26.望んでいたながれ

 田中は、目を覚ました。ここは? あたりを見まわす。

 目に映ったのは青い海だ。

 どこまでも続く青い空が、どこまでも続く青い海の水平線とまじりあって、溶けあっている。寄せては返す穏やかな波が、太陽の光を受けてキラキラと輝く砂浜の端を侵食していた。

 海の向こうから緩やかな風が流れ、優しく頬を撫でる。

 美しい場所だ。何の脅威も存在しない、そこにあるだけの場所。


 雲一つない青空から差し込む太陽がまぶしくて、少しだけ目を細める。

おかしいな。暖かい。

 空の明るい感じや、緩やかな風の感じを鑑みるに、これは夏の風景のはずだ。でも、暖かいだけなのだ。夏特有の乱暴な暑さはないし、日差しがきついというわけでもない。

 明らかに不自然だ。ただ、恐れは感じない。寧ろ逆だ。優しすぎる気がする。


 腕を組む。さて、いったい何があってどうなった?

 考え事をするとき、つい腕を組んでしまうのは昔からの癖だ。


 直前の記憶を手繰り寄せる。最後に見たものは何だっただろうか。ふと、思い出したのは真っ赤な津波。

 そうか。うみなりに呑み込まれたのか。すると、ここはうみなりの中か。

 おぼろげだった記憶に、はっきりと色がついていく。赤い津波の光景を糸口に、記憶を手繰り寄せていく。

 流と決着をつけようと屋敷に入り込んで、地下に行ったと思ったらおかしな場所に出た。京介と流が戦って、そして…


 様々な光景がフラッシュバックする。思い出した。


流に負けたのか。わたしたちは

 それは確信だった。ゆるぎない事実として、田中はそれを理解した。


 流と混ざり合ってしまった京介を救うため、蒼は自ら流体化することを選んだ。流体となって津波を起こし、我々を呑み込み、そして、流を京介から押し流したのだ。

 結果、うみなりは再臨を果たし、蒼は………


「わたしは、何もできなかったのか」

 心臓を針で突かれたような痛みが走る。


 波の音だけが、田中を慰めるように静かに響いた。


 気が付けば、自分は人間の身体を取り戻していた。半球体の怪物ではなく、れっきとした人間としての身体。

 名前もわかる。わたしは赤ヶ原弦空げんくう。そう、赤ヶ原の末裔だ。

「皮肉だな。いまさら、身体と記憶を取り戻すなんて」

 ハハハハ、虚しく笑う。我々は負けたのだ。うみなりは再臨した。蒼はもういない。あれは御子としての役割を全うしたのだ。


 さっきの津波は、弦空や京介だけでなく、楔をも呑み込んだはず。

 楔を手に入れてしまった今、うみなりは流体という形を持たぬ神でありながら、この星へと定着を果たしたのだ。もはや杭を用いても砕けない。あれは殺せない。そういう次元の存在ではないのだ。

はっきりと存在する神に、いったいどうやって立ち向かえばいいのか。


無謀だ。もう、これまでだ。


「弦空」

 ふと、背後から声をかけられた。

 柔らかく、不安定な砂の上を歩む足音。

 背後からかけられたその声は上品で、たおやかで、世界を包み込むような柔らかな慈愛そのもののように感じられる。そんな声でわたしを呼ぶのは、たった1人しかいない。

「流か」

 後ろを振り向く。金色の長い髪。陶器のような白い肌。穏やかな赤い瞳。

「うみなり様は蘇ったわ」

 どこか自慢げに、誇らしげに、それは笑みを浮かべた。弦空は、流のその笑みが好きだった。いや、好きなんだ。

 泣いてほしくなかったから。笑っていてほしかったから。あの時、杭の実験を持ち掛けられたあの時。流の提案を拒めなかった。拒否することがただ怖かったのだ。ずるずると拒絶を先延ばしにして、結局どこにたどり着いた?


 この星はもうダメだ。諦観のような、絶望のような、そういうある種の確信が心臓に引っかかって離れない。

 もはやうみなりの思うまま。もう終わりなんだ。


「わたしたちはどうなるんだ?」

「俺たちは信仰を捧げた身よ。神格の補強のために、ここにあり続ける必要がある。そうよ、ずっと一緒にいられるのよ。今度は争うこともないわ」


「最高の気分だわ。俺たちの神様が蘇った。この星はこれまでとは違う姿に生まれ変わるのよ。愛に満ち溢れた世界になるに違いないわ。だって、うみなり様は全てを愛してくださるもの」


 弦空は何も言えなかった。流と視線すら合わせられなかった。


京介、すまなかった。もうわたしには何もできそうにない。

 彼があの後、どうなったのかはわからないが、これだけはわかる。もはやこれまでだ。できることが何もない。誰にも、どうにもできない。


蒼は神へと変貌した。世界は海で満たされた。

うみなりは自らの繁栄のために、この星を作り変えるだろう。


いや、待て。待てよ。


世界は海で満たされた。


本当に?


 世界が海に満たされたのであれば、その中心であるうみなりの内側に、波打ち際の光景が広がるのはおかしいだろう。

 そうだ。おかしいんだ。海の中心は海であるはずだ。波打ち際は海の端っこ。海の中心が砂浜であるはずがない。


「ねぇ、弦空。一緒に全部を観測しましょうね。大丈夫。俺は杭を持ち去ったことを怒ってはいないわ。だって神様は蘇った。そんなのもういいのよ」


 潮風の中で、流は弦空を唆すように囁いた。両腕を伸ばし、その胸に飛び込んで来いと言わんばかりに瞳を潤ませる。

 右腕の欠損はいつの間にか修復されている。


 弦空は愕然とする。


蒼?


お前、まだそこにいるのか?


 そうだ。うみなりはまだ完全体ではない。蒼である部分が残っている。そうとも。まだ蒼はそこにいる。

 そうでなければ、蒼が完全に消え去っていれば、うみなりの内側に浜辺が広がっているはずがない。こんなにも優しい風景が、世界を滅ぼす神の内側であるはずがない。

 蒼は打ち勝ったのだ。海の端である波打ち際は、蒼がまだそこにいることの証明だ。


 青い空の上で輝く太陽が、砂浜を呑み込んでは引いていく波を照らす。

 日差しを強く反射し、精一杯のきらめきを湛える海が視界の端に映り込む。


 うみなりの中に太陽があるというのも、奇跡のような話だ。

 深海に光が差すはずがないんだ。普通なら。


これはきっと救いだ。蒼にとっての。

このきらめきがあったからこそ、彼は自分を見失うことなくいられたんだ。道に迷わずにいられたんだ。

 あの太陽が何であるか、いったい何を象徴しているのか、そんなこと、考えなくても理解できる。


なんてことだ。素晴らしい! 素晴らしいぞ。蒼! お前、自分をなくさなかったんだな。

 流体化し、自らが神になってしまってもなお、お前は、自分を保つことができたんだな! お前がどのくらい自分を保てているのかはここからではわからない。もはやあと数秒で消え去ってしまうほど、わずかしか残っていないのかもしれない。

 でも、十分だ。わたしは、目がつぶれてしまうほどのきらめきを見た。

 お前たちが、互いを思い合っているのは知っている。でもまさか、まさか、これほどまでとは!


 お前たちのつながりは、お前たちがそれぞれを思い合う気持ちの強さは、負けなかったのだ。

 うみなりの再臨こそ止められなかったが、全てがうみなりに変貌してしまうはずだった蒼は、まだこの世界で生きている。

 神に打ち勝つなどありえないことだ。それを、お前たちは成し遂げた。


『自分の信じる神様のためなら、なんだってしてあげたい。』


 京介はこう言っていた。だがそれは、きっと蒼も同じだろう。

 蒼にとっても、京介は神様のように見えていたはずだ。そうでなければ、太陽がこんなにも眩しいはずがない。


 わたしだって、流にとっての神様でありたかった。互いのためになんだってしてやりたいと思い合うお前たちのようになりたかった。


 そうだ。わたしは、わたしはお前たちがうらやましい。


 わたしはお前たちのようになりたかった。だがそれは、裏を返せば自分には到底無理だと感じていたことの現れに過ぎない。すでに持っているものをうらやましいと思って欲しがるはずがない。

もし、わたしがお前たちのようになれていたら、そもそもうらやましいなんて感情は抱かない。


わたしは覚悟ができなかった。

 流のためになんだってやろうと決めてしまったら。わたしはうみなりを再臨させなければならない。それがあれの望みだから。

 でも、それはダメだ。ダメなんだ。


 うみなりは外から来た侵略者だ。この星とは相容れない。そんなものを蘇らせるわけにはいかない。


うみなりは、必ずやこの星をめちゃくちゃにするだろう。


 この星に生きる種族は、それぞれの種の繁栄を目指して生きる。太陽は地球から遥か遠く離れた場所で、燦々と輝き続ける。雨は大地を遠慮なく濡らす。雲は風に乗って流れるし、海は気ままに青い。

 そこに”誰かのため”という意思は存在しない。すべてが勝手に起こって、互いを利用しながら生きている。だが、うみなりはそれを変えられる。


 人が生きているのは神のため。太陽がまぶしいのは神を照らすため。雨が降るのは神を潤すため。風が吹くのは神を包むため。海が青いのは神に美しいと思ってもらうため。

 そういうことにできるのだ。いや、昔からそうだったことにできるのだ。


 こんなの、世界が滅びるのと大差ないだろう。全てが神のためだけに消費される世界など、繁栄の余地はない。


 赤ヶ原流。まごうことなき狂信者。杭を暴いて、人工的に御子を生み出し、たった1人で楔の起動にまでたどり着いて、本当に神を蘇らせてしまった。わたしの愛しい人。

 そうだ。愛していた。愛していたから、全てを捨ててでも、あれを裏切ることになったとしても、わたしはあれを止めたかった。

 だからここまでやってきた。


あれに、世界を滅ぼすなんてことをさせるわけにはいかない。

そんなこと許容できない。それだけはダメだ。


 わたしは覚悟ができなかった。流を愛しているのに、流のためになんだってやる覚悟ができなかった。


「流…」


 できないのであれば。それでもいい。

 京介だって、覚悟ができない自らを受け入れた。わたしは、それをすぐそばで見てきただろう。


わたしは、流を止めよう。


 わたしの中で一番はっきりとした感情は「あれに世界を滅ぼさせるわけにはいかない」ということだ。で、あれば、それに従うまでだ。


 相手を思い合う力で神に打ち勝った2人を、弦空は見たことがあった。それだけで十分なんだ。


 弦空は流を見やる。


 不安定な砂浜を踏みしめて、弦空を迎え入れるために両腕を広げる流の元へ歩みを進める。


 さぁ、流。もう終わりにしよう。

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