10.食べ物の恨みは恐ろしいって言うじゃん


「行ってしまったな」

 京介が上っていった階段の先をじっと見つめる。蒼は返事をしない。小さくため息をつくと階段を数段上り、そこに腰かけた。先ほどよりも顔色は良くなっている。

 体調を心配し、大丈夫か、と声をかけたが、彼は素っ気なくそっぽを向いた。


 おそらく、彼は京介とは異なり、他人と関わることに積極的な性格ではないのだろう。初めて会った時は、田中の不可思議な姿をキモがっていた…、いや、顔をしかめていたが、驚くことはしなかった。

 田中を得体のしれない怪物として恐れ、嫌っているというよりも、ただ純粋に自分ではない他人として警戒しているのだろうか。状況が状況であるから、彼の警戒心は間違ったことではない。田中が自らの正体を証明できない以上、もしかすると敵かもしれないと考えるのは妥当なことだ。


 蒼は猫背であるからわかりにくいが、身長は180cmほどだろうか。華奢な体格をしているから小柄そうに見えたが、その実、京介よりも身長は高いのだろう。その顔立ちは端正で、聡明な印象を受ける。他人の心の奥底を見透かすような鋭い目つきをしており、若干の近寄りにくさを感じる。

 京介とはまったくもって正反対なタイプだ。


 京介の友人だというから、見るからにやんちゃそうな人物を思い浮かべていたが、その予想は見事に外れていた。派手な金髪が特徴的な京介、片や、生真面目そうな蒼。一見すると共通点などない真逆の人間同士が、一体どういう出来事を経てここまで親しくなったのだろうか。

 京介は蒼のことを仲の良い友人だと言っていた。そして、蒼も京介のことをそう思っているに違いない。蒼が京介に向けている信頼はかなり強固なものだ。

 京介は間違いなくいいヤツだが、どうして蒼は彼を手放しで信頼しているんだろうか。彼のどこが蒼をここまで引き付けたんだろうか。

 単純に、気になるところだ。

「お前たち、ずいぶんと仲が良さそうだが、どういう関係だ?」

「友達。高校の時に知り合った」

 蒼は冷たくあしらった。

「ふむ、なるほど」

 沈黙が続く。蒼との親睦を深めるチャンスだと思い、うまいこと会話を続けようとして声をかけたが、視線すら合わせようとしない蒼に気圧され、思わず言葉を詰まらせる。


 キーンという耳鳴りがしてきそうなほどの静寂に気まずさを覚え、新たな会話の糸口を探し始めるが、田中が話題を思いつくよりも先に蒼が沈黙を破った。

「アンタ、本当に何も覚えてないのか」

 探るような、警戒心を隠すつもりすらないトゲのある聞き方。露骨な敵意、とでも言えばわかりやすいだろう。ただでさえ鋭い蒼の目つきが、さらにギラギラとした光を帯びる。まるで鋭利な刃物のようだ。


「アカガハラ、うみなり様。この2つ以外は何も覚えていない」

 彼に不誠実な態度をとれば、その瞬間に自分の命はなくなるだろう。そういうある種の危機感を覚え、努めて真摯に振舞った。

「年齢も性別も、そもそも自分が何の生き物なのかすらわからない」

 ここで自分が不都合な存在だと判断されれば、今後の彼との交友関係は絶望的なものになるに違いない。

「気が付いたら町の中をさまよっていたんだ」

 蒼は黙ったままだ。

「京介が見つけてくれなかったらどうなっていたか。アイツには感謝している」

 冗談めかしてにっと笑う。自分が友好的であると理解してもらえるよう、人好きするような笑みを向けた。

「コーヒーもうまかったしな。サンドイッチも絶品だ」

 何かが琴線に触れたのか、蒼の顔が少しほころんだ。硬いつぼみが少し開いた時のような、柔らかで自然な表情。微笑んでいるとまではいかないが、張り付けたような無表情ではなくなっている。


 人間とは似ても似つかない姿をしている田中が、饒舌に日本語を話し、食事をありがたがっている様にギャップを感じ、思わずくすりとしてしまったのが蒼の心情だったが、田中はそんなことを知る由もない。


「チョコスナックは?」

「…へ?」

 不意を突かれ、気の抜けた声を発してしまう。意外な単語に目をぱちくりさせた。

 チョコスナック? 言葉を反芻するように思い返し、あぁ、と納得する。

「うまかった。いや、すまない。興味本位で手を付けてしまった」

 蒼は軽く首を振った。

「いいよ。もう怒ってない」

 言葉とは裏腹に、蒼は鋭い視線を再び田中に向けた。からかうように田中への恨みを持ちだした先ほどとは打って変わって、彼はぴしゃりと言い放った。

「アンタが先輩にとって都合の悪いヤツにならないうちは」


 なるほどな。蒼がなぜ、自分を警戒するのか。その理由がはっきりとわかった。てっきり人嫌いだからと思っていたが、それは軽率な判断だった。本当に、彼らはどうしてここまで互いを思うことができるのだろうか。


「…安心しろ。京介を害するつもりはない」

 田中は続けた。

「お前に対してもだ。」

 蒼は答えない。探るような眼差しで的確に田中を射抜いている。


「京介やその友達であるお前を傷つけたところで何も得がない、と言えば納得してもらえるか? お前たちの庇護を失えば、わたしは間違いなく野垂れ死ぬ。わたしが矮小な存在であることはパッと見ただけでもわかるだろう。」

 ここで蒼の信用を得る、いや、警戒を解く手段として、ひたすらに敵意がないと説明することはふさわしくないだろう。

 より確実で、より効率的で、かつ、シンプルなやり方。それは利害関係の提示だ。京介たちと行動を共にすることで田中が得られるメリットと、京介たちを傷つけた際に田中に降りかかるデメリットを説く。


 もちろんわざわざ言われなくても、蒼はそのくらい理解しているに違いない。が、ここで必要なのは田中自身がそれを理解しているかどうかを示すことだ。相手にわからせるのではなく、自分がわかっているということを伝える。


 蒼からしてみれば、田中は親愛なる先輩の隣に突然現れた奇妙な生き物に過ぎないのだ。自分が守られていることを理解できる知能と、自分を守ってくれる相手を後ろから刺すような愚か者ではないことを証明しなければ、蒼は一種の不安要素として田中をカウントし、警戒し続ける。


 蒼から睨まれ続けるというのは不本意だ。万が一の時に協力し合えないというのは避けたいし、ここで知り合ったのも何かの縁。どうせなら仲良くなりたい。友達だと思ってもらいたい。


 記憶を全て失うというのは、強烈な喪失の体験だ。京介にとっての蒼のように、蒼にとっての京介のように、田中にも確かな心の拠り所があったはずだが、何も思い出せない。あったはずだという喪失だけが心の中で渦巻いている。つまり、孤独なのだ。

 孤独な生き物がよすがを求めるというのは、極めて自然なことだろう。かつてのわたしにもいたのだろうか、手放しで信頼できる相手が。


 それに、彼の鋭い視線は心臓によくないしな。いや、実際問題、田中に心臓があるか否かはよくわからない。生きているから、きっとそういうコアのようなものがあるに違いないのだが、鼓動のようなものは感じない。が、とにかく蒼の刺すようなまなざしは田中にとって心地が良いものではなかった。蛇にでも出くわしてしまった時のような、そういう原始的な不快感を催してしまう。

 蒼が何かを言いかける。が、次の瞬間、叩き付けるような轟音が空間を貫いた。

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