24.待ちわびていた

 目の前がぐるりと回る。何が見えているのかわからなくなるほどの強烈なめまいに襲われ、京介はその場に倒れ伏した。とてもじゃないが立っていられない。世界が360°回っているはずなのに、一向に元の景色に戻らない。


 カラン、という軽い音を立てて杭が床に落下する。

 あぁ、ダメだ。あれだけは手放しちゃいけない。視界の端でおぼろげに光る刃を掴もうと、必死になって手を伸ばす。伸ばそうとしたのだ。が、出来なかった。見えない糸に縫い留められてしまったように、全く腕が動かないのだ。指の1本に至るまで、ほんの少しも曲げることができない。どうしてだ。


 視界の中から赤い波は消え去っていた。"全て"が傷口を入り口に、京介の内側に入り込んだのだ。


 ぐるぐると回る視界の端で、文句を言うように明滅する杭が、どんどんその光を弱めていく。杭自体が光を弱めたのではなく、京介が光を視認することができなくなっていた。


 強いめまいのせいで目を開いていることさえ苦痛になり、ダメだとわかっていても目を閉じてしまう。歯を食いしばって必死に耐えるが、めまいはおさまる気配がない。全身を荒波にもまれているような、強い力で身体を揺さぶられているような感覚だ。倒れているはずなのに、自分が立っているのか、座っているのかさえよくわからなくなる。

「…!……」

 誰かが名前を呼んだ。聞きなれた低い声。多分、田中だ。田中が名前を呼んでいる。心配してくれているのか。


 なんだかひどく他人事のように感じる。徐々に彼の声も遠くなって、遂には何も聞こえなくなる。


………


……


…………


 気が付けばめまいは引いていた。いや、感じなくなっていた。すべての感覚が消え失せていたのだ。倒れ伏した床の冷たさも、脳そのものがぐるぐるとかき混ぜられているような不快なめまいも、必死に呼びかけてくれている誰かの声も、もう何も感じない。


「何が起こったかわかる? 俺の血をキミに明け渡したの」

 楽しそうな笑い声が、どこかから響いている。もしかして、自分が喋っているのか?

「血は魂の本質そのもの。キミの血を俺の血に置き換えたらどうなると思う?」


「キミは俺になるの」


「最初からこうすればよかった。”俺” を見たら、蒼は選択せざるを得ない」


俺はなにを言っている?


「あぁ、うみなり様がいらっしゃった。うみなり様だわ」



「先輩」


 肩を強く揺さぶられ、京介はふと、我に返った。

「あ、れ…」

 はっと現実に引き戻される。鮮明になった視界の中心で、心配そうにこちらの顔を覗き込む誰かがいる。


「蒼ちゃん?」


 目の前にいる人物は、とても綺麗な顔をしている。初めて会った時はまだ赤ん坊だったのに。こんなにも立派になって…。

 いや、待て、違うぞ。蒼が赤ん坊のころなんて知らない。俺たちが出会ったのは高校のころだ。放課後の空き教室。夕日と海が見える特等席。

 頭の奥がぼんやりする。熱に浮かされているかのように、思考がうまくまとまらない。


「どうしてここに」

 どこか怪我でもしているのか。額からはダラダラと血が流れており、左の瞼や頬、首筋をつたって、シャツの襟を血潮が汚してしまっている。

 形を保てていないのか。

 外部からの干渉に耐え切れず、意思に反して身体が溶け出してしまっているのだ。京介の肩を掴んでいた右手に込められた力は、徐々に緩んでいき、気が付けば、重力に従って腕がだらりと垂れ下がる。

「蒼、もうだめだ。早く意識を落とせ。はやく! このままではいけない。流体化するぞ!」

 田中は急かすように腕をバタつかせ、蒼のそばでスライム状の身体を震わせる。見ているだけで気の毒になってしまうほど狼狽えている。

 彼は昔からそうだった。ちょっとでも意外なことがあるとすぐ驚く。すぐ顔に出る。流は彼のそういうところが好きだった。

いや、違う。田中の昔のことを俺が知るはずがない。なんだこれは

田中? いいえ、彼の名前は


違う! 違う!

俺は知らない!


 思考がまとまらない。感情が制御できない。何かがまとわりついて離れない。

 俺はそんなこと考えない。俺はそんなこと思わない。はずなのに。


 頭を振って、何かを振り払おうとする。

 でもダメだ。何も変わらない。


「俺は…」


 流体化? そうだ。流体化。田中の言葉を京介は反芻する。そんなのはダメだ。待ちわびていた! ウソだ。待ちわびてなんかない。蒼を守るって決めたのに。何だってやってやるって。誰が? 俺が。俺ではなくって? そうだよ。いや、そうなのか? 神が蘇るのを受け入れられない? お前の神様なんて知るか。俺には関係ない。神が再臨されるわ。ふざけるな。それがダメなんだって! 蒼ちゃんは望んでない。俺も望んでない。俺は望んでいるわ。違う、やめろ。俺は。俺は、嫌だ。俺ってだあれ? 俺の名前は。蒼は御子。俺にとってはそうじゃない。蒼ちゃんは




「いや、もういいよ」


 蒼は、目の前に横たわる”誰か”の瞼を、左の手のひらでそっと閉じた。彼は瞼が閉じると同時に、その意識を失って、ガラスの床の上に力なく倒れ伏した。


彼はもう十分戦った。これ以上無理はさせられない。


 色落ちで、随分と明るくなった金色の髪を指先で梳かすと、柔らかな感触が皮膚を通じて伝わってくる。

 ただそれだけのことだが、蒼には、たったそれだけで十分だった。


この人はもう、休ませてあげようよ。だって、こんなのかわいそうだ。


「田中、ごめんな」


 心なしか、安堵したように目の端を緩める蒼に、田中は返事をすることができなかった。

「お前…」

 その目をやめろ。今すぐに! ついそこまで出かかっている反論の言葉全てが、そのまなざしだけでせき止められてしまう。やめろ。ダメだ。そんなことを京介は望んでいない。そんなことをさせるわけにはいかない。心臓の奥底から無限に湧き出す拒絶の言葉で、息が詰まって死にそうだ。


 蒼が何をしようとしているのかは手に取るようにわかる。かなりいびつになってしまったが“わたし”だって赤ヶ原の者だ。神についての教えは十分に受けている。彼が何をしようとして、何を得ようとしているのか。そんなことはわかりきっている。わかっているからこそ、彼の行いに賛同を送ることはできない。


 神を信じる人としては間違った所感であることはわかっている。

蒼の決意は”我々”にとっては待ち望んでいたことであったとしても、しかし、わたしは、わたし自身はそんなことを望んではいない。目の前で彼が犠牲になる様を、ただ指をくわえて見ているだけ、というのはわたしの主義に反する。それは“わたし” という人間を形作る最後の砦、いわば良心を根拠にする犯しがたい価値観だ。

わたしは、何としても蒼の決意を拒絶したい。

人として、友として、彼を失いたくはない。

 たった一言でもいい。やめてくれ、と、そう懇願したかった。どんなにみっともない様をさらしたって構わない。


 だができなかった。京介に注がれる蒼のまなざしからは強固な意志が読み取れる。ここで彼を止めようとするのは、わたしにとっては正しい判断だ。しかし、彼にとってはどうだ? ここで否定の言葉をかけることは、蒼のためになることなのか。


 田中、いや、”わたし”は思考した。

 仮に蒼を止めたとして、そのあとはどうする? 流にはもう何もできない。わたしや蒼に直接手を出すことはできない。が、それは京介も同じことだ。わたしたちはもう彼を頼ることすらできない。彼らは混ざり合って、互いが互いの領域を喰い合うだけの何かになり果ててしまった。

 目の前に横たわる男は、もはや京介という1人の人間ではないのだ。


してやられた! 流のヤツ、最初からこうするつもりだったのか。明け渡しを使って京介を脱落させ、蒼に選択を迫ったのか。

京介を救うために、神になれ、と


 この場から逃げることは可能だろう。逃げた後、直接的にわたしたちを狙う脅威は存在しない。だが、結局は袋のネズミだ。この町に仕掛けられた壁はもう突破できない。楔は止められない。ここから立ち去ろうが、蒼への干渉は永遠にそのままだ。彼の意識を落としたとしても、もはやほんのわずかな時間稼ぎにしかならないだろう。流体化は時間の問題だ。


時間が過ぎるのをどこかで待っていれば良かったものを、流はその時間さえ短縮しにかかったのか。なんてことだ。

杭という不安要素がある以上、流体化に時間をかけることを嫌ったのだろうが、それにしてもあんまりじゃないか


 蒼は、京介を救うことを選ぶだろう。だが、田中はそれを受け入れられなかった。蒼の流体化は、うみなりの再臨を意味する。蒼はいなくなってしまうんだ。そんなの、とてもじゃないが認められない


「ゆるしてよ」


 蒼は顔を上げ、田中へと視線を移した。彼は微笑んでいた。柔らかで、少しでも手を触れれば壊れてしまいそうな、儚い表情。彼とまともに目を合わせたのは、これが初めてかもしれない。


 心臓のどこかが、音を立てて軋んだ。


「俺さ、ちょっと安心してるんだ」


「ずっと怖かったし、嫌だったけど…」


「それで、この人のためになれるんだったら、それでもいいかなって」


 蒼は、自嘲気味に肩をすくめる。

 明らかに、無理をしている様子だ。


 かわいそうに。心底気の毒に思うよ。うみなりさえいなければ、彼は、彼らはこんな思いをせず済んだのに!


 これはわたしのせいでもある。そもそもあの時、流がわたしに杭の実験を持ち掛けたあの時、わたしが流を止めてさえいればこんなことにはならなかった。わたしは流を止めなかった。御子を人為的に生み出すための実験に加担した。

 蒼はおそらく、わたしの姉の孫、もしくはひ孫にあたるのだろう。あの実験の折、エーテルを投与されたのはわたしと流、そしてわたしの姉の3人だ。


 本来なら、この時代に御子が誕生するはずがないのだ。赤ヶ原の一族は代々エーテルを受け継ぎながら、その質量を増やしていく。

 わたしの世代ではまだまだ”少ない方”だったのだ。たった2つか3つの世代を経ただけで、人体のすべてを満たすほどの量に到達できるはずがない。


 で、あれば、蒼は、人為的にエーテルの量を増やした我々3人の中の誰かの血を受け継いでいるに違いない。

 本来であれば、蒼は御子として生まれずに済んだのだ。それを、我々は捻じ曲げた。わたしは、彼の人生を狂わせた。


「…お前が決めたのなら構わない。わたしは反論をしない」


 やっとのことで返事をする。彼は、ただ笑うだけだった。


 蒼が立ち上がり、踵を返す。2、3歩ほど歩みを進めると、遂に右の腕が脱落し、床にべしゃりと落下する。落下の衝撃がトドメとなり、形が崩れてしまったそれは真っ赤な血だまりとなって床の上に広がった。


 片腕を失ったことを歯牙にもかけず、蒼はゆっくりと振り返る。

 そして、ただ1人だけを見つめる。


「あなたを守るよ」

 やわらかな、どこか満足げな表情で蒼は微笑んだ。

「俺のために」

 次の瞬間、蒼は、姿を変えた。流体へと変貌し、形のすべてを失った。


 田中は安堵していた。この光景を京介に見せずに済んだことに、どうしようもなく安堵した。


 ついさっきまで蒼がいた場所から、ついさっきまで蒼だった真っ赤な液体が広がっていく。

 瞬く間に、流体は波となって田中と京介に襲いかかり、容赦なく呑み込んでいく。


 波というものは、寄せては返すものである。前方からそれが押し寄せてきたのであれば、後ろから押し返されるというのは当然の帰結だ。


 田中は、目を閉じた。


 背後から強く押されるような衝撃に身を任せる。半球体の、矮小なだけの肉体は抵抗することさえせず、ただ、波にさらわれた。

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