30.うみなり

 冷たいだけの海の中で、ただただ底を目指して落下する。頭とつま先の位置が真反対だ。頭の方が下にあって、つま先の方が上にある。頭の方が重いんだから、別におかしなことじゃない。右手に握りしめた杭だけが、ここは現実であることを京介に教えてくれる。


 どれだけの時間、こうして沈んでいるのだろうか。もしかすると、すっごく時間が経っているのかもしれない。

それはいけないな。蒼ちゃんを待たせるのは気が引ける。

 待ち合わせの時間は守る主義だ。相手が遅れるのは気にしないけれど、自分が遅れるのは気にしてしまう。相手を待たせるという罪悪感に、自分が耐えられないんだ。


『お前もなかなか危ない橋を渡ったな、京介』

 すると、どこか遠くから低い声が響いてきた。

「田中さん?」

 京介は、声の正体をすぐに理解した。

「よかった。無事だったんだね」

 声が届くということは、それなりに近い位置にいるということだ。京介は彼の姿を探そうとあたりを見まわした。いや、見まわそうとした。

『やめておけ』

 落ち着き払った声にぴしゃりと制止される。

『お前が探すべきはわたしではない』

 そんな、どうして?

 疑問の言葉を口にしようとした京介だが、ふと、視界の端をよぎる赤い光に気が付いた。

 小さなきらめきだった。何かの破片のような赤い物体が、キラキラと微弱な輝きを湛えながら、京介のすぐそばを通り抜けて、遥か海底へと降りていく。

「……あぁ、そっか。田中さん。死んじゃったんだ」

 自分をすり抜けて落ちていった赤い光に照らされ、京介は全てを理解した。

 どういうわけか、驚きや悲しみといった感情は湧いてこなかった。そうなんだ、という納得だけが、京介の胸の中を満たしていった。


 田中にとっては、それは悪いことではなかったんだろう。だって、さっき見た赤い光は綺麗だったから。


 京介は彼の最期を穏やかに受け入れた。


『わたしはお前の背中をちょっと押しに来ただけだ。お前にとっては必要ないのかもしれないが、わたしがやりたかったのでな』

 どこか満足げな田中の様子に、京介は微笑んだ。

「うん。ありがとう」

 トン、と、背中に微かな感触。

『さぁ、行くんだ。お前たちなら、きっと大丈夫だ』


 京介は、振り返らなかった。ただ、前だけを見る。いや、正確には下を見ているのかもしれない。顔を上げ、海の底のさらに向こう側に視線を向けた。


「…!……」


 何かが聞こえる。誰かが俺のことを呼んでいる。

 京介は、海の底に向けて手を伸ばした。


「蒼ちゃん!」


 海底にいた誰かの指先ごと、その手のひらを掴む。

やっと見つけた。

 もう2度と放してやるものか。左手でつかんだ手のひらをしかと握りしめる。それに応えるように、海底にいた彼も京介の手を強く握った。

 途端、身体を包んでいた浮遊感が消え失せて、ゆっくりとつま先が下へと降りていく。足首に少しの衝撃。靴の底を挟んだ向こう側に、しっかりとした砂の感触を得る。


 遥か頭上から降り注いだ一筋の光が、優しく、それでいて、寄り添うように、海底にいた誰かを、いや、蒼を照らした。

待たせてごめんね。もっと早く来てあげたかったんだけど。

 京介が見た蒼のその姿は、見慣れたものだった。血管だけで構成された奇妙な姿ではなく、紛れもない蒼そのもの。端正な顔立ちに、華奢な体格。京介よりも身長が高いはずなのに、猫背であるからわかりにくい。

 あぁ、よかった。蒼ちゃんだ。京介は、心底安堵した。ずっと心臓のどこかに突き刺さっていた鋭い棘が、やっとのことで消え去ったような気がする。


「先輩」

 暗く、冷たいだけの海の底に、当たり前のように、それでいて奇跡のように現れた京介を、少しの驚きと安堵が混ざり合ったくしゃくしゃの笑顔で蒼は出迎えた。

「俺、もうダメだと思っていました」

 京介は首をふった。

「いいんだよ。蒼ちゃんがダメになったら、俺がちゃんと助けに行くから。あ、でも、俺がダメになったときは助けに来てね。ゆっくりでもいいからさ」

 暗い海の底に差し込んだ光が、なんだかとってもあたたかくって、涙が出そうになってくる。京介はそれが少し気恥ずかしかった。

「俺は偏屈な人間ですから、ゆっくりって言われても、5分前には行っちゃうかもしれないです」

「ホントに? 早いどころか爆速じゃん!」

 ふたりは笑い合った。放課後の空き教室を思い出す。高校の頃、彼と出会ったあの日のことを。


「よし、じゃあ、もうひと頑張りしようか」

 互いに握りしめていた手を解く。

「うん、そうですね」

 蒼は頷いて、視線を別の場所へと移した。


「いるんだろ。出て来いよ」

 京介も、蒼が視線を向けた方向へ身体を向けた。出て来いよ、という問いかけに応えるように、何かが遠くからよろよろと歩いてくる。

 光というのは不思議なものだ。眩しくあたりを照らしながらも、光から遠く離れた場所の暗闇をくっきりと浮かび上がらせる。光ある所に影あり、とはなかなか言い得て妙だと思う。

 暗闇は、とても心細いものだ。そこから抜け出そうと足掻いてしまうのは当然のこと。


 それは、つらそうにからだを引きずりながら、暗闇から明るいところへと到達する。


 幾重もの血管がもつれ合ってできた異形の姿が、海底に差し込んだ陽光に照らされて、はっきりとそこに浮かび上がる。異形の姿を覆い隠すかのように、それは、ヴェールを戴いていた。

 きらびやかで、透き通っていて、神秘的なヴェール。いいや、違う。今ではもう、そのような輝きは見る影もない。深海のヴェールは、すっかり血に染まって、汚れている。

 もう、アイツはダメなんだろうな。美しさをことごとく失ったヴェールを見て、京介はそう確信する。


『……』


 うみなりは、何も言わなかった。ただじっと、立ち尽くしていた。

 それの輪郭はおぼろげだった。しっかりと視界の中心にとらえているはずなのに、京介はうみなりのその姿をはっきりと認識することが出来なかった。なぜだか、その輪郭がぼやけて見えてしまうのだ。

 きっと、形を保てていないんだ。うみなり自身の意思に反して、からだの表面が溶け出してしまっているんだ。

 ヴェールがゆらゆらと揺れ動く。


「もう終わりにしよう」

 蒼が口を開いた。毅然とした態度で、はっきりとした意思を瞳に宿して。

『……』

 うみなりは首を振った。

 田中の活躍によって楔は消失した。蒼の拒絶によってうみなりの存在に矛盾が生じた。うみなりはもう耐えられない。神として自分の存在を定義したのに、そこを覆されてしまったんだ。もうどうしようもない。

 うみなりはそれを理解していないのだろうか。

 いや、きっとわかっているのだろう。わかっているからこそ受け入れられない。


 京介には、うみなりを気の毒に思う気持ちが少しだけあった。あれにはとんでもない目に遭わされた。自分だけではない。蒼も、田中も、かなりひどい目に遭ったと思う。でも、あれは悪意があってそうしたわけではないんだ。少なくとも自分はそう考えた。もしかすると、あれはただ死にたくないだけなのかもしれない。


 ヴェールが微かに揺れる。うみなりがよろよろと歩き出し、京介のすぐ近くで立ち止まった。うみなりの異形の姿を、京介は正直なところ恐ろしいと感じていた。多分、10年後、20年後も同じように思うんだろう。もしかしたら一生夢に出てくるのかもしれない。

でも、きっと大丈夫だ。俺だけがそれと向き合っているわけじゃないし。


『……』

 うみなりは右手を差し出した。じっと京介の方を見つめながら。まさか、助けてほしいのだろうか?

 京介は、うみなりの意図が読めなかった。だって、もう今更だ。うみなりは形を保てないくらい希薄な存在になってしまった。誰かに助けを求めたところで意味はないだろう。

「ダメだよ」

 京介は首を振った。

「俺には蒼ちゃんだけだから」

 右手に持っている杭の刃先をそれに向ける。

 その右手を支えるように、隣にいる蒼が両手で京介の手を包み込んだ。

 ハッとなって蒼の方を見やる。端正な顔立ちの中に、確かな決意を湛えて、京介を励ますように蒼は頷いた。


 京介は返事をする代わりに、左の手のひらで蒼の手に触れ、杭をしっかりと支える。


 それは、たった一瞬のことだったのかもしれない。

 ふたりで杭を構えて、うみなり目掛けて振り下ろす。

 たったそれだけのことが、永遠であるかのように感じられた。


 確かな手ごたえが、ふたりの手元に伝わった。杭の斬撃は、確実に、それでいて深く、強く、うみなりをヴェールごと断ち切った。


 切りつけられたうみなりの傷口から、血液ではなく青白い光が放たれる。その光はあっという間に京介の視界を塗りつぶす。不思議と、恐怖は感じなかった。あまりの眩しさで目が眩み、自分が瞼を閉じているのかさえわからなくなった。蒼の姿はもちろん見えないし、手元に感じていた感触でさえ消え失せた。でも、こわくはないのだ。


——よくやったな

——あなたは、負けなかったのね


 光の中に、ふたりの人間の姿を見た気がした。


 どこかで、ガラスが砕けるような音がする。京介は、その音の正体に気が付いた。

あぁ、お前も役目を果たしたんだな。


 大きな石をそのまま削って作ったような短刀。うみなりを殺すために生み出されたはずの刃。キミがどこで生まれたのか、どこから来たのか、結局俺はわかんなかったよ。

 でも、キミは役目を果たしたんだ。お疲れ様。助かったよ。

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