3.バグじゃん! 早くどうにかして
雑談がてら情報共有をする。田中はふと気が付くとあの場所にいたようで、どうやら本当に何も知らないらしい。
「赤い壁?」
町からの脱出を阻む壁について伝えると、田中が首をかしげる。
「そう、赤い壁。昨日まではあんなものなかったんだけど…」
繁華街の中で見かけた奇妙な物体。あれがなんなのかはよくわからないが、少なくとも確実に、あれのせいでこの町に閉じ込められてしまった。
田中はあの壁を見たことはないようだ。
「突然現れた謎の壁に住人の失踪か、何故そう思うかを尋ねられると返事に困ってしまうが、まぁ無関係なことではないだろうな」
ズルズルとアスファルトの上を這いずりながら、田中は淡々と述べる。京介も同様に、一連の事態はすべて繋がっていると考えていた。
人の失踪、壁の出現、どちらも奇妙な出来事であるにも関わらず、同じようなタイミングで発生している。無関係なはずがない。それについて考えていく必要はあるだろうが、今は後輩の安否が気がかりだ。早く家に帰りたい。
ふと、アスファルトを踏んだはずの片足がずるりと滑る。柔らかい粘土を踏みつけた時の感触に近い。
「うっわ、びっくりしたー。またコケるかと思った」
幸い、気が付くのが早かったために、軽くバランスを崩した程度で済んだ。何につまずいたのか確認すべく、足元を見やる。
視界にとらえたのはどす黒い液体だった。アスファルトの上に水たまりのように広がるそれは直径1mほどで、その表面は荒々しく波打っていた。
「どうした、京介?」
突然立ち止まったことを不審に思ったのか、田中が京介に問いかける。だが言葉がのどに詰まって返事をすることができなかった。水たまりの表面が風もないのに激しく波打っている。気味が悪い。水たまりを踏みつけている足を離す。すると次の瞬間、水たまりの中から勢いよく巨体が飛び出した。
「は…?」
その巨体は人ではなかった。でっぷりとしたヒルを思わせるような醜い姿。人と同じくらいの大きさをしている。自分と比べると、ややソイツの方が高い。胴体から枯れ木のようにやせ細った腕が生えており、その先端では3本のかぎ爪がギラギラと光っている。ヒルのような怪物、といってもヒルはこんなに巨大ではないし、枯れ木のような腕も存在しないが。
それは片方の腕を天高く振り上げており、目の前の京介に狙いを定めていた。この位置では確実にやられる。
本能の中の、極めて重要な部分が警鐘を鳴らす。生存にまつわる本能だ。目の前に突然現れた怪物は、紛れもなく京介を害そうとしている。
その怪物には顔がなかった。腕の生え方から推測される頭部には、眼球も、鼻も、口もない。非生物的だ。口が存在しないというのなら、この怪物は恐らく食事を必要としていない。口は外側からエネルギーを受け取るための、生き物が生きるのに必要な器官だ。それがもともと存在していないにもかかわらず、命を狩るための行為に興じている。こんなの生命に対する冒涜だ。
こんなものに殺されてたまるか
心の奥底からふつふつと湧き上がったのは怒りだった。こんなわけのわからない冒涜的な存在に殺されるなんて冗談じゃない。唐突にアスファルトに広がる深さ数mmの水たまりから大きな何かが現れたというだけでも、京介の精神を脅かすには十分な出来事だ。加えて非常にメチャクチャな姿。おかしくなっても不思議ではない。
だが、今ここで冷静さを失えばどうなるだろう。自分1人がダメになるのはまだいい。その時田中はどうなる。
京介は歯を食いしばった。怪物は勢い良く腕を振り下ろす。
その隙を狙い、怪物の顔面らしき部分目掛けてロードバイクを投げつける。重量8kgほどの車体が鈍い音を立てて怪物の身体にめり込んだ。懐に入り込んだ打撃によって巨体を大きくのけぞらせた怪物のかぎ爪は空を切る。
「逃げるぞ!」
京介が叫んだ。田中が素早く身体の向きを変えたのを合図に、踵を返して走り出す。
「なんだあのバケモノは!」
アスファルトの上をするすると滑るように駆け抜ける田中が声を上げる。ひどく動揺した様子であり、その声色には恐怖がにじんでいる。その横を走りながら後ろを見やると、先ほどの怪物が枯れ木のような2本の腕を器用に使って機敏に這っていた。追いかけてきているのだ。京介たちを。
あまりの恐怖に気絶してしまいそうだ。夢なら覚めてほしい。ヒルに似た怪物は弾力性に富む巨体を激しく揺らしながら、手で這っているにしてはありえないほどの速度で京介たちを追跡していた。いわゆるロックオン。完全に狙われている。捕食の必要なんてなさそうな生き物に。
怪物の行為は害意そのものだ。京介はそう確信している。明らかに自分たちを傷つけるためだけに追ってきている。
怪物の手から逃れるべく、全力で走る。かなりの速さで逃げているつもりだが、怪物との距離は離れるどころか徐々に詰まっていった。追いつかれるのも時間の問題だ。どうにかして振りきれないだろうか。
恐怖の中に焦りが生まれる。恐れによって鈍った思考回路が、焦燥によってすり減っていく。冷静にならなければいけない。頭ではそうわかっていても、背後から迫る異形の存在に脅かされ、落ち着くどころか余計に恐怖をかき立てられた。怪物によってもたらされるであろう害を恐れているのではない。怪物そのものがたまらなく恐ろしい。
おかしくなりそうだ。住宅街の中を必死に駆ける。田中はしっかりと京介の隣を走っている。
角を右に曲がる。その先で見たものに京介は絶句した。
「壁が…」
赤い壁だ。繁華街で見た、この町からの脱出を阻む赤い壁。それと同じものだ。無慈悲に立ちふさがる不吉な壁に逃走を阻まれる。京介は恐る恐る後ろを振り返った。
「ここまでか…」
田中が呟いた。振り向いた京介がとらえたのは、道の真ん中にじっと佇むおぞましい怪物。退路を断たれてしまった。
全力疾走によって息が上がり、全身から噴き出した汗が外気によって冷やされ、体温を奪われる。
どうしたらいい。どうすれば
怪物は勝利を確信したかのようにゆっくりと道を這って、京介たちににじり寄る。
は?
その行動に、京介はひどい違和感を覚えた。脳を支配していた恐怖心の中に芽生えた違和感。今の動きはまるで…
ある考えが京介の思考からはじき出されるよりも前に、ドンという激しい音と共に、悠々と近寄ってきていた怪物の動きが大きく乱れた。
怪物の巨大な肉体はバランスを崩し、アスファルトの上に倒れ伏す。
頭部と思しき場所がぐにゃりと内側にへしゃげており、怪物はぴくりとも動かない。なにが起こった。状況が呑み込めない。
「先輩!」
怪物の向こう側から見知った人物が姿を現した。ハッとするほど端正な顔立ちに、華奢な身体。その手には金属バットが握られていた。京介が中学校に上がった時、父親に買い与えられたものだ。別に欲しかったわけではない。そもそも野球のルールなんて知らない。が、人からもらったものである手前捨てにくく、護身用にと家の玄関に放置していたが、まさかこんなところで役立つとは。
「蒼ちゃん!」
上に着ている白いパーカーの袖口は伸びきってヨレヨレだ。襟元も皺が目立つ。昔京介が着ていたものだ。
去年の衣替えの際、痛みがひどいからそろそろ捨てようかとゴミ袋に突っ込んだはいいが、まだ着れるじゃないですか、という彼の鶴の一声で命からがら洋服ダンスへと逃げ込んだ。あれ以来、彼の冬用の部屋着として活躍を見せている。だがそのままの格好でここまで来たのか? いくらなんでもパーカー1枚でここまで来るのはよくないぞ。絶対に寒い。下にはいているのもただのジャージだし、よく見れば靴もサンダルだ。まるで慌てて出てきたような恰好。
「間に合ってよかった」
「死ぬかと思った…。マジ感謝」
彼は
はぁーっと息を吐いて胸をなでおろす。緊張の糸が切れ、膝から力が抜ける。あぁ、助かった。助けてもらった。
京介はへなへなと地面に膝をつく。安心感から目に涙がにじむ。
「帰りましょうか。もう大丈夫ですから。うわ、なんですかこのキモいの」
「キ、キモい?」
抑揚のない無気力そうな声をあげつつ、蒼は田中を一瞥する。綺麗な顔は張り付けたような無表情を浮かべている。
突然現れた助け船に浴びせられた冷や水に、田中が戸惑いの声をあげた。が、蒼はそんなこと気にも留めず、即座に首を振る。
「いや、今はいいや。後で聞く。寒いから早く帰りましょうよ。聞きたいことが山ほどできたんで」
「あぁ、うん。そうしよっか。あっ、俺の上着でも着る?」
「あざーっす」
蒼は京介から差し出された上着をなんの遠慮もなくひったくる。
「ないよりマシ程度ですね」
ぶるりと肩を震わせた蒼の隣で、上着を1枚失った京介は自らの肩を抱く。
「まって、メッチャ寒いじゃん。エグいくらい寒い」
怪物の脅威から命拾いしたという安堵で京介は気が付かなかった。立ち去ったその場に残された怪物の死骸が、硫酸でもかけられたかのように溶け出し、水たまりへと姿を変えたことに。
「ほら、田中さんも行こう」
「あ、あぁ。わかった」
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