27.さようなら

 弦空は流の元に歩みを寄せ、彼/彼女のか細い身体を抱きしめた。自らを包み込んだ低い体温に、喉が詰まるような思いを抱く。


「愛する人と一緒にここまでたどり着けるだなんて、素敵ね」

「そうだな」


 右手で流の腰を抱いて、ぐっと自らの内側に引き寄せる。流もそれに応えるように、弦空の背中を抱きしめる。


 弦空の肩に顔を埋めながら、流が安心したように小さく息をつく。

流は、そうだな。昔からこうだった。

 誰よりも努力を惜しまない、高貴な人。自分の力だけでどこまでも駆けていけるのに、誰かと一緒にいたがる不思議な人。


 自分は、この人のことをどこまで理解していたんだろうか。多分、全くわかっていなかった。

 理解の範疇に収まらないからこそ、その美しさの正体に惹かれ、愛してしまったのかもしれない。


 開いた方の左手の手元に、小さなナイフを出現させる。赤いだけで、何の飾りもないいびつな刃物。エーテルの具現化。流が何度もやっていたことだ。


 燦々と輝く太陽が、ただ静かに我々を見下ろす。

 まだ、引き返せるのだろう。今ここで全てを諦めて、左手のナイフをどこかに放棄したとしても、頭上の太陽は文句ひとつ言わないはずだ。

 まだ引き返せる。でも、どうしてだろうか。躊躇すらあれど、自らの選択に迷いは浮かばない。


これでいい。これがわたしの選択だ。


 弦空は、隠し持ったナイフで、腕に感じる僅かな躊躇いさえも切り裂いて、流の脇腹を背後から貫いた。


 刃先は、容赦なく皮膚を断ち、肉を貫き、魂の根本にまで達する。

 致命傷だ。もう助からないだろう。手ごたえでそう感じる。

「そう」

 微かに呻き声を漏らし、流が呟く。何の感慨も含まれていない、無機質な声色。

「答えを出したのね」

「…あぁ」

 即席のナイフを引き抜き、どこかへ放り捨てる。刃物がせき止めていた血液が、傷口からみるみるうちに溢れ出て、流の身体から失われていく。

 視界の隅で、緩やかだった水面に波紋が広がる。ナイフが海に落ちたのか。


 弦空は、空になった両手で流をしかと抱きしめた。

「わたしはお前を愛しているよ。だから殺す。お前に世界を滅ぼしてほしくないんだ。お前にそんな真似をさせたくない」

 流の身体が力を失う。弦空の背を抱くそれの手がずるずると下へ降りていく。


 弦空は膝をついた。腕に流を抱えたまま。

 彼/彼女の体重を支えきれなかったのだ。ついに膝を折ってしまった。

 柔らかな砂浜が、2人をそっと受け止める。


「お前を殺し、権限を奪い、楔を破棄する。うみなりの存在をあやふやにする! 京介と蒼なら、きっとうみなりに打ち勝てる。わたしだけではできなかったことだ。彼らとともにお前を止めよう。お前の神に打ち勝とう」


 その人は凛としていた。今にも死に絶えようとしているにもかかわらず、ただじっと、弦空を見つめていた。


「これが、あなたの神のための行いなの?」

 自らの肉体を蝕んでいるはずの死や痛みを、流は恐れることなく受け入れていた。むしろ、今すぐにでも死に絶えてしまいそうな彼/彼女の麗しい瞳の奥に映る人物の方が、沈痛な面持ちで佇んでいた。

「あぁ、自分の神に、世界を滅ぼさせるわけにはいかない」

 流は緩やかに微笑んだ。

「そう」


「でも俺の神様はうみなり様だけよ」


 弦空は肩をすくめる。

「それは残念だな」

 叶うのなら、お前の神様になりたかった。互いにとって互いが一番都合の良い存在になりたかった。お前のためになんだってやってやろうと、そう決意したかった。


「さよならね、弦空」

「あぁ、さよならだ」


さようならだ。わたしの神様!


 弦空は、流を見送った。

 静かな波打ち際で。どこまでも続く青い空に見守られ、そのひとは鼓動を止めた。瞳を閉じて、眠りについた。


よかった。お前を愛しているということを思い出せて。

 

 弦空は顔を上げ、水平線の向こうを見やる。


ここがわたしの終着点。随分と美しいところにたどり着いたものだ。


 懐かしい体温をみるみるうちになくしていく流の身体から、楔の権限を奪う。そして、そのままそれを捨てる。


アンインストール。システムの完全削除。

完全削除だ。


楔ごと、わたしも消滅する。


「あとは、お前たち、ふたりで…」


 強烈なめまいとともに、全身が冷えていくような感覚に見舞われる。

 目の前が徐々に暗くなっていき、足元の柔らかな砂の感触も、頭上から降り注ぐ太陽の暖かさも、膝の上に感じる確かな重みも、何も感じられなくなる。

なるほど、命の終わりとは、案外心細いものだ。


 流の亡骸を抱きしめる。わたしはこれでさよならだ。ここまでだ。わたしは役割を全うした。わたしにできるのはここまでだ。


 ゆっくりと目を閉じる。瞼の向こう側に透けて見えるのは強烈な輝きだ。


『弦空』


 流が弦空を呼んだ。毒気のない、純粋で、気の抜けた笑顔。視神経が焼き切れる。それでも見ることをやめられない。


これは、わたしの一番大切な記憶。


 海の中から太陽を見上げた時のような強烈なきらめきが、心臓をつかんで離さなかった。

 あぁ、流。わたしの愛したひと。わたしのきらめき。会えてよかった。心細かったんだ!

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