぽど神様がお嫌いなのね。自分で自分の機能をロックしてしまうなんて」
向こう側から靴音が響く。軽快な音だ。スニーカーからそんな音はしない。きっと踵の高い靴。その正体が誰なのか、なんて、今さら見なくたってわかる。
視界の端で、赤く輝く怪しげな紐が、優美な曲線を描いてそれの手元に収束していった。
「お前、なんてことを!」
京介や蒼を庇うように、田中が前へと飛び出す。スライム状の肉体は、また一回り小さくなってしまっている。
威勢よく流の前に立ちふさがった田中だが、やはり動きが鈍い。無茶をしているのは一目でわかる。
「仕方のないことよ。完全に励起してもらわないと儀式が終わらない」
田中を挟んで数m離れたところに佇むそれは、涼しい顔で目を細める。その表情は美しい。この世にあるどんなものも、その美貌に勝つことは叶わないだろう。
だが、美しさという価値観と、好きか嫌いかは別なことだ。美しい=好ましいとは限らない。
嫌いだ、あの笑顔。
1人の人間を傷つけたというのに、あれは笑っている。それも心の底から。
「儀式儀式って、そんなにそれが大事なのかよ」
声が震える。これはきっと最後の質問だ。良心の有無を問う最後の質問。
「神様のためなら、無関係な人間を巻き込んでもいいって言うのか?」
彼/彼女の横っ面を殴り飛ばしてしまいたい衝動を、必死になって抑え込む。いや、抑え込む必要はないのかもしれない。
あれは蒼を傷つけた。同じくらいの痛みを負わせてもいいはずだ。あれはそれだけのことをした。
しかし、怒りに駆られてやられた分をやり返そうとするのは正しいことではない。社会は報復を許容するべきではない。やり返すことが正しいとされるのならば、人間はやり返すことを止められなくなる。もしあれが良心という善性を持ち合わせている生き物であるのならば、同じ生き物として堪えてやるべきであって
「ええ、そうね」
流はきっぱりと言いきった。
「すべては神のため」
躊躇のかけらもなく。
「うみなり様のためなら、なんだってするわ」
ひとえに、京介が怒りに身を任せて飛び出すことを堪えられたのは、流の中の善性を信じていたからだ。怒りは爆発的なエネルギーである。増殖し、憎しみへと姿を変え、思考回路を塗りつぶす。
よくもこの町をメチャクチャにしてくれたな。よくもあの怪物を生み出したな。よくも田中さんを傷つけたな。よくも蒼ちゃんを傷つけたな。よくも。よくも!
京介は平凡だ。田中や蒼がやってみせたように、不思議な力で自分の身を守ることはできない。でも、それでも。自分たちを害したアイツに一泡吹かせてやりたい。たったそれだけでいい。一度でもあれを殴りつけてやれるのなら、それだけで胸のつかえは収まる。
もしかすると、蒼も同じように怒りに突き動かされたのかもしれない。
堪えてやるべきだと思っていた。蒼はおそらく赤ヶ原の関係者で、京介の知り得ない何かがあった。で、あれば。彼が流に対して堪えられないものがあったのは想像に難くはない。だが京介にとって、流は得体の知れない人間なのだ。あれの事情を鑑みないまま殴りつけるというのは筋違いではないのか。そういう迷いが京介に歯止めをかけていた。
でも、堪えきれなかった。京介は怒ってしまった。
ハハハハハ
笑い声がする。高らかな、空を裂くような、陸を飲み込む津波のような。
「他者を傷つけるのは悪いこと。他者を踏みにじるのは悪いこと。そんなのは知っている。でもどうでもいい! 我らの神のためなのだから。お前たちが神のためになることを喜ばないのは知っている。いいや、お前たちだけではない。儀式のために犠牲になった人間もそれを喜ばない。しかし! しかしだ! 俺は嬉しい。神もきっと喜ばれる。俺はお前たちに敬意を払うぞ。よくぞ神のためになってくれた、と。神の再臨はお前たちの血の上で達成される。お前たちが拒もうと望もうと関係ない。どうでもいいのだ。神の前ではすべてが些細なこと。俺が死のうがお前が死のうが関係ない。神が蘇ればそれでいい」
コイツ…!
全身の血が沸き立つのを感じる。もはや迷う余地はない。コイツは最悪だ。良心なんてない。自分の神様のことしか見ていない。
「お前、狂ってるぞ」
田中のその指摘に、流は冷ややかなまなざしを向ける。
「あら、言ってくれるじゃない。杭を持ち逃げしたくせに」
「…なに?」
小さくなった半球体のスライムはピタリとその動作を止める。杭を持ち逃げした? 屋敷で見た日記の内容が脳裏をよぎる。つまり、彼の正体は。
息を呑む京介に、流は視線を向けた。
「俺が不思議なのは京介、お前よ。御子と長いこと一緒にいたせいで変質したのかしら。我々の力に対してやや耐性があるようね。壁の中でまともでいられるなんて」
今度は京介が動きを止める。
「いまなんて…」
流はハッとなったように目を丸くし、考え込むように腕を組んだ。なんだ、知らなかったのね。それは平然とこう言いきった。
「蒼はうみなり様の御子よ。それがどういうものかはわかっているでしょう」
うみなり様の御子。知っている。あぁ、まさか、蒼ちゃんが。
硬いアスファルトに横たわる蒼に視線をやる。依然として息も絶え絶えといった様子だ。全身を苛む痛みに顔を歪ませている。しかし、それだけではない。痛いから苦しそうにしているだけではない。
京介は、蒼の表情の中に絶望を見た。悲しみや恐れ、不安、後悔、そして憎しみ。そういう負の感情を見た。
友達がこんな顔をするところを見たいと思うか?
「何も、本気でキミたちのことを殺しに来たわけではないのよ。そうすれば蒼が動くと思ったからそうしただけ。まぁ、これだけのことで完全に励起するとは思わなかったのだけれど。部分的にロックが解除されていたのかしら。もしかして、すでに彼は何かしらの機能を使っていたのかしらね。なら、ここまできたら後は…」
もう堪えきれない。たった、たったそれだけのことで、よくも。
「蒼ちゃんをひどい目にあわせやがって! ふざけんな!」
京介は一直線に駆けだした。憎しみに歯ぎしりしながら。握り込んだ手のひらに爪が食い込んで痛いと感じるほどに。
顔だ。顔を狙え。綺麗な顔を。頭部には生き物にとって大事な機能が詰まっている。つまり、頭部へのダメージは命へ直結する。
死んでしまえ。死んでしまえ! お前の良心を信じた俺がバカだった。
駆けだした勢いと、体重と、憎しみがこもった一撃は確実に流を捉えていた。その一撃は確かにそれに打撃を加えた。
はずだが
「…は?」
京介の拳が感じたのは、冷たい水の感触だ。川や海に手を叩き付けた時のような感触。しかし、視覚がとらえたのは水ではない。赤い液体。血…?
流に叩き付けたはずの拳は、彼/彼女そのものに確かに到達したはずだった。が、ダメージを与えたわけではなかった。
どういうことだろうか。流の身体に衝撃が加わろうとしたその瞬間、それは液体へと変化した。そう、京介の手が触れたその瞬間に、流の全身が流体へと姿を変えたのだ。
液体は空中ではじけ、呆気にとられる京介の背後へと収束する。
悪夢だ。こんなの
だって、人間は液体にはならない。
呼吸ができなくなるような感覚。ありえない事実への拒否感に身体が強張る。
それは、とても大きな隙だった。
背中にドンという衝撃が与えられる。蹴られたのか?
背後からの打撃でバランスを崩した京介は、勢いをそのままにアスファルトの上を転がり、流から距離をとるように態勢を整える。
「素晴らしいわ。俺に立ち向かってくるなんて」
顔を上げ、前を見る。心底感心したような表情で流は手を叩いていた。それはしっかりとした人の形をしている。どうあがいても液体ではない。でもあれは見間違いではなかった。あれは液体だ。あんなものとどうやって戦えと言うんだ。
「選択肢をあげましょう。考えるのは得意でしょう?」
「…!」
流は指を鳴らす。パチン。乾いた音が耳につくと同時に、京介を取り囲むように真っ赤な壁があらわれた。壁は前後左右の四方を隙間なく覆い、京介を閉じ込める。高さは2m強ほどだが、上部も塞がっているため、脱出は不可能だ。まさしく万事休す。完全に動きを封じられた。
「き、京介!」
「動かないで。動いたら京介を殺すわ」
壁を一枚挟んだ向こう側で、流が田中を制止するのが見えた。
「どういうつもりだ」
京介は壁を拳で殴りつける。びくともしない。
「選択肢をあげると言ったわ。諦めるか、諦めないか。どちらかを選んでちょうだい」
「…は?」
京介は目を丸くする。その様子を理解していないと捉えた流は再び口を開いた。
「わからない? 逃げてもいいと言っているの。キミはただ巻き込まれただけよ。俺だって、むやみやたらに人を殺してもいいとは思っていないわ」
流の表情は相変わらず涼しげなままだ。たおやかで美しい。
「…」
逃げてもいいのに、か…
京介は胸の中で反芻する。強烈な違和感が拭えない。
だが、あれの言うこともわからないことはない。あれの目的は神様を蘇らせること。その目的を達成するには蒼が、うみなり様の御子がどうしても必要だ。裏を返せば、御子以外は必要ない。あれにとって、京介はただ巻き込まれてしまっただけの一般人に過ぎないのだ。
無理に京介を殺す必要はない。逃がしたって構わない。
流にとって京介はその程度でしかないはずだ。
儀式の邪魔にさえならなければの話だろうが。
これはきっと最後の質問だ。京介が彼/彼女にとって障害になるかどうかを問う最後の質問。
驚いた。流も流で、京介の腹の底を探っていたわけだ。まぁ、その気持ちもわからないでもない。流からしてみれば、京介はぽっと出の一般人に過ぎないのだ。あの日記を見る限り、田中とは元々親しい間柄であったようだし、蒼とは同じ一族に連なるわけだ。知らないヤツが突然現れたら、腹の一つや二つ、探りたくなるのは当然だろう。
もし、ここで逃げることを選択すれば、京介は流にとって障害にはならないと判断されるだろう。だが、ここで逃げることを選択しなければ、京介は儀式の邪魔をするものとして排除されるはずだ。
だからどうした?
京介ははき捨てる。
「逃げねぇよ。俺の友達がひどい目に遭っているんだぞ。それを知らん顔なんてできるかよ」
友達、ねぇ。流は嘲笑うかのような冷ややかなまなざしを京介に向けた。
「田中や蒼の正体はわかったでしょう。それでも、キミは彼らを今までと同じように愛するというの?」
バカバカしい! そんなこと選択肢にない。
「友達がちょっと特殊な生い立ちをしているからって、嫌いになるはずない。隣人愛は基本的な感情だろ」
隣人愛、京介はあえてその表現を流にぶつけた。あら、生意気ね。京介の意図を察した彼/彼女はまた笑う。が、一瞬でその笑みは無表情へと変貌する。
「特殊な生い立ちという言葉で、我々一族を語るのか? お前は赤ヶ原の本質を理解できていない。うみなり様がどういう存在かわかっていない。赤ヶ原の一族の役割をわかっていない」
流の真っ赤な双眸が、凍えるような冷たさで京介を射抜いた。
ただの無表情だ。軽蔑の色さえない無関心。まだ蔑まれた方がマシだ。よりにもよってそんな目を向けてくれるな!
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