12.そのきらめきを、宝物だと言えるお前も輝かしい

「大丈夫か!」

 首筋に手を当て、脈を確認する。微弱ではあるが、トクトクと手ごたえを感じる。

「なに…」

 それは声ではなかった。微かに喉から息が漏れているだけ。


 さっきまではこんなことなかった! まるで死にかけじゃないか。生気のない虚ろなまなざしが田中の姿をとらえては揺れ動く。焦点が定まっていない。

 意識は辛うじてあるようだが、ひどく朦朧としている。田中は止血をしようと、傷を覆うように京介の背に被さった。が、次の瞬間。田中の肉体は背中の傷を入り口としてどこかへ落下した。


 突然の落下に田中はぎゃっと悲鳴をあげる。目隠しでもされたように、視界が黒一色に染まる。

 これは何だ。何がどうなった。水の中を思わせるような奇妙な浮遊感が全身を包み込む。

 どこかに落ちたことは理解できる。だがどこに落ちたのかわからない。何も見えず、何も聞こえない。感覚をすべて遮断されたのか? いや、何も感じないことを感じ取れているのだから、世界と途絶されたわけではないはずだ。


 これはきっと電子機器の再起動のようなものだ。何かしらのエラーによって唐突に電源が落ちた。きっとそうに違いない。


 気持ちを落ち着けようと努めるが、鼓動は絶えず早鐘を打っている。落ち着くどころかむしろ早くなっているような気がする。まて、鼓動だと?

 身体の中心部から響く振動に、神経を研ぎ澄ます。ドクリ、ドクリと確かな感触が全身に伝わっていく。心臓の鼓動だ。さっきまではなかった。


 急にどうして。戸惑う田中を置き去りにして、視界は徐々に鮮明になっていく。だいぶぼやけているが、色や明るさは視認できる。誰かがこちらを心配するように覗き込んでいた。

 蒼? 服の色からそう判断する。次第に感覚が研ぎ澄まされていき、外界からの刺激が”皮膚”を通して伝わってくる。背中に激しい痛み。気を抜けば意識を失ってしまいそうだ。

「…!」

 蒼が名前を呼ぶ。悲痛な叫びだ。母親を呼んで泣き叫ぶ赤子のような。恐れが滲んだ叫び。手に掴んでいた蜘蛛の糸が、突然プツリと切れてしまったような絶望の滲む叫び。


あぁ、そうか。

 田中は理解した。自分は今、京介の中にいる。京介の身体の中に滑り込んで、その感覚や意識を共有している。いや、乗っ取っている。


 ふむ、なるほど。そうとわかればあとは簡単だ。京介の中に拡散する”わたし”を探す。果てのない宇宙で、縦横無尽に散らばる星を1つずつ拾い集めるような、途方もない作業。見つけ出した自らを片っ端から切り離し、”わたし”でなくなった”わたし”は持ち主を京介へと切り替えていく。


 文字通りの明け渡しだ。切り離されたわたしは京介の一部となり、欠損している血、肉、皮膚をゆっくりと再生していく。


 ひとまず危機は脱したか。

 最初こそ、明け渡しの操作に手間取ってはいたが、傷を半分ほど修復したあたりで難しさを感じなくなる。要するに慣れた。

 ふむ、と息をつくと、脳裏に言葉がよぎった。

『田中さん? なにしてんの』

 自分の思考として発せられた言葉だ。しかし、それはわたし自身の言葉ではなかった。

『おや、京介か。悪いな。ちょっとお前の中にお邪魔している最中だ』

 明け渡しは自分の一部を相手の一部へと置き換える行為、らしい。詳しいことはわからないが、相手の中に自分という存在を混ぜ込むのだから、思考が共有されたとしても不思議ではないだろう。


『いや、悪いことはしていないから安心しろ』

 不意に思考にノイズが混ざる。

『おっと、これはなんだ』

 田中の中に、思考のひずみとして流れ込んできた映像。京介の記憶か。


 見慣れないごちゃごちゃしたリビングの床に座り込んで、絵本を読む自身の、いや、京介の膝の上には、2歳ほどの男の子が座っていて、目の前に広げられている絵本に夢中になっている。絵本を持つ片腕には、5歳くらいの女の子がもたれかかっており、かなりの重さを感じる。彼女は絵本自体には興味がなさそうだ。しきりに京介に声をかけては、読み聞かせを中断させている。


『この子たちはきょうだいか? 随分年が離れているようだが』

『弟と妹だよ。親同士が再婚しててさ、この子たちは親父のお嫁さんの連れ子だよ。あぁ、でもこれ8年位前のことだから、最近のことじゃないね。懐かしいな。あ、わかった。これってもしかして走馬灯ってやつか。俺死ぬんでしょ。なんかすっごい寒い、ってか冷たいんだもん。絶対死ぬヤツだよね。実感がないのと、わかるかわからないかってのは違う話でしょ。これは死ぬね。俺かわいそう』

『お前は勇敢だった。お前がいなければどうなっていたことか』

『田中さんは、あぁ、なるほど。おとりになろうとしてたのね』

『上手くいくかはわからなかったが、あの状況ではそれしかなかったからな。確実にわたしは死んでいただろうが、蒼は逃がしてやれるかもしれないと思ったんだ。その後は京介に任せるつもりだった』

『そっか。いろいろ言いたいことはあるけど、蒼ちゃんを守ろうとしてくれてありがとうな』

『そういうのはすべてが終わってから言ってもらいたいな』


 田中はにっと笑って啖呵を切る。

 実態を持たない思考同士の会話の中で、笑みを浮かべることなど意味のない行為だ。誰もそれを観測しないのだから。

 だが、意味がなくたって構わない。意味がなければいけないなんて、そんなの窮屈すぎる。


「わたしはお前を諦めないぞ。蒼だけじゃない。お前のことも守る。お前はわたしの友だ。少なくともわたしはそう思っている。』

「そして、お前はわたしを見つけてくれた恩人でもある。お前に会わなければ、わたしはきっとあのまま、誰もいない町をさまよっていただろうから…。あぁ、何も言わなくていいぞ。あんまり混ざり合うと、どっちがどっちかわからなくなる」


 何かを言いかけた京介が口をつぐむ。

 混ざり合う、ということを理解したのだろう。

 明け渡しは相手の中に自分を混ぜ込むことである。やりすぎると完全に混ざり合ってしまう危険が伴う。

 真っ黒なコーヒーを思い浮かべてみてほしい。あれに少しでも牛乳を加えるとどうなるか。答えは真っ黒じゃなくなる。牛乳の混ざったそれは、もはや真っ黒なコーヒーではないのだ。かといって牛乳でもない。

 カフェオレだ。コーヒーと牛乳が混ざり合ってできた新しい飲み物だ。

 混ざり合ってどっちがどっちかわからなくなるとはそういうことだ。わたしでも、京介でもない。2つが混ざり合って新しい何かが誕生してしまう。

 それはちょっと、いや、かなり避けたい。

…ところで、うまい例えが出来たと思うんだが、どうだろうか。いや、返事はいい。変なことを口走って悪かった。


 早めに肉体を返してやりたいところだが、彼の心身へのダメージを鑑みると、それも得策ではない。少し休ませてやらねば。

 向こう側へと手を伸ばし、京介の肉体の支配権を獲得する。彼が衰弱しているからできることだ。あんまり長く続けると、境目がわからなくなってしまいそうで気が引けるが。


 自分の中に明け渡しという選択肢を見つけた時、治療に使えるじゃないか、と、喜んだものだが、正直もう2度と使いたくないものだ。緊張感がありすぎる。気を抜けば京介の領域を食い荒らしてしまいそうで恐ろしい。

 そもそも、金輪際使う機会がなければいいが。


 京介の意識がはっきりしていれば、ふとした瞬間に彼の領域を侵してしまうということはないかもしれないが、結局は互いの領域を奪い合って、侵し合う陣取りゲームに発展してしまいそうで嫌だな。


 ふむ、明け渡しの話はこのくらいにしておこう。肉体の把握に意識を向ける。


 支配権の取得とは言ったものの、これは感覚的な動作で、どうやってやったのかと聞かれても口では説明しにくい。

 そもそもなぜこういうことができるのかはわからない。フランクに言えば、なんかよくわからんけどできた、という感じだ。

 四肢の先に血流をいきわたらせるように、自分を流し込んでいく。


 おや、これは。

 京介の身体を完全に自分のものとしたその瞬間、ふんわりとした心地の良い感覚に包まれる。


 夏のおひさまのにおい。木々の隙間から降り注ぐ木漏れ日を、一身に受けてキラキラと輝く彼は、蒼は、まぶしい笑みを浮かべている。

 毒気のない、純粋で、気の抜けた笑顔。視神経が焼き切れてしまいそうなほどのきらめき。それでも見ることをやめられない。


 これは、京介の一番大切な記憶。


 海の中から太陽を見上げた時のような強烈なきらめきが、心臓をつかんで離さない。

 京介は蒼の中に脅威を見出さなかった。京介にとって蒼は、きっとこういうきらめきそのものなのだろう。

 蒼が京介に向けている感情はかなり巨大だと思っていたが、その実、京介も京介で蒼に対して大きな感情を向けていたのだ。


 人と人との関係にはすれ違いがつきものだ。自分は話を聞いてほしい。でも相手はそれどころじゃない。自分は相手に笑ってほしい。でも相手はそんな気分じゃない。

 結局のところ、どちらかが妥協して、擦り合わせを行わなければならない。

 思い通りにならないとき、人はそれなりのいらだちを感じてしまうものだ。気を使ってすり減っていく。人間関係とはつまるところそれの繰り返しだ。

 しかし、彼らはそうではないのだろう。あの2人は、何もかもが噛み合っている。すれ違いがないのだ。互いにとって互いが一番都合が良い。妥協をする必要がそもそもない。


 田中が垣間見た夏の日の憧憬がいつのことなのか、そこにどんな成り行きがあったのか。それはわからない。ただ、京介が蒼のことを何物にも代えがたいきらめきであると思っているのは確かで、蒼だってそうなのだろう。じゃなきゃ、こんな笑顔は見せられない。


わたしは、世界で一番キラキラしたものを見たのかもしれない。

心底うらやましいと思うよ。

大事な人間にすれ違いを覚えず、その中に光を見いだせるその関係が。


 心臓がちくりと痛む。わたしの心臓かどうかはわからない。勝手にたからものを暴かれた京介が、無意識に抗議でもしているんだろうか。恥ずかしいじゃん! と口を尖らせながら。


 まずはっきりとしたのは視界だ。ほこりっぽい空気。心配そうにこちらを覗き込む綺麗な顔。背中に痛みはない。明け渡しは成功した。

「傷はもう大丈夫みたいだ」

 ためしに声帯を震わせて声を発する。自分の声ではないし、息が漏れるような微かなものでもない。

「アンタ、なにした」

 異変に気が付いたらしい蒼が田中、いや、京介の胸倉につかみかかる。

「落ち着け、からだの一部を明け渡しただけだ。傷はもう大丈夫。ああ、身体を乗っ取っているのはアレだ。クッラキングした、と言えばわかりやすいか」

 なだめるようにそう説明すると、蒼は顔を引きつらせながらそっと両手を離した。慣れ親しんだ京介の顔や声が、そっくりそのまま他人に使われているのだから、違和感を覚えるのも当然だろう。


「こんなことができるなんて、思ってもみなかった」

 襟元を直す。人の身体の方がしっくりくる。感覚も鋭利だし、手足が自由に動かせる。

「とっととずらかるぞ。ほら、早く」

 蒼の手を引いて屋敷から脱出する。半ば引きずられるように歩く彼は戸惑うように何かを口ごもった。

 海の見える高台から階段を駆け下りる。あんな気味の悪い屋敷にこれ以上いられるか。京介や蒼をはやく引き離さなくては。

「えっと」

 喉に何か詰まってしまったように頼りなく言葉につっかえる蒼は、やっとのことで覚悟を決めたように勢いよく続きを吐き出した。


「チョコスナック、一袋あげるよ」

 その意図するところを察し、そうか、と返事をする。

 岬から山道へ足を踏み入れる。屋敷はどんどん遠くなっていった。

「ありがとう。蒼」

蒼はバツが悪そうに視線を逸らす。

「…今まであんな態度をとって悪かった」

「いいさ。お前は京介の身を案じていただけだろう。わたしが同じ立場ならそうするはずだ」

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