31.ヴェールアップ

 ふと気が付くと、見知った場所にいた。埃っぽくて薄暗い廊下だ。いつの間にか、京介はさっきまでとは全く違う場所で座り込んでいた。そこは深い海の底ではなく、ガラスだけで構成された奇妙な空間でもなく、赤ヶ原のお屋敷の廊下だった。玄関を入ってすぐのところ。ひんやりとした空気がどこかの隙間から流れ込んできて、ちょっとだけ肌寒い。

 目の前には、京介と同じように床に腰を下ろしている蒼がいた。血管だけで構成された異形の姿ではなく、慣れ親しんだいつもの彼がすぐそこにいた。彼はまだ意識が戻っていないのか、固く目を閉じて、静かに俯いている。


 蒼は、ヴェールを戴いていた。

 きらびやかで、透き通っていて、神秘的なヴェール。


 京介は、そのヴェールを恐ろしいとは思わなかった。もちろん、ヴェールの正体はわかっている。ついさっきまで、世界をすっぽりと覆っていた未知の脅威そのもの。それでも、恐怖を感じることはなかった。

 かつて、深海のヴェールとして世界を覆ってしまったそれは、今ではすっかりその色を失い、ただの美しい、純白のヴェールへと姿を変えていた。


 これは、俺たちにとって悪いものではないんだろうな。直感的にそう理解する。

よかった。蒼ちゃんはもう大丈夫なんだ。

 ふぅ、安堵のため息を漏らす。胸のつかえがスッとほどけていく。


 純白のヴェールを1枚挟んだ向こう側で、静かに目を閉じている蒼は、眠っているかのように微動だにしない。ちょっと揺すったくらいじゃ起きてくれそうもない。こんなにぐっすり眠っているのなら、いい夢でも見てればいいけど。あぁ、いや、ダメだ。こんなところで寝ていたらきっと風邪をひく。起こした方がいいかな。でも起きてくれる気がしないなぁ。

 首を傾げ、ぐるぐると思案を巡らす。無意識のうちに、京介は笑みを浮かべた。


元通りになったんだな。俺は、蒼ちゃんを取り戻すことができたんだ。

俺は、俺の神様のためになれたんだ!


 うみなりに打ち勝ったという実感がわくにつれて、自分のことを褒めてやりたい気持ちがこみあげてきた。できれば、田中さんにも褒めてほしかったんだけど……。無意識に、暗い海の中で見た、赤い輝きを思い返す。

 彼は彼のやりたいことをやり遂げたんだ。胸を張って見送ってあげなきゃ。でも、寂しいって思っちゃうのは、許してくれるよね。


 蒼はまだ目覚めない。

 どこかの隙間から入り込んだ冷たい風が、廊下に座り込むふたりのそばを通り抜けていく。蒼を包む純白のヴェールが微かに揺れる。

 この白いヤツ、綺麗だなぁ。さっきまで真っ黒で怖かったけど、今は全然大丈夫だ。


 京介は、両手でそっと、純白のヴェールに触れる。柔らかで、優しい感触だった。


 静かに、ヴェールを上げた。ヴェールの下に覆い隠されていた蒼の端正な顔立ちが露わになる。陶器のような白い肌に、睫毛がそっと影を落としている。紛れもなく蒼の顔だ。やっぱ蒼ちゃんってめちゃくちゃ顔がいいよな。そりゃあモテるはずだわ。

 まじまじと蒼の顔を見つめる。そして、ハッとなった。

あぁ、まった。これって、結婚式の時にやるヤツじゃん。ウッソ、俺ってば大人の階段のぼっちゃった? ちょっと嬉しいかも……。


 すると突然、蒼がパッと目を開けた。彼の大きな黒い瞳が、眼前でややニヤついている京介の姿をはっきりと映し出す。

 うわぁ、びっくりした! 京介はギャッと悲鳴をあげる。少し遅れて、それがどういう意味であるかを理解する。

「ウッソ、ま、まさか寝たふりしてた?」

 蒼は返事をしなかった。その代わりに吹き出して、大声で笑い声をあげる。

「先輩、わかってるじゃないですかぁ! ぜってぇやると思ってましたよ」

「あ、あれぇ? もしかして、これって恥ずかしいヤツ?」

「前々から思ってましたけど、先輩って案外ロマンチストですよね」

「えぇー、そ、そうかなぁ」

 ゲラゲラと笑い声をあげる蒼に対し、京介は頭をかいた。照れる気持ちがある反面、蒼のズケズケとした物言いのおかげで気まずい思いをせずに済んでいることに、安心感を覚えていた。

 蒼の笑い声につられ、京介もクスクスと笑った。


「そろそろ帰る?」

「そうですね。ここにいるのも冷えますし」

 京介の提案に頷き、蒼は静かに立ち上がった。ヴェールがぱさりと床に落ちる。


「外はどうなってるんだろう。町の人とか、もう大丈夫かな」

 不安そうな声をあげる京介に対し、蒼は表情を緩めた。

「えぇ、大丈夫ですよ。先輩や田中が頑張ってくれましたから、元に戻っていますよ」


 事実だ。これは京介を励ますための嘘ではないし、希望的観測に基づいた発想でもない。本当にもう大丈夫なんだ。蒼はそう確信していた。


 楔は消滅した。文字通り、なかったことになったのだ。

 町の人間を材料に楔が生み出されたという事実ごと、あれは消滅したのだ。

 うみなりのために生み出された物が、うみなりが存在しない世界にあるはずがない。この世界はそういう理屈で回ることにしたらしい。

 町の人間はいなくならなかった。謎の怪異はそもそも発生していなかった。なかなか粗い帳尻合わせだとは思うが、そうしたくなる気持ちはわからないでもない。

 だって、侵略者なんていない方がいいに決まっている。


 この怪異を覚えているのは、きっと自分たちだけなのだろう。

 先輩や田中が頑張ったという事実ですら、世界はなかったことにしてしまったわけだ。この屋敷のすぐ外では当たり前のように時間が流れ、町の人間たちは材料にされたことにすら気が付かずに、日々を生きている。そもそも怪異は起こっていないのだから、気が付くもクソもないが。

 蒼にとっては、それが少しだけさみしかった。


 ギィ、と木製の扉が開く音がする。無機質な音で蒼は我に返った。京介が玄関のドアを開けたのだ。

「おぉ、快晴! 見てよほら、寒いけどいい天気!」

 ほらほら、と、京介が指を差した先には、青い空が広がっていた。ついこの間までのような曇り空ではなく、澄んだ青色がどこまでも高く続いている。すぐ傍では、穏やかに波打つ海が、太陽の輝きを受けてキラキラと輝いていた。

「俺寒いの苦手だけど、こういうのだったら全然アリかな。洗濯物もすぐ乾きそうじゃん」

 京介は無邪気に笑った。毒気のない、純粋で、気の抜けた笑顔。いつぶりだろうか、彼がこんな風に笑うのを見たのは。

 青い空や海も眩しいけれど、もっとすぐ近くに、視神経が焼き切れてしまいそうなほどのきらめきがあった。


それが、とてつもなく嬉しいんだ。


「えぇ、そうですね」


 先輩や田中が頑張ったのを、俺が覚えていてあげよう。それでいいじゃないか。先輩だって、彼自身や田中が頑張ったということを、この先ずっと忘れないだろうし。

世界が忘れても、俺たちは忘れない。それでいいよ。


「うーん、でもやっぱり寒いなぁ。早く帰ろうか」

「今日の夕飯は鍋がいいですね」

 京介は屋敷の玄関を出て、外へと一歩を踏み出した。

 今うちにお豆腐ありましたっけ? どうだったかな。覚えてないや。そんな他愛のない会話を続けながら、蒼も京介に続いて玄関を出る。


「……」


 ふと思い立って、蒼は邸内を振り返った。

 廊下の向こうに、置き去りにされた純白のヴェールが横たわっている。


「蒼ちゃん?」

 背後から、京介の声がする。急に立ち止まった自分を心配して、声をかけてくれたのだろう。

「いいえ、何でないです」

 蒼は、玄関ドアを閉じて京介の後を追った。


 ふたりは、屋敷を後にした。


 誰もいなくなった邸内には、静寂だけが残された。

 屋敷の主はもういない。自らの神を最後まで信じ抜いた彼の人は、もう二度とここへは帰らない。彼の人が待ち焦がれていた男でさえ、ここに訪れることはない。


 たった今見送ったふたりでさえ、もう二度とここへはやってこないはずだ。彼らは、きっと最後の客人だった。

 最後の最後まで、正体不明の怪異に挑み続けたふたり。最後の客人が彼らであったことは、きっと、とても誇らしいことなのだろう。


 邸内には、役目を終えたヴェールだけが残された。


 どこかの窓から差し込んだ陽光が、眠りについた純白のヴェールを穏やかに照らしていた。

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深海のヴェール 靖博 @YaSuRo100fanb

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