深海のヴェール

靖博

1.ツイてる日かと思ってたけどそうでもない

 ピピピ。やかましくて不愉快な音がする。眠気のせいで開かない目をそのままに上半身を起こす。ピピピ。そこまで大きい音ではないが、起き抜けに聞かされる電子音の不快感といったらたまったもんじゃない。目をこすりながら手探りで畳に転がっている目覚まし時計を探す。手に硬い感触。眠っている間に蹴飛ばしてしまったらしい安物のデジタル時計に指先がぶつかった。突然の打撃に抗議するかのようにわめくそれを手に取ってスイッチを切った。起きないと。京介は寝ぼけまなこで布団から這い出した。冬の朝特有のひんやりとした空気が全身を包み込む。なんか今日はやけに寒い。眠い身体を引きずって自室から抜け出し、いつも通りに洗面所で顔を洗って意識をはっきりさせる。


 立花京介たちばな きょうすけ赤伊あかい市在住の22歳。現在は市内の飲食店に勤務している。特技は料理だ。他にアピールできる点はない。

 寝癖でぐしゃぐしゃになった髪を櫛で整えながらあくびをする。先週染めたばかりの金髪が色落ちのせいかかなり明るくなっていて、ちょっと派手になりすぎじゃないかと考えるがまぁいいかと思い直した。京介の勤務している店は働き手の髪色をいちいち気にするようなところではない。なんなら、今度はもっと思い切った色にしてもいいかもしれない。例えばピンクとか。高校に通っていたころはもっと髪が長かったし、今よりもっとド派手な金髪で3年間を過ごしていたものだ。身内からは不評ではなかったし、またあの時の様な金髪にしても誰も文句は言わないだろう。


 櫛を元の位置に戻して洗面所を後にした。6畳のダイニングキッチンはやたらとひんやりしていてうす暗い。要するに暖房も電気もついていなかった。同居人はまだ起きていないようだ。同居人である彼は1つ年下の後輩に当たる。高校を卒業後に就職した京介とは異なり、現在は隣町の大学に通っている。今日は授業がないと言っていたから、もしかすると昼まで起きてこないかもしれない。

 京介は照明のスイッチを入れ、電気ストーブをつけて部屋を暖める。なにかニュースでも見ようと思い、テレビのリモコンを探すが見当たらない。まぁリモコンなんて外に持ち出すこともないし、家のどこかにはあるだろう。わざわざ探すのも面倒だと諦め、キッチンに向かう。朝食は何がいいか。普段なら職場に向かう自分と学校へ行く後輩の2人分のものを用意しているが、彼が少なくとも早朝に起きてくることはない以上、今日はその必要はないだろう。冷蔵庫に冷凍したご飯と作り置きのおかずがあるから、昼間に起きてくるであろう後輩が今日一日食事に困ることはないはずだ。


 料理を作ることは嫌いではない。得意だし、趣味だ。人のために作るのであれば俄然やる気になる。後輩とルームシェアを始めて以降、食事はすべて京介が担っていた。この家の胃袋を握っていると言っても過言ではない。だが自分1人のためだけに一汁三菜をビンゴした朝食を作るというのはどうにもハードルが高い。朝メシくらい適当でいいやと、トーストと買い置きしているグレープジュースで朝食を済ませ、早急に朝の支度を終わらせて家を出る。昨日の天気予報では今日の気温はそこまで低くはなかったはずだ。だが起きた瞬間に感じた寒さは尋常ではなかった。帰りが遅くなることを考えると、多少厚着していても周りから浮くことはないと思い、煩わしいからという理由で普段はあまり使わないマフラーを首に巻き付ける。


 昨晩後輩が置いたらしいゴミ袋を1つ抱え、玄関のドアを開けた途端、京介は刺すような寒さに身震いした。やはり今日はいつもより寒い。空には分厚い雲がかかり、非常に薄暗い。雪か雨でも降り出しそうな空模様だ。こんなに寒いと外に出ること自体が嫌になる。クソ寒い中出勤かぁ、メンドクサイなぁ。

 何気なくついたため息が白くなる。

 京介が今住んでいるこのアパートは6階建てだ。それぞれの階層に2つずつ物件があり、駅やスーパーが近いということもあってか満室だ。だが住人の数と比例して共用のゴミ捨て場がやけに小さい。夜間にゴミ出しをする家庭もあるため、今日のように朝方にゴミを捨てる場合は無理やり押し込むというのがいつものことだ。しかし、どういうわけか今日のゴミ捨て場は空っぽに近い。いつものように手間取ることはなく、ツイてるな~という所感を抱きながら家庭ごみを投げ入れた後、駐輪場から引っ張り出したロードバイクで風を切りつつ場を目指す。


 今朝は幸運にも、荒々しい運転で通りすがっていく通勤時間特有の苛立ちを隠せない自動車や、歩道からはみ出してのろのろと歩く学生と鉢合わせすることなく、スイスイと道を進んでいける。こんなに順調に進めるのなら、もう少し遅い時間に出てもよかったかもしれない。

 赤信号に差し掛かりバイクを止める。低い気温と風圧が相まってじわじわと体温を奪われ、ハンドルを握る手がかじかんだ。朝8時でこんなに寒いのなら、帰りも相当冷えるんじゃないかな。京介はまたため息をついた。もう1枚多く着込んできてもよかったかもしれない。


 信号が青に変わる。京介は左右を確認した。角を曲がってくる乗用車は見当たらず、前方からやってくる注意を払うべき歩行者は見当たらない。なんだか今日はやけに誰とも会わないな。ペダルを踏みこんでバイクを走らせるが、誰ともすれ違わないという事象に対してなんともいいようのない、得体のしれないもやもやとした不安を覚える。居心地の悪さ、とでもいうべきか。例えるならば中学時代、体操服で登校するはずの日の登校中に限って、同級生とすれ違うことがなく、あれ、今日って体操服で来る日だよね? ホントに? と不安に駆られるような、はぐれものになってしまったかのような中途半端な居心地の悪さ。


 京介が暮らしているこの赤伊市は人がたくさんいるビジネスの中心地というわけでもなく、世界的に有名な名所のある観光地というわけでもない。いわば、なんの変哲もない町だ。とりたててもてはやされるべき点を持たないが、逆に言えばとりたてて挙げる問題点もない場所。周囲を山と海に囲まれて、そこそこの人口を有している地域。

 決して住む人が少ない場所というわけではない。にも関わらずだ。そこそこ多くの人が住んでいる地域の住宅地で、人っ子一人見かけないというのは、極めて不自然なことじゃないのか。ロードバイクを走らせながら思わず眉をひそめる。もしかしたら今日って祝日? 参ったな、材料の発注もう少し多めにしといたほうがよかったか。いや、待て、そんなことはない。今年の12月に祝日はないはず。今日はいたって普通の月曜日だ。


 なんだか釈然としない気持ちを抱えたまま『通学路注意』と銘打たれた看板のある角を曲がる。そこでふと、京介は決定的におかしな点に気付いてしまった。


 思わずバイクを止め、振り返る。視線の先に捉えたのは先ほどすれ違った看板。緑色か黄色か、いまいち判断しにくい蛍光色の背景に、赤い文字で書かれた『通学路注意』の文字。一言で言えばなんの変哲もないただの看板だ。ここは通学路で、登下校の時間帯にはこどもがたくさん歩いているから気をつけろ、そんな注意喚起が込められたただの看板。

 この道はちょうどこの近くにある小学校、中学校、高校の共通の通学路として利用されている。京介はここ数年、仕事に行くために何十回、何百回とこの道を使ってきた。登校ラッシュ真っ只中である朝8時の道の混み合いっぷりは尋常ではないことを知っている。

 集団登校をする小学生が横一列になって道路にはみ出しながらはしゃいでいる傍を、自転車通学の高校生が駆け抜けて行ったり、こどもを避けてのろのろと蛇行する自動車の横を無理やり通ろうとする中学生がやけに迷惑そうな顔をしていたり、というのを頻繁に見てきた。もう何年も昔のことだが、京介自身もこの道を通学路として学校に通っていた。だからこそ、京介の感じた違和感は強烈だった。


 気のせいだと無視することができないほどの違和感を生じさせたもの、それは空っぽの通学路。

 そこには誰もいなかったのだ。


 あたりを見まわして人影を探す。通学路に不釣り合いな静けさを醸し出すそこには、やはり誰ひとりいない。住宅地というだけあって多くの住居が立ち並んでいるが、それぞれの敷地内に誰かを見かけることもない。


なんで誰もいないんだ。


 全身から血の気が引いていき、胃を乱暴に掴まれたような強い不快感を覚える。強烈な不安にかきたてられるようにして強くペダルを踏み込んだ。まるで逃げているみたいだ。住宅地を抜けて繁華街を目指す。そこそこの大きさの繁華街。京介の勤める店もそこにある。朝の8時台とはいえ繁華街は繁華街だ。それなりに人通りはあるはず。もし誰か1人でもいてくれればそれでいい。すべてがただの杞憂であってほしい。


 住宅地から大通りに入る。繁華街の真ん中を貫くその通りの両脇には、様々な商行施設やビルがところせましと立ち並ぶ。疑う余地もなく、ここはこの町で一番、娯楽が集う商業の中心地であり、人通りが活発な場所だ。学生の頃は頻繁にここに来て遊んでいたし、学校を卒業して社会人デビューを果たした今となっては勤め先がある縁の深い場所。このあたりのことならだいたい知っている。だいたいだが。

 だからこそ、京介の目に飛び込んできたその光景は、彼の内側にある淡い期待を打ち砕き、ある種の不穏な確信へと変容させた。


「ウソだろ」

 ロードバイクを停め、立ち尽くす。この町の交通の要であるはずの大通りは文字通りの空っぽで、通りすがる車は1台もなく、歩道を歩くものでさえ1人も見当たらない。通りの両脇に立ち並ぶカフェや雑貨屋などのテナントはどれも開店の準備さえ行われておらず、シャッターが閉まったまま無言を貫いているものさえあった。通りを行く車や人がいなければ、繁華街を繁華街たらしめる店舗もない。朝帰りに勤しむ若者や、それを恨めしそうに見ながら開店の準備に勤しむ第三次産業の従事者、渋い顔で出勤するスーツ姿の老若男女、普段はよくみかけるありきたりな存在が、影も形もなくなった。文字通り、そこはもぬけの殻だった。


マジで誰もいなくなってる


 それは確信に近かった。この町からすべての人間が消えている。自分だけを取り残して。

 もちろんこの町の全部を見て回ったわけではないから、すべての人間が町から完全に姿を消したと断定することはできない。だが、その可能性を否定する材料もなく、むしろその可能性を助長する要素しか思い当たらない。空っぽの住宅地、通学路、繁華街。こんなのはおかしい。

 この町に長く住む京介にとって、こんな光景は異様なものに映る。


 ゆっくりと空っぽの通りを歩き出す。どうせ誰もいないだろうと、諦めめいた確信があったとしても、人影を探すことをやめられない。だがいくら歩いてもすべてが空虚だ。途中でコンビニのそばを通りかかるが、他と同様に中は無人だった。ただ無意味に明かりがついているだけ。無意識についたため息が白くなる。


「あれ?」

 ふと先を見た時、京介は奇妙なものを発見する。道の先にあるその奇妙なものは真っ赤な壁だ。6車線の道路に対して垂直に、読んで字のごとく道を塞ぐようにそびえ立つそれは非常に高く、登って超えられるようなものではない。道路のレーンのみならず、両脇の歩道や店をも巻き込んで、我が物顔で鎮座している。あんなもの昨日まではなかった。赤一色の見慣れないそれに視線を引き寄せられる。

「なにコレ」

 真っ赤な壁の傍まで行って立ち止まり、その姿を見つめる。不意に、赤い壁の表面に刻まれる奇怪な模様が脳裏に飛び込んできた。

 幾何学模様というべきだろうか。いくつもの線が複雑に彫り込まれており、言葉では言い表せないような意味不明の模様が形作られている。今まで生きてきた中で、少なくともこのようなものは見たことがない。この壁に刻まれている線をすべて合わせて1つの図形が完成するのか、それとも複数の図形が重なり合ったり、隣り合ったりしていて、結果的に奇妙な模様が出来上がっているのか。それさえも判断しかねるほど理解が及ばない。


 なんだかやけに不吉に感じる。ただの模様だとわかってはいるのだが、単純に気味が悪いのだ。深い崖をのぞき込んでいる時のような、いたってシンプルな恐怖が心臓をつかんで離さず、油断していると吸い込まれてしまいそうな気さえしてくる。壁そのものはガラスや水晶を想起させるような透明感を湛えているが、向こう側が透けて見えるということはない。そもそも壁が厚いのか薄いのかさえ判断がつかない。

 模様のほかに特徴的なのはその色だ。混じりけのない濃い赤。まるで血のような。

 恐る恐る手を伸ばして壁面に触れる。つるりとした感触でいてひどく冷たい。触れた先から凍り付いてしまいそうだ。軽く力を込めて押してみるがぴくりとも動かない。


 嫌な予感がする。

 予感を振り払うために今度は全体重をかけて押してみる。だが、暖簾に腕押し。全く動く気配がない。


 この謎の壁がどんな材質で形成されているのかはわからない。ガラスか水晶のような透明感がある、とはいったものの、実際にそうであるかは断定できない。が、それは確かにそこにあるのだ。幻覚の類ではない。少なくとも確実に目の前に存在し、道をぴったりと遮断するように置かれている。

 こめかみに冷や汗が伝う。冷たさをこらえながら壁面を手で探るが、奇妙な模様を形成する溝があるだけで他にはなにも手ごたえがない。


 この通りをしばらく進むと赤伊大橋という道路橋に出ることができ、それを渡ることで隣町に抜けることが可能となる。この町は山と海に周囲を囲まれた地形になっており、過去に山を切り開いてトンネルを開通させる、という案があったらしいが、地域住民の反対によりその計画はとん挫している。そのため、この町から出るための手段として挙げられるのは赤伊大橋を渡ることのみであり、その橋梁に到達するためにはこの大通りを通過するしかない。


 しかし、京介の前に腰を下ろしたその赤い壁が、通りを抜けることを許容してくれない。簡潔に結論を述べるのならば、悪い予感が当たってしまったのだ。


閉じ込められた!


 京介は誰もいないこの空っぽな町に閉じ込められてしまったのだ。

 昨日までこんなものはなかった。それは事実だ。京介が勤める店はこの壁の向こう側にある。昨日の夜11時ほど、家路につく中でこの道を通った。つまり、この壁がこの場所に現れたのはその後だ。だがたった一晩でこんなにも大きな建造物が出来上がるというのはどう考えても現実的ではない。ここで建築したのではなく、どこかから移動してきたという可能性もあるが、それも不可能な話だろう。そもそも、この町の交通の要を塞いでしまうというだけでもありえない話じゃないか。誰も得をしないはずだ。


 もしかすると、自分は何か、想像もつかない常識外れな出来事に遭遇してしまったのではないか。


 なにも、自分の知能で説明できないことをありえない出来事だと決定づけ、さじを投げたのではない。自身の精一杯の思考からはじき出した回答がそれだっただけだ。どう考えても理屈で説明できることではない。

 人が消えた町に閉じ込められた。普通ではありえない出来事だ。こんなのはおかしい。


俺はどうすればいいんだろう。

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