18.そのためならなんだって
「蒼ちゃん!」
ぐったりしている蒼と、その傍らにいる田中の元に駆け出す。田中にとって唯一の顔のパーツである2つの眼球が、田中自身の動揺を表すように揺れている。
生きた心地がしないとはこういうことなんだろうな、と、頭の片隅で考えてしまう。ヒルのような怪物を初めて見たときも、流と対峙しているときも、死を確信して恐怖することはあった。でも、今はそれよりも恐ろしい。蒼を失うことが、自分が死ぬことよりも恐ろしい。
焦燥が思考回路を鈍らせる一方で、脳のどこかにある冷静な部分が恐怖を訴えていた。
こんなの、自分が死ぬ方がマシだ。だって、自分の気持ちはそこで終わるから。
もし蒼ちゃんが死んでしまったら、そんなの絶対に耐えられない。
右手の中に感じる硬い杭の冷たさが、いやに鋭く皮膚に刺さる。縋りつけるものが手元にあってよかった。これがなかったら、目の前の光景を夢だと疑っていたに違いない。だって信じたくないんだから。
「先輩」
傍らに膝をついた京介に気が付いたのか、蒼はかすれた声で京介を呼びながら、上半身を起こそうと地面に手をついた。田中がそっと背中に手を添える。
「俺はアンタのこと巻き込みたくなかったのに」
京介は杭を手放し、アスファルトの上に置いた。
「いいんだよ。俺は大丈夫だから」
蒼の表情は苦渋に満ちていた。蒼が何者であるか。京介にはもうわからない。赤ヶ原とか、エーテルとか、御子とか、自分の知っている常識だけでは飲み下せないことが多すぎる。ゆっくり考える時間が欲しいところだ。ただ、考えなくてもわかることがひとつだけある。
蒼ちゃんは、俺を守ろうとした。
それは確かなことだ。彼は京介がこの怪異に巻き込まれたことを良しとせず、怪異を引き起こした流という人物に対して本気で怒っていた。
それさえわかっていれば、きっと大丈夫だ。
「ホントに。俺は大丈夫だよ」
そう。本当に大丈夫なんだ。
これは強がりなんかじゃない。おかしなことに巻き込まれて、怖い思いをしているけれど、それで友達を恨むようなマネはしない。
「一旦家に戻ろう。このままじゃあマズい」
田中がおずおずと声を上げる。
「蒼、動けるか?」
遠慮がちに伸ばされた小さな触手が蒼の背に伸びる。しかし、触手のつるりとした表面は蒼の背に触れることなく、空中でピタリと動きを止めた。
「…なぜ?」
彼は疑問符を口にする。
京介は理解できなかった。田中さんは何に驚いた?
何も起こっていないはずだ。何か物音がするということもなかったし、視界に写る光景に変化が生じたわけでもない。
どこかで波の音がする。
冷たい風が頬を撫でる。冬特有の、ひどく乾燥していて痛いような風。冬の屋外に長居するというのも身体に悪いだろう。風邪をひいてしまうかもしれない。田中は風邪をひくのかわからないが、用心するに越したことはないだろう。
え? 波の音がする?
微かに耳に届いた不審な音に、無意識のうちに表情が強張る。
赤伊市は海に面した町だ。住宅地からしばらく行けば海岸線に出ることは可能だ。だがここからではかなり遠い。どんなに優れた聴覚があったとしても、喧騒のない町にいたとしても、波の音が聞こえるはずはない。なんで…
頭の先から血の気が引くような感覚。あるはずのない音がする。耳を澄ましてみるが、うっすらと聞こえるような、聞こえないような、どちらとも判断できない。
ただの風の音のような気がするし、もしかすると自分の呼吸の音かもしれない。でも深海から海面に現れる波の音のようにも聞こえる。
そうか!
不意に、田中が大きな声を上げた。
「内部の流体化だ! そうか流は…」
「ちょ、な、なにそれ」
戸惑いを隠せず慌てる京介をよそに、田中はプルプルとからだを揺らす。
「蒼、早く意識を落とせ!」
食って掛かるような強い口調。悪意があって噛みつくような話し方をしているのではない。焦りがそのまま口調に出てしまっている感じだ。
「田中さん、なに言ってんの」
身近な人が怒りをあらわにしているのを見るのは、少なくとも心地の良いものではない。自分にとって意味の分からないことを言っているのであればなおさらだ。
意識を落とす? そんな、パソコンじゃないんだから。
「でも…」
蒼が視線をさまよわせた。迷っているようなそぶりだ。彼は田中が言うところの意識を落とす、というのを理解しているようだ。
「今はそれしかない。早く!」
「…ごめんなさい。先輩。あなたはどうか」
現状を飲み込めない京介を置き去りに、蒼の瞳からゆっくりと光が失われていった。絵の具をそのまま塗り付けたような赤い瞳。生気を失ってしまったかのようなその瞳に、京介の姿が写り込む。まって、今何を言いかけたんだ!
蒼は重力に従って全身を脱力させる。糸の切れた操り人形のように。
「蒼ちゃん!」
力なく倒れていく蒼の背中に手を伸ばし、必死になって受け止める。田中も彼の背に手を添えてはいたが、あんな小さなからだでは人間1人の体重を支えきることはできないはずだ。田中自身もきっとそれは承知している。でも彼は手を離さなかった。
田中の正体はわかっている。あの日記を書いた張本人。エーテルの研究をしていた流の助手。
彼が記憶を取り戻したかどうかは定かではない。が、彼が自らの正体に気付いていないはずがない。
田中の立場は複雑だ。それでも、彼は蒼の背中を支えることをやめなかった。
腕の中に確かな重みを感じる。
「ど、どうして…」
蒼は眠っているのだろうか。京介の腕の中に抱えられた蒼は、瞼を閉じることもなくピクリとも動かない。まるで死んでいるみたいに。
嫌な予感が背筋を這った。
「ね、寝ちゃったの?」
冗談めかして苦笑し、蒼の胸に耳を当てる。ひんやりとした感触。真冬の海を思わせるような冷たさだ。かわいそうに、あんまりにも寒いから冷えきってしまったんだろう。
まて、これはなんだ? 変な音がする。あるべきはずの鼓動がない。
これは波の音?
さっきの音は、まさか
「バカ、やめろ! それ以上聞くんじゃない。呑まれるぞ」
「わっ」
上着のフードを掴まれ、ぐいと後ろに引っ張られる。
「大丈夫だ。蒼は眠っているだけで死んではいない」
京介の後ろに回り込んだ田中がつぶやくように話す。蒼の身体から京介を引き離すと、無理に引っ張ってしまったフードの無事を確認するように形を整える。
「急に引っ張って悪かったな。わたしもちょっと焦ってるんだ。許してくれ」
「いや、いいよ。びっくりしたけどヘーキだし」
呑まれる、という言葉の意味はわからないが、それが危ないことだというのはわかる。
「ひとまずここは撤退だ。家に帰ろう。体勢を立て直そう」
田中が触手で頭をかいた。本当に、ずいぶんと少なくなってしまっている。成人の頭ほどだったはずの彼だが、もう子どもの頭ほどの大きさしかない。
「蒼をおぶれるか? そのくらいの接近なら大丈夫なはずだが」
京介は息を吐いた。何が何だかわからない。いや、今に始まった話ではないが。
「大丈夫。蒼ちゃん軽いから」
京介はベルトに引っ掛けるようにして杭を身体に固定する。開いた方の手で、蒼の瞼をそっと閉じた。綺麗な顔だ。本当に。眠っているだけなのに。
「ねぇ、田中さん。ちょっとだけ手伝ってもらってもいいかな」
「あぁ、構わないぞ」
田中の手を借りながら、蒼を背負う。
何が何だかわからないが、田中は蒼について「大丈夫」と言った。なら、きっと大丈夫なんだ。
蒼を背負った京介はゆっくりと立ち上がる。
「あのさ、蒼ちゃんや田中さんがなんだろうと、俺は大丈夫だから。」
「あぁ、わかっている」
田中は静かに返事をした。
「杭を持ってきてくれてありがとう」
「あぁ、今日のMVPには及ばないと思うが、わたしも結構頑張ったと思うよ」
軽快な言い回しだが、その口調には明るさはない。
「…全部終わったら。みんなでパーティーしような。俺、豪華でうまいメシつくるからさ。」
「あぁ、楽しみにしている。」
京介は一歩を踏み出した。流と蒼の交戦で、ボロボロになってしまった町並みを通り過ぎていく。
蒼ちゃんは大丈夫。眠っているだけだから。
うん。大丈夫だから。きっと。
キミはどうか、最後まで無事でいて
あぁ、そっか
『…ごめんなさい。先輩。あなたはどうか』
蒼ちゃんが何を言いかけたのか、今やっとわかった気がする。
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