25.深海のヴェール
「あ、れ」
ふと気が付いて、京介は身を起こす。
どれほど時がたったのだろうか。気が付けば身体は自由に動く。
「俺、どうしてたの?」
手元を見る。ピンピンしている。五体満足だ。どこにも痛みはない。流と交戦して、血に呑み込まれてぶっ倒れたんだっけ? いまいち記憶がはっきりしない。頭の奥に霧がかかったようで、うまく思い出せない。
おかしいな。なんだかすっごく寒い気がする。
皮膚を刺すような冷たさに身震いする。冬特有の気温の低さ、というよりも、冷たい水の中にいるような感じ。確かに、ここ数日の間はとても寒かったけど、でも流石にこれは寒すぎるんじゃないかな。
「田中さんは? 蒼ちゃんも、どこ?」
そういえば、蒼が呼びかけてくれていた気がする。心配そうにしていたのを覚えている。
蒼ちゃんは結構心配性なところがある。この前だって、傘を忘れた俺をわざわざ職場まで迎えに来てくれた。
その時とおんなじだろう。ここまで来てくれたんだ。じゃあきっと近くにいるはずだ。
あたりを見回す。ガラスのような透明な物質で形成された不思議な空間。
すぐ傍では杭が静かに横たわっている。ダメだな。手を放してしまったのか。田中さんから預かったものなんだ。ちゃんと持って帰らなきゃ。
1つの石を削って作ったような奇妙な刃物。エーテルに特攻があるとのことだが、正直なところよくわからない。特攻って何なんだろうな。刃物で刺されたら普通に危ないでしょ。特別に威力が出るとか言ってる場合じゃない気もするけど。
とは言え、自分はすでに流と何度か戦った身だ。特攻の意味は理解していないにしろ、それがどういうものかは見たことがある。
そもそもの話だが、エーテルが何なのか、はっきり理解できているのか自信がない。なんかこう、神様の血液そのもの、みたいなものだったはず。
そういう得体の知れないものを切ることができる刃物、か。いったいどこで作られたんだろうか。
落したそれに手を伸ばす。いや、伸ばそうとした。
「あ」
たまたま、視線がそれを捉えた。偶然にも見てしまった。
あれは
心臓が恐怖によって圧迫された。目が、脳が、心臓が。あれを捉えることを拒否しているのに、完全に囚われてしまった。
人型の何かがそこにはいた。
呼吸が止まる。脳に酸素が回らない。全身を駆け巡る血液が停滞する。心臓が拍動することを諦める。
それは、ただじっとそこに佇んでいた。空の向こうで星が瞬くように、東から太陽が昇るように、海の色が青いように。
さも当たり前のように、それはそこにいた。
小さな人影が、真っ黒なヴェールを戴いている。
きらびやかで、透き通っていて、神秘的な、ウエディングヴェールを彷彿とさせるそのヴェールは、暗闇そのもので染めたような、艶やかな姿をしていた。
陽の光が当たらない、それでいて、何があってもおかしくない深海を思わせるような真っ黒なヴェール。
その奥に、理解できないものを見た。
ヴェールを被ったそいつは、不可思議な姿をしていた。
血管だった。いや、血管だけだった。毛細血管のような細い血管が幾重も絡まり、人のような形をしている。
「蒼…」
無意識に、理解した。
あれが、うみなり様だ。あれだ。あれしかない。
あのヴェール。そうか、深海のヴェール!
あれが深海。生命の根源たる海の底の底。
深海が地表に存在するのであれば、この星のすべては海の中だ! もう世界は海でいっぱいだ。もう、もうダメだ。あれがうみなり様だ! あれがここにあるということは、蒼ちゃんは…!
ただ、それを見ていることしかできなかった。
あぁ、そうだ。思い出した。俺は流にやられて、自分が自分じゃなくなった。蒼ちゃんは、俺を助けようとしたんだ。完全に流体化して、波を作る。それで流を、文字通り押し流したんだ。俺の中から。
俺は勝てなかったんだ。俺は蒼ちゃんを守れなかった。それどころか守ってもらった。
さっきの波で田中を持っていかれた。楔だってそうだろう。あれは楔をも呑み込んで、もうこの星に定着した。
あれは確かに存在する神。
幻や偶像の類ではない。確かにそこに成立する神性。
実体を伴った、未知の生命。
うみなりの再臨をゆるしてしまった。
悲鳴をあげてしまうかと思った。目の前の光景に耐えられなくて、叫び出してしまうかと思った。
でも、叫び声をあげるだけの気力はもう存在しない。喉から空気が漏れ出るだけだ。
蒼を失ってしまったという事実だけが、異形の姿を見てしまったという恐ろしさよりも重く、それでいて的確に、京介の心臓の一番もろい部分を砕いたのだ。
もうダメだ。こんなのあんまりだ
ごめん。ごめん。蒼ちゃん。俺のせいだってわかってる。俺は流に負けた。負けたんだよ。俺を助けるためにそうなったんでしょ。わかってるよ。わかってる。ごめん。怖かったでしょ。本当にごめんなさい。俺、何にもできなかった。友達なのに。
ごめん。
京介は目を閉じた。
もう何も見たくない。聞きたくない。だって意味がないんだもん。ここは海。海になってしまった。
蒼ちゃんはもういないんだ。もういないんだよ! 俺の神様はもういないんだ。
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