11.修正中

 廊下のつきあたりに作られた階段のすぐ隣。何の変哲もないと思っていた壁が突然大きな音を立てて崩れていく。

 あの壁はハリボテだったのか。崩れ行く瓦礫の厚さからそう判断する。3cmほどの厚さの白い材質はそこまで頑丈そうには見えない。瓦礫は内側から外側へと飛び散っている。つまり、ハリボテの向こうから何かがやって来て壁を押し破った。


 壁の向こう側にある何かを確認し、田中はついに心が折れてしまうような気がした。

 生き血をたっぷりと吸ったヒルを思わせるような大きなからだ。頭部と思しき上体の切れ端には目や耳といった感覚器官は見当たらず、どうやって外界を観測しているのか見当もつかない。胴体のあたりから枝のように生えている腕の先には鋭いかぎ爪がギラギラと危険な光を放っている。触れただけで指先を失ってしまいそうだ。田中の肉体には指先など存在しないが。

 そもそも、ケガをするのかどうかすらわからない。定まった形を持たない流体のからだを、ただの刃物でスパッと切ることができるだろうか。

 しかし、田中は今生きている。生きているのだから確実に死ぬ。


確実に、あれに殺される


 あれがなんなのか、それは田中の知ったことではない。どうでもいいのだ。あれの正体なんて。

 あれは少なくともこの世にいてはいけない存在だ。何かの間違いで生まれてしまったシミのようなもの。

 世界を味わうための目や耳、皮膚、鼻、口はそもそも肉体のデザインの中に組み込まれていない。あるのは刃物のようなかぎ爪だけ。すべての命あるものを傷つけることしかできない冒涜的な怪物。


 逃げなければ。正面から立ち向かったところで勝ち目はない。田中はあれに立ち向かうすべを持たない。

「蒼、こっちに来い!」

 急にどうして、と、うわごとのように呟く蒼の手を引き、玄関口までひた走る。蒼は一度あれに打ち勝っているが、それは背後からの奇襲に成功したからだ。こうして正面からぶつかってしまった以上、あれと戦って勝つなど現実的ではない。


 あれは自分の身を守ろうとはしないだろう。威嚇をしたって意味はない。我々を傷つけようと一直線に向かってくるはずだ。

 囮になろう。玄関から外に出てヤツを引き付け、何とかして屋敷から引き離す。それしか手はない。

 田中は思考を巡らせた。自分の身体は人間の頭ほどしかない。要は的が小さい。全力で逃げればそうそうやられることはないはずだ。いずれは追いつかれて死ぬだろうが。

 1体のスライムが一塊のホウ酸になり果てたあたりで、1階での騒ぎを聞きつけた京介がここへやってくるはずだ。

 ホウ酸に気を取られた怪物の後ろに2人が駆け付け、カタをつける。彼らはそれで助かる。


 問題は怪物が田中だけを狙ってくるかどうかだ。挑発をしたところでヤツはそれを認識しない。より近い場所にいる方を狙ってくるはずだから、先に蒼を逃がす。

 だがもし、あれが田中に目もくれず蒼を襲ったら? その時、自分は蒼を守れるだろうか。

 後ろに視線をやる、廊下の向こう側からじりじりと這い寄る異形の姿にはっきりと恐怖を抱いた。だがふと、その様子に違和感を覚える。


なぜ走ってこないんだ?


 ヤツが兼ね備えている機動力はかなりのものだ。今朝、それは身をもって味わった。ヤツがその気になれば、瞬きするほどの速さでこちらを襲えることは明白な事実だ。

 言葉を話さなくとも、表情に出なくとも、ヤツはこちらに対して疑いようのない害意を抱いている。しかし、しかしだ。ヤツは襲ってこない。ゆっくりと、両腕を使って床を傷つけながら近寄ってくる。

 こちらの反撃を警戒して距離を取っている、というわけではないはずだ。ヤツに身を守ろうという気はない。あるのは目の前の生き物を傷つけたいという欲求だけ。

 まるで舌なめずりをして獲物を追い詰めるような、対象を嘲るような、ある種のいやらしさを怪物の中に見出し、田中は心底ゾッとした。


 人間みたいだ。勝ち誇った人間が抱く優越感。自らがこの場を支配しているという快楽を余すことなく享受している。

 最悪だ。こんな、人とは似ても似つかないような異形の中に人間性を見出すなんて。

 こんなヤツに殺されるのか? そんなのごめんだ。田中は怪物を睨みつけた。


 自分だって人とは似ても似つかない姿をしている。目の前の異形と同類の怪物だと忌み嫌われ、石を投げられたって文句は言えない。それは理解している。


 だが、わたしとヤツとは違う。世界を味わい、考える機能がある。目以外の耳、皮膚、鼻、口などの器官が見当たらずとも、その機能はたしかにある。それに、自分や誰かを守りたい気持ちがある。これは生き物としてのプライドだ。

 わたしは人間ではないかもしれないが、少なくとも生き物だ。こんなものに害されるなど不本意極まりない。


 蒼を背に庇うように怪物と向き合う。走れ、そう合図を送ろうとした刹那

「ちょっと待ったあ!」

 大声で叫びながら階段を勢いよく駆け下りてきたのは、派手な金髪の青年だった。彼は右手に握りしめていた黒い物体を、渾身の力で怪物目掛けて投げつける。


スマートフォンか。

 怪物の後頭部と思しき場所にぶつかったそれは、ガツン、と音を立てて床をバウンドし、液晶画面に激しい亀裂を走らせた。


 後頭部への衝撃とともに背後にいる京介の存在を察知した怪物は、飛び跳ねるように両腕を使って身体の向きを変えると、一目散に飛びかかる。

「先輩!」

 それはあっという間の出来事だった。怪物の魔の手から逃れようと振り向き、階段を駆け上がろうとする京介の背後を、凶悪な刃が容赦なく切り裂いた。


 この場にいる誰もが、悲鳴さえ出すことができなかった。ただその凄惨な光景を見ていることしかできなかった。


 何の加減もなく振り下ろされたかぎ爪は、京介の背中に大きな傷を作る。傷口からは信じられないほどの血が流れだす。その光景は破裂した水道管を想起させた。


「あぁ、京介!」

 あれではもう助からない。しかし、怪物は容赦なくもう一方の腕を振り上げる。いや、振り上げようとした。


 怪物は空中でぴたりと動きを止める。すると何を思ったか、自らの肉体にかぎ爪を突き立てる。


 田中は自分の正気を疑った。これは何だ。何を見せられている。

 怪物は何の躊躇もなく爪を引き抜くと、空気の抜けた風船のように力なく床に倒れ伏した。徐々にその輪郭はおぼろげになり、廊下の上にじわじわと真っ赤な血だまりを作っていく。傷口から出血しているのではなく、体そのものが溶け出して血に変わっているようだ。


 間違いなくヤツは死んだ。自殺した? しかし、目を疑っている暇はない。それどころではない。


 田中は、横たわる京介の元へ駆け出した。

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