7.お前のための

 玄関から見た左側にあるのは3つのドアだ。リビングを抜けた3人は奥から順に部屋の中をのぞいていったが、階段に近い方の2つの扉はトイレや風呂場といった水回りで、妙な点は見受けられない。

 そんな中で京介の目を引いたのは3つ目の部屋だ。玄関からすぐの場所にある扉。

 中をのぞいた時、蒼はなにか気味の悪いものでも見たように顔を真っ青にした。

「気持ち悪…」

「ふむ、何かおかしな点でもあるか?」

 その部屋は子供部屋だった。6畳ほどの広さで、先ほどのリビングと同様、海側に設けられた窓から外の光が差し込んでいる。天気のいい日であれば、明々と日光が差し込んでくることだろう。

 一際目を引いたのは窓の傍に置かれた木製のベビーベッドだ。クッションなどの類は置かれておらず、使われた痕跡は見受けられない。京介の目には何の変哲もないものに映る。そんなに気味の悪い場所には思えない。

「いえ、すみません」

 蒼は吐き気を堪えるように部屋の光景から目をそらした。彼にとっては薄気味悪い光景だったのだろうか。

「わたしには普通の子供部屋のように見えるがな」

 田中はスルスルとベビーベッドの下へもぐりこんだ。

「1998年2月、製造された日か?」

 ベビーベッドの裏側に刻印されている日付を読み上げる。

「だいたい20年前だね。この家が作られたのも20年前って話だし、こう、なんていうのかな」

 廊下に立ちすくむ蒼から部屋の中が見えないように、京介は入り口に立ってわざとらしく腕を組む。

「俺的には、子供が生まれる直前の家族が家建てて、ここに引っ越そうとしてたってシナリオが思い浮かぶなぁ。ベビーベッドって普通子供が生まれる前に買うじゃんか」

「わたしもそう思うな。おや、京介、そこにあるのはなんだ。おもちゃ箱か」

 田中が指をさした場所は入り口のすぐ隣だ。視線をそこにやると、床にカラフルな箱が置いてあった。田中の言うとおり、おもちゃ箱のようだ。ボールやガラガラなどの色あせたおもちゃたちの中に紛れ込んで、1冊の本がその存在を主張する。


「なんか本がある。絵本かな」

「絵本?」

 おもちゃ箱にしまわれていた本を手に取った。

 その本はやけに色あせていて茶色く変色している。同じ箱にしまわれていたおもちゃたちも色あせてはいたが、ここまではひどくない。劣化の度合いから考えれば、かなり昔に作られたようだ。表紙は気の毒になるほど擦り切れている。

 タイトルや著者名を探すがどこにも見当たらない。A5用紙ほどのサイズで、かろうじてだが、シミのようになった絵の輪郭が視認でき、それが絵本だと理解することができる。

「えらくぼろっちいな。ベッドやおもちゃは新品なのに、絵本はこのザマか」

 ベビーベッドから這い出しながら、やや非難めいた口調で田中が目を細める。

 おもちゃ箱の中にしまわれていたということから考えるのならば、これはおそらくこの家に住むはずだった人物にとっては大事なものであるはずだ。こんなにボロボロになっていても、これから生まれてくる子どもに与えたいと思えるほどの1冊。いったい何が書いてあるのだろう。


 パラパラとページを捲り、中身を確認する。表紙と同様に中身も劣化が激しく、絵が描かれていたのかさえわからない。

 しかし、劣化を嘆いた誰か、おそらくこの絵本の持ち主と思われる誰かが修繕でも施そうと思ったのか、ページに書かれている文章が黒いインクでなぞられていた。

「字は読めるね。読めるけど… これは」

サイアクだ。ヤバイもの見ちゃったかもしれない。

 首筋に刃物を当てられたかのように、背筋に嫌な感覚が走る。屋内といっても暖房なんてついていない邸内の気温は外とほぼ変わらない。精々、風が入ってこない程度だ。かなり寒い。だがその絵本の中身は気温よりも的確に、迅速に京介の肝を冷やしていく。

「読もうか。嫌になったら言ってね」

 覚悟を決め、読み取った文章を声に出す。


『昔々、アカイの山におおきな杭が降ってきました。杭は山を砕き、大地を割り、辺りを海に変えてしまいました。近くの村に住んでいたひとりの人間が杭を調べようと海に出ます。』


『杭を見つけた人間は驚きました。その杭はなんと神様を貫いていたのです。人間は神様を助けてやりたい一心でその亡骸に手を差し伸べます。』


『以降、神様は人間の中に宿り、その命を保つ血として子孫たちに脈々と受け継がれています。』


「意味不明だな」

 最初に声を発したのは田中だった。

「子供向けを装ってはいるが、ふむ、意味がわからないな」

 廊下にいる蒼にちらりと視線をやる。具合が悪そうに顔をしかめており、壁に背をもたれさせている。もともと猫背気味だったが、身体を支えきれないのか、いつもより猫背に拍車がかかっている。大丈夫? そう声をかけるよりも早く、蒼が口を開いた。

「伝承、ですかね」

 伝承。いわゆる伝説や風習なんかを言い伝えるための物語。

「うーん、伝承ねぇ…」

 ページを捲り、再び内容に目を通す。表現がやや独特で、抽象的な言い回しは目立つが、神様について話しているのはなんとなく理解できる。


 この本を手に取った時、これはどんなにボロボロになっていても、これから生まれてくる子どもに与えたいと思えるほどの1冊なんじゃないかと感じた。

 持ち主にとってこれは大事な本で、誰かに教えてあげたいと思うほど面白い絵本なんじゃないか、と。

 だがもしも、この本が伝承であるというのなら、自分が最初に抱いた感想はまったくの大ハズレだ。面白いから教えてあげたい、のではなく、この話をどうしても知ってほしい。だからどんなにボロボロになっていても、これから生まれてくる子どもに与えたい。むしろ、与えなくてはならない。伝承として受け継がなければならないのだから。


「田中の言うように、ベッドや他のおもちゃは新品なのに、絵本だけがあんまりにも古いなんて不自然だ。多分ですけど、これは娯楽のための本ではなく、伝えることが目的の本なんだと思います」

 蒼はさらに続ける。

「『アカイの山』の、アカイは赤伊市のことでしょう。つまり、これはこの町にまつわる話に違いない」

 田中は京介の足元に這い寄り、からだを縦に伸ばしてその手元を覗き込んだ。そんなこともできるのか、と、内心かなり驚いたが、定まった形を持たないスライムなのだから当たり前かと思い直す。実際問題、スライムのように見えるというだけで、本当にスライムなのかどうかはわからないが。


 彼を初めて見た時はどこも愛らしくないと言ってしまったが、だんだんと田中の中に愛嬌のようなものを感じている自分がいる。

「民間伝承のようなものか。ふむ、だとすると、これは何を伝えるための話なんだろうか」

「神様がどうのこうのってことは、宗教の話だったりしない? なんか神話みたいな感じするし…」

 神様? ある推測を思いつき、ハッとなって絵本から顔を上げる。

「ひょっとしたらさ、この絵本の神様がうみなり様だったりしない? ホラ、田中さんが言ってたヤツ」

 絵本を覗き込んでいた田中が、京介の顔に視線を移した。なぜそう思う? そう言って続きを促す。

「直感っていうか、所感なんだけど、『アカガハラ』の岬にある廃墟に神『さま』にまつわる昔話の本があった。もうこれ関係ないわけないでしょ」

 得意げに、自信に満ちた表情でそう言いきった。指を鳴らしてみたいと思ったが、人生の中で指パッチンができたためしがない。恥ずかしい思いをするだけだ。

「この屋敷はアタリだったか?」

 田中が首を傾げた。

「かもねぇ。とりあえずもう少し調べてみようか。何かあるかもしれない。」

 このお屋敷は間違いなく怪異に関係する場所、いわゆるアタリだ。お屋敷の中をくまなく探索する必要性は非常に高いだろう。


 廊下に視線を移す。蒼の顔色は悪いままだ。

「蒼ちゃん、大丈夫?」

「顔色が悪いぞ。具合が悪いのなら少し休むか?」

 蒼は首を振った。

「いえ、大丈夫です。すみません。気味が悪かっただけで体調が悪いわけではないので」

「いや、でもメッチャ顔色悪いよ」

 1階にある部屋はひと通り調べ終わったはずだ。残りは2階の部屋だけ。あの怪物に遭遇することを危惧していたが、屋内で何かが暴れまわったような痕跡はなかったし、1階を調べている間にどこかで物音がする、というような異変はなかった。


 屋内という逃げ場の限られた場所で、ああいうものに出会ってしまうのはできれば避けたいところだ。そういう可能性を警戒していたが、今のところは大丈夫だろう。

 それよりも今気にすべきは蒼の体調だ。大丈夫だと言ってはいるが、もしかしたら無理をさせているのかもしれない。少なくとも1階は安全ということがわかっているから、彼に無理をさせて連れ回すよりも、ここでしばらく休ませることの方が得策だろう。

「蒼ちゃんはちょっと休んでてよ。俺はとりあえず2階を見てくるから。そうだ、なんかあったら危ないから、田中さんは蒼ちゃんと一緒にいてもらってもいいかな?」

「え、でも…、先輩1人を行かせるのはさすがにちょっと」

 異を唱える蒼に対し、励ますつもりで笑みを浮かべる。

「2階から変な音がする、みたいなことはなかったわけじゃん。だから2階は多分安全でしょ? 俺としては、2階にいるときに外から例の怪物がやってきて後ろを取られる方が怖いワケよ」

「あぁ、なるほど、わかったぞ。わたしたちが下にいて見張りをやればいいんだな」

 合点がいった、とでも言うかのように田中が相槌を打つ。

 その実、田中は京介の目的を察してその提案に乗っていた。


 正直なところ、田中も京介を1人で行かせることに躊躇いがあった。だが、京介が蒼に無理をさせたくないと思ってこの提案をしていることは自然と察せられる。

 蒼を休ませてから3人で探索を再開するという手もあるが、京介としては、早めに探索を終わらせて蒼を家に帰らせたいという思いがあるのかもしれない。彼の言うように、2階に危険がある兆しは感じられなかった。ここは彼の意思を尊重しても良いだろう。

「…わかりました。すみません」

 ぼそりと蒼が返事をする。今朝知り合ったばかりの自分にも、京介の意図することは読み取れている。彼と仲の良い蒼なら、より容易にそれが可能であるはずだ。

 残念そうに目を伏せているその様はまるで自分を責めているかのようだ。自分のせいで京介を1人で行かせなくてはならない。もしかすると、彼を危険にさらしてしまうかもしれない。そういう責任と不安がないまぜになったような表情。張り付けたような無表情が目立つ青年だと思っていたが、ポーカーフェイスというわけではなく、むしろ思ったことが顔に出やすいタイプなのかもしれない。

「まぁヤバイと思ったら逃げてくるからさ」

 京介は絵本をおもちゃ箱に戻し、廊下の奥に目をやる。なかなか律儀なタイプだ。わざわざ絵本を元の場所に戻すなんて。

「行ってくるね」

 京介はにやりと得意げに笑う。頼もしいことだ。

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