29.俺の神様は
目を覚ます。その瞬間、ついに気が狂ってしまうかと思った。
どうして
どうしてまだ残っているんだ。
くそったれ! 多分、そう口にした。罵詈雑言は泡となって、上へ上へとのぼっていく。
目に映ったのは海だ。それも、暗くて冷たい底の底。それだけだ。
蒼は、まだ消えていなかった。ほとんどがうみなりへと変容してしまったが、ほんの少しだけ残っていた。辛うじて生きながらえてしまった。
なんでこんな。いっそあのまま終わってくれればよかったのに!
蒼はたしかに覚悟を決めていた。ただ京介を助けてやりたい一心で、自らの終わりを選択した。
なのに、なのに。あの瞬間が終わりにならなかった。図らずも、すべてがうみなりに置き換わらなかったせいで、また最後を迎えなければならない。
自分が残っているとしても、こんなの足の爪程度だ。どうせあと少しで全部を失う。何故だろう。たった少ししか残っていない自分を失うのが、どうしようもなく恐ろしい。
帰りたい。帰りたいよ。ついさっき、あなたのために全部を捨てたのに、もうあなたの迎えを待っている。
これは“神”に抗ったことへの罰か? 神に変わることを認めなかった俺への腹いせか?
やっぱり勝ってこなかったんだ。わかっていた。どんなに抵抗したって無駄だと。こんなことになるくらいなら、もっと早くに諦めていればよかった。
先輩に会うよりもずっと前にこうなっていれば、彼をひどい目に遭わせることもなかった。
どこまでも広がる暗い海の奥深くに、ただ1人で揺蕩う。
海底。太陽の光さえ途切れるほど深い場所。とてもじゃないが、人間の精神が耐えられる場所ではない。
こんなところで、たったひとりで消えなくちゃならないのか?
海というのは、生命の根源だ。ここからすべてが生まれ、ありとあらゆる進化を遂げる。人はそこに神秘を見出し、神の姿を見た。例えばギリシャ神話のポセイドン、日本神話のスサノオといったように、海にまつわる神というのは様々な国の神話に登場する。それだけ、海というのは神格化されやすい存在である。
あれはそこにつけこんだ。
うみなりは元々、海に由来する生き物ではない。あれは、ただ自分の生存と繁殖のために、周りの環境を自分にとって都合が良いものに捻じ曲げていくだけの侵略者だ。
この星に入り込むための手段として、あれは神になることを選んだ。
単純な話だ。そっくりそのままの宇宙人としてこの星に入り込めば、この星の生き物から攻撃されることは避けられない。侵略者なわけだし。
ではどうすれば、攻撃されずに済むのか。答えは明白だ。
この星の生き物に気に入ってもらえばいい。
そのために、あれは自らと海を紐づけ、神になろうとした。
あれは長い間自己を増やし続けながら、信仰心を蓄え続け、名実ともに神になった。こんなの詐欺だ。神様だから信仰を捧げられるのではない。信仰を捧げてもらったから神様なんだ。
しかし、どんなインチキの上に成り立つ存在であったとしても神は神だ。そもそも人間とはスケールが違う。敵うはずがない。
「本当に?」
ハッとなって顔を上げる。今喋ったのは俺じゃない。
「だれ?」
「よく考えろ。神様とはいついかなる時もお前を救ってくれるお方だ。絶対にお前を脅かすことはなく、お前をあらゆることから守ってくれる」
声の主を探そうと、必死になってあたりを見まわした。でもなにも見当たらない。どんなに目を凝らしても暗い海だけだ。
「うみなりは、お前にとってそうではないだろう」
低い声だ。知っている声。
「…田中?」
どうしてここに。こんな深いところにどうやって来たんだ?
「神は信仰の元に成り立つ存在。よりにもよって、お前が畏怖を捧げてどうする」
ふと、頭上から降りてくる何かがあった。なんだ? 右手を伸ばす。
小さなガラス片のようなものだった。血液をそのまま凍らせて作ったかのように真っ赤で、その形はいびつだ。
これは何だ?
指先が触れる。途端、感触を理解するよりも先にガラスが砕け散った。
「…!」
砕け散った破片たちがキラキラと輝く。とても小さな輝きだった。かろうじて見ることができたそれは、決して強い光ではなかったように思う。でも、弱い光だとは思わなかった。暗いだけの海の底に現れた確かにそこにあるきらめきに、幾分か胸のつかえがとれたように感じる。が、次の瞬間、そのきらめきに照らされて、あることを理解した。
「田中! お前、死んじゃったのか」
全身から血の気が引いた気がした。もう、自分に血など通っていないのかもしれないが
「殺したんだな。大事な人を」
別に、あれが死んだことは悲しくない。でも、あれは田中にとっては大事な人だったはずだ。それなのに、彼はあれを殺したんだ。
「なんてことをしたんだ。それじゃあアンタが苦しいだけだろう!」
「いいんだ。わたしはこれでいいんだ」
落ち着き払った声だ。後悔なんてしていない、とでも言いたげな田中のその声色に、無性に腹が立った。
「いいわけあるかよ! 今更アイツを殺したって意味はないんだぞ。お前だって死ぬ必要なかった。うみなりはもう蘇ったんだ。楔を消したところで何かが変わるわけじゃない!」
自分でもびっくりするくらいの大声で蒼は叫んだ。ついカッとなったのだ。自分が何をしでかしたのかを、田中本人が理解していないように感じられて、どうしようもなくむかついた。そんなはずないのにな。
でも理解できないんだ。どうして田中がそんなマネをしたのか、まったくもって理解できない。今更楔を消したところで本当に意味がないんだ。
確かにうみなりは流体の神だ。固定するものがなければ、いつかは流されてしまう。だが、うみなりは既に世界を海で満たしているんだ。つまり、世界の定義すらしたいままにできる。
世界がうみなりを押し流すことはないとしてしまえば、楔に頼らずともあれは生きていけるんだ。
リンゴは木から落ちない。地球は回らない。太陽は東からのぼらない。そんな風に世界の意味合いを変えてしまうのは、今のうみなりにとっては難しいことではないはずなんだ。
そんなことを、田中が知らないはずがない。
「いいや、蒼」
田中は否定の言葉を述べた。
「まだお前が残っているじゃないか」
「…え?」
蒼は目を丸くした。
「うみなりは信仰を受けることで神となった。神と崇められているからこそ、神になり得たんだ」
田中は続ける。
「裏を返せば、神だと認識されなければ神ではいられない」
「今のうみなりはあやふやな存在だ。自分を固定するものがすっかり無くなってしまっている。もし、うみなりそのものであるお前が否定の言葉を口にしたら、うみなりはもう耐えられない」
「自分は神である。しかし、自分は自分を神だと思っていない。こんな矛盾に耐えられるはずがない」
「…!」
ハッとなって顔を上げる。
「ここまで言えばわかるな?」
どこか得意げな声色だった。嬉しそうで、誇らしげな感じ。
「さぁ、言ってやれ。蒼」
思えば、田中はとても面白いヤツだった。べとべとした液体のような奇妙な姿で機敏に駆けまわっては、やたらと人間らしいセリフばかり言う。
「お前にとって神様とはなんだ」
嫌いじゃなかったよ。ウソじゃない。
「お前にとって脅威ではないアイツは誰だ。お前のそばでお前を守っていたのは誰だ。いつもお前に笑いかけていたアイツは誰だ。お前が心の底から慕っているアイツは何なんだ!」
だから、ここでお別れだ。
「言え! 声高らかに! 宣言しろ。お前の神様は誰だ」
俺の神様は!
そうだ。俺の神様はうみなりなんかじゃない。お前なんかじゃないんだ。
俺の神様は、あの人だけだから。
手を伸ばす。上に、上にだ。
彼を呼ぶ。彼の名前が泡となって、海面へと伸ばした指先を撫で、さらにその上へとのぼっていく。
太陽が見えた。深海に差し込む一筋の光が。真っ暗なだけだった深海をこれでもかと照らしていく。
「蒼ちゃん!」
上へと伸ばした指先ごと、誰かが蒼の手のひらを掴んだ。
あたたかで、しっかりした感触。
あぁ、ずっと待ってたんです。あなたを
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