2.会えてよかった。心細かったんだ!

 通りに停めていたロードバイクを回収し、走り出す。繁華街を抜け、慣れ親しんだ住宅地に入る。普段なら曲がらないはずの角を曲がった。見通しが悪いからと使うのを避けてきた道だが、ここを通ると近道ができる。


 推奨されるべき行為でないことはわかっているが、ペダルを漕ぎながらもあたりを見回すことをやめられなかった。繁華街の中に誰かを見つけることができなかった以上、住宅地に人影を発見できるはずはないのだが。

 せめて勤務先に立ち寄るぐらいはしたかったが、店は赤い壁の向こう側だ。同じ時間帯にシフトを入れているバイトくんがいるのかいないのか知りたかったんだけど。

 

 勢い良く角を曲がる。やはり誰も見当たらない。ひとりでに胸の鼓動が速くなり、こめかみに冷や汗が伝った。また角を曲がる。

「うわっ!」

 角を曲がった先で見てしまったものに思わず悲鳴があがる。道路の真ん中を陣取る人の頭ほどの大きさのそれを視線にとらえた時、京介は本能でブレーキを踏んだ。ぶつかってしまう、という危険予知に基づいてブレーキを踏んだのではない。見つけてしまったそれに近づきたくなかったからだ。

 勢いをそのままに急停車しようとしたために、タイヤが哀れな悲鳴を上げ、その衝撃でバランスを崩した京介は勢いよくアスファルトに倒れ込んだ。全身に強い衝撃。一瞬だけ呼吸が苦しくなる。厚着をしていなかったらひどい擦り傷を負っていたかもしれない。

 打撲によって鼻の奥がツンとする。起き上がろうとして身をよじるが、片足が倒れたロードバイクの下敷きになっており、無理に引き抜こうとするがズボンのすそがスタンドに引っかかってしまい動かせない。


ヤバイ


 直感でそう察したあと、恐る恐る視線をあげてそれをとらえた。こちらに気が付いたのか、それはぐるりと方向を変えると、じりじりとこちらににじり寄る。それは非常に名状しがたい姿をしていた。


 成人の頭の大きさほどの、赤一色のでろでろとした粘り気のあるなにか。京介の記憶の中から近しいものを探し当てるとするのならば、こどものころに慣れ親しんだ玩具だ。某有名ゲームにも登場する大人気のモンスター。そう、スライムだ。


 一口にスライムのようなものと形容してしまえばかわいらしいのかもしれないが、突然目の前に現れてプルプルとからだを揺らしながら、身動きの取れない京介のもとに近づいてくるそれは恐怖をかきたてるだけの立派な怪物だ。それがじっとしたまま道の端にでも転がっていてくれれば、それは道に捨てられたよくわからない物質で、京介はそれに驚いて転んでしまった哀れな若者で済んだはずだ。


 だがそれはズルズルとからだを引きずりながらゆっくりと、確実に近づいてくる。生き物なのか? なにをしてくるかわからない、未知の怪物に顔が引きつった。こんなもの見たことがない。はっきりいって見たかったというわけでもない。幻覚であってほしい。風邪を引いたときに見るたちの悪い夢であってほしい。そんな願いもむなしく、得体の知れないそれはどんどん距離を詰めていき、倒れ込んだ京介の目と鼻の先でピタリと動きを止める。

 なんの比喩でもなく視界いっぱいに広がる得体の知れないそれは、まるで血のような赤色をしており、非常に不気味であった。車にはねられたヒキガエルのような微かな呻きが喉から漏れる。


 やっぱりおかしい。こんなのありえない。この町に起こった出来事は自分の知る常識で説明できることではない。こんな奇妙なものが現実に存在しているはずはない!

 怪異だ。世界の根底を揺るがす奇妙な現象。確実に自分は巻き込まれてしまった。


「あっ…」


 ついに呼吸が止まってしまったかと思う。この出来事はたかが数秒のことだったかもしれないが、気が狂ってしまうには十分な長さだといえるだろう。


 目が合ってしまったのだ。それと。

 人間のものに近しい真っ黒な双眸に視線を絡み取られ、目をそらすことができない。


 たまらず絶叫した。

なんだこいつは。生き物か? なんの怪物だ。こういう時どうしたらいい。

 だが絶叫したのは京介だけでなかった。それもだ。理由はわからないが、それもわっと悲鳴を上げた。限りなくみっともない種類の、驚きによる絶叫。

「なっ、なんで叫ぶ? びっくりしたぞ」

 それは2つの大きな目玉をぱちくりさせながら戸惑いの声を上げた。いたって普通の低い声。声から年齢と性別を予測するのであれば、成人の男だ。


えっ、喋った…?

 京介はまた金切り声をあげる。絶対に出てきてほしくない場所から、馴染みのある流ちょうな日本語が飛び出してきたのだから無理もない。もう勘弁してほしい。

「まて、そう驚くな」

 だが目の前のそれは半ば呆れたように目を細め、スライム状のからだの両側面の一部を触手のようにくねくねと伸ばし、全身で左右にプルプルと震える。海外映画でよく見る手のひらを上に向けて肩をすくめてみせるような、いわゆるやれやれというジェスチャーだろうか。やけに人間臭い動作に思える。


「わたしの愛らしい姿にビックリしたんだろう。まぁ安心しろ。お前に害をなすつもりはない」

 こどもをあやすかのように、それはからだの左の側面から触手のようにでろでろとした一部分を伸ばすと、ぽんぽんと京介の額を軽くたたいた。ひんやりとした感触。痛みは感じない。若干ベタベタする。まるで乾きたての絵の具みたいだ。京介はそれの双眸をじっと見つめ返す。

「どうした? わたしの顔になにかついているか」

 目の前のプルプルは首をかしげるかのように身をよじる。意味不明な容姿をしているが、いやに人間らしさを感じる大げさな身の振り方に、全身の力が抜けていくのを感じる。京介はついに脱力し、冷え切ったアスファルトに突っ伏した。

「死ぬかと思った…」

 はりつめていた緊張の糸が切れ、大きく息をつく。鼓動が激しく脈打ち、胸が痛いほどだ。

「そんなに怖かったか? 結構かわいい姿をしていると思ったんだが」

「どこもかわいくない! なんなのお前は」

 申し訳なさそうに戸惑いの声を上げるプルプルに強く反論してしまう。なんだそのかわいい系モンスタームーブは。意味がよくわからない。俺はこんなのに驚いたのか。京介は肩を落とした。

 

ちらりとそれを見やる。京介の食い気味の主張を聞いたそれは、やや大げさに目を見開くと、気まずそうに視線を逸らす。

「なんだ、自己紹介か。申し訳ないがあいにく記憶喪失でな。話せることがない」

「えっ…、えっ…?」

 今度は京介が目を大きく見開いた。キオクソウシツってあの記憶喪失か?

「いやぁ、申し訳ない。名前もわからなければここがどこかもわからない。そもそも自分がなんなのかすら知らない」

 記憶喪失を自称するそれはカラカラと笑い声をあげる。

「まぁそういうことだ。なので教えてほしい。ここがどこでお前がなんなのかを」


 思わず唖然とする。誰も見当たらない心細さに耐えかねてチャリンコで爆走した結果、出会ったスライムのようななにかが都合よく記憶喪失?

 プルプルをじっと見つめる。それは確かに意味不明な容姿をしているが、冷静になって見てみれば直視できないほどのおぞましいなにかではない。日曜日の朝の番組に出てくる、ちょっと奇妙なマスコットキャラクターのような趣がある、と言えばわかりやすいだろうか。正直転んでしまうくらい驚くことはなかったんじゃないかな。

 所感だが、意思疎通は可能で害意があるようには見えない。ウソもついてなさそうだ。少なくとも今はそう判断できる。


 ふぅ、自然とため息がこぼれる。今日はツイてない。気が休まらない。

「ここは赤伊市の住宅街。俺は立花京介、お前にびっくりしてぶっ倒れたザコだよ。悪いけどチャリどけてくんない?」

 京介の言葉を聞いたそれは露骨に目を輝かせて表情を明るくした。友好の糸口を見つけた、と言わんばかりの表情。いや、正確に言えば表情などないのかもしれない。

 実際に見当たるのは液状の肉体と、おおよそ顔がありそうな部分にそれっぽく埋まった2つの眼球だけだ。強い粘性を持った液体がでろでろと重力に従って眼球に覆いかぶさっているのが、結果としてまぶたのように見えており、覆いかぶさった部分の揺れが表情に見える動きをしているだけだ。


 プルプルはまぶたのようなパーツを器用に動かして笑顔を見せる。人懐っこい印象。愛らしい姿というのもあながち間違いじゃなかったのかもしれない。少なくとも、彼は京介にとって不気味な存在ではなくなった。

「なるほど、京介だな。驚かせて悪かった」

 謝罪の意を述べながらプルプルは体の一部を伸ばして腕のようにし、京介に覆いかぶさっているロードバイクを軽々と持ち上げ、スタンドを下ろして路肩に停車させる。

「いや、俺も勝手に驚いただけだし、わざわざゴメンな」

 そこそこの重みから解放された京介はよろよろと身体を起こす。バイクの下敷きになっていた右足首がやや痛むが、歩行には問題ない。そのうちよくなるだろう。どちらかといえば右の肩が非常に痛む。右肩から倒れ込んでしまったのだろう。もしかしたら痣になってるかも、なんて考えながら立ち上がり、ロードバイクを見やる。

 皮肉なことに、自分が下敷きになったせいか目立った傷は見当たらない。初任給で買ったお気に入りのバイクちゃん。無事でよかった。ほっと胸をなでおろす。


「そういえば京介、かなり急いでいたようだが、どこに行こうとしていた?」

 プルプルの問いかけに思わずハッとなる。

「あぁ、そうだ。俺は家に帰ろうとしてたんだ」

「家にか?」

 普段は使わない、見通しが悪いことを理由に避けていた近道を使ってまで行こうとした場所、それは愛しの我が家。2DKの唯一無二の賃貸アパート。

「なんかよくわかんないけど、出勤しようとしたら不自然に誰も見かけなくてさぁ。だから帰ろうと思って」

 無意識に頬をかいた。誰も見当たらないのが不気味すぎて慌てていた、という点は恥ずかしさから隠してしまう。その言葉を聞いたプルプルは疑問を呈する。

「誰も見当たらないというのはわかる。わたしも気が付いてからお前以外の人間は見ていない。だがなぜ家に帰ろうとしたのだ? 他にも行動の選択肢はあったように思うが…」

 まぁそう思うよな。京介は同意した。プルプルが路肩に止めてくれたロードバイクのスタンドを上げ、ハンドルを持った。ほら、と視線で促して歩き出すとプルプルは京介のあとをついてくる。歩く速度は京介とほぼ同等だ。見た目に反して案外機敏、といったところだろうか。最初に彼が近寄ってきたときはこんなに早くはなかった。彼も彼なりに、京介のことを警戒していたのかもしれない。

「俺さ、友達と一緒に住んでるから、もしソイツがいなくなってたらイヤだなぁと思って」

「なるほど、確認したかったのか」

 プルプルは腑に落ちた、とでも言うかのように頷いた。実際にはからだのてっぺんをやや前に下げているだけで、結果的に頷いたように見えるだけ、というわけだが。

「そういえばなんて呼んだらいい? 勝手に名前つけていいなら田中さんになるけど」

 その提案にプルプルは目を丸くした。

「なぜ田中さんなんだ…?」

「いやー、テキトーに思いついただけ。でも日本でそこそこ多い苗字だし、もしかしたら正解かもよ」

 京介はにっと笑った。

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