21.きらめきを

 その日以来、俺は空き教室を度々訪れるようになった。彼のことをすっかり気に入ってしまったのだ。もちろん示し合せているわけではないから、毎回先輩に会えたわけではなかったが。

 ばったり鉢合わせてはくだらないことを話し合ってゲラゲラと笑った。ただ楽しかった。彼と話している間は、時間の流を非常に素早く感じる。


 俺にとって先輩は、初めて積極的に関わりたいと思った人だ。

 ただ、先輩にとって、俺は数いる友達の中の1人に過ぎないのだろうという遠慮があった。


 朗らかで、人の良い彼のことだ。友達は多いに決まっている。廊下でよく誰かと話しているのを見るし、スマートフォンは頻繁にメッセージを受信している。


 俺は先輩に対して少し引け目を感じていた。

 先輩は俺のことをどう思っているんだろう。友達だと思われているのはわかっているが、惰性で付き合っている程度の相手だとされていたらいたたまれない。


 人間関係というものは、結局はどちらかがどちらかに合わせ続けることで成立する。どちらか一方が我慢しなければ成り立たない。

 自分は相手に話したいことがある。でも、相手も話したいことがある。この場合、どちらか一方は聞き役をこなさなければならないのだ。

 人間関係というものはそういうものの繰り返しだ。


 先輩と話している時、俺は彼に合わせるということをせずに済んだ。言いたいことがある時、彼はしっかりそれを聞いてくれたし、何も話すことがない時は、彼の方から話題を振ってくれた。

 でも、先輩はどうなんだろう。

 彼との関わりを心地良いと思えば思うほど、彼に無理をさせているのではないかという疑惑が強くなった。

 俺が合わせてもらっているだけなんじゃないのか。そういう後ろめたさを捨てられなかった。


 それはある種の不信感だ。勝手に疑って勝手に不安になるというのもわがままな話だが、そう思ってしまったのだから仕方がない。人間関係に乏しいヤツが突然友達を持つとこうなるわけだ。

 まさか、よりにもよって自分が人間関係に悩まされることになるとは思ってもみなかった。


 先輩に対しての不信感が払拭されたのは一学期の最後の日だ。終業式を終わらせ、昼間のうちに学校から解放されたその日。

どちらが提案したのかは覚えていないが、2人でメシでも食べに行こうという話になった。


 学校から商店街に向かっている最中のことだ。

 真夏の直射日光から少しでも身を守ろうと、街路樹の影を縫うように歩いていく。今日の気温は何度だっただろうか。道路の先が蜃気楼でぼやけて見えた。


 日陰を歩いているものの焼け石に水だ。汗が止まらない。早くどこか冷房の利いた店に入って涼みたい。

 どこの店に入ろうか、と、考えあぐねていると、隣を歩く先輩が突然ポツリとつぶやいた。

「蒼ちゃんってメッチャ話しやすいよな」

「は? なんですか、いきなり」

 うだるような暑さにやられ、ついに頭がおかしくなったのか?

「あぁ、ゴメン。キモかった?」

 先輩は照れくさそうに頬をかいた。


 俺たちの間を通り過ぎるぬるい風が、彼の短くなった髪の毛を少しだけ揺らす。

 出会った時は結べるくらい長かった彼の髪は、夏の暑さに負けてばっさり切られてしまっていた。

 そういえば、先輩って3年生だったな。次の4月にはもう、同じ学校の生徒ではないのだ。彼が卒業後、就職するのか、進学するのかは知らないが、俺はきっと、彼のことを”先輩”と気軽に呼ぶことはできないのだろう。


 俺はため息をつきたい気持ちをぐっとこらえる。話している最中にそんなことをされたら、先輩は気にしてしまうだろうし。


 当の先輩は気恥ずかしさをごまかすように視線を明後日に方向に向け、ずっと思ってたんだけどさぁ、と前置きする。

「なんかこう、気を使わなくていいっていうか、話しやすいんだよね」

 俺はもちろん耳を疑った。

「初めて言われました」

「え、マジ? 意外だなぁ」

 先輩はにっと笑った。

「俺メッチャ気にするタイプだからさ。ふとした時に、なんであんなこと言っちゃったかなぁー、とか思っちゃうことが多くて、でも蒼ちゃんはそういうことないんだよね」


「だってほら、蒼ちゃんってすぐ顔に出るタイプじゃん。思ったことズケズケ言うし。だから言葉の裏を考える必要がないっていうか、話してて気が楽っていうか」


「なんですか、それ」

 俺は少しだけ笑った。いや、吹き出した。

 先輩の言うことが面白かったわけではない。自分がバカらしく思えたのだ。

 先輩を疑っていた自分がどのくらい愚かだったか、思い知らされた。

 この人は本気で俺のこと考えてくれていた。俺は彼にどう思われているかをずっと気にしていたのに。当の本人は俺のこと話しやすいって! 気が楽だって!


 今まで、こんなにも俺と向き合ってくれた人がいただろうか。神様も、信仰も関係なく、俺自身を見てくれた。この人がそばにいてくれたら、どんなに満たされるか。


 この日以来、俺は先輩を疑うことをやめた。むしろ信じている。

 そうやってここまでたどり着いた。


 この人は太陽だ。ずっと俺を見てくれる人。俺を満たしてくれる、最高に都合が良い人。


 俺は初めて、世界に対して充実感を持った。心の底から楽しかったんだ。

 彼と一緒にいることが、単純に幸せだった。


 だから、恐怖を抱いてしまった。いつか自分が消えてしまうことに。


 充実感を失いたくない。このままでいたい。今まで怖くもなんともなかった自分の行く末が、途端に恐ろしいものに感じられたんだ。


 いつか絶対に終わりが来る。先輩を巻き込んでしまうのは明白。でも離れられなかった。もう少しもう少しを繰り返して、結局どこにたどり着いた?



 意識が戻ったとき、俺はとても”あいまい”だった。

 音が聞こえているような、聞こえていないような。物が見えているような、見えていないような。頭の中で何かを考えることができているのに、どこか途切れ途切れで、思いついたことがすぐどこかに離れていってしまう。

 ここは? 何がどうなった? 先輩は? 俺は?

 緩やかな波と波の狭間で、されるがままに浮いている。いや、流されている?


 多分、すっごく遠くまで来てしまったんだろう。もう時間の問題だ。もう俺は"溶け始めてしまった"。溶けきってしまうのは次の瞬間か、それとも、もっと先のことか。


 上手く動かないからだに、必死になって力を込める。少しでも気を抜けば意識を失ってしまいそうだ。

 それでも、どこかに手を伸ばす。1歩、2歩を踏み出す。


 自分という存在があやふやになって溶けている。歩くたび、呼吸をするたび、まばたきをするたびに、どこかの感覚が消えていく。


 普通、人間は流体にはならない。

 どこかの感覚が消えていくたびに、思い知らされる。俺の正体なんて、所詮はこんなものなのだ、と。


 太陽と海は交わらないのだ。150,000,000km。こんなにも離れているのに、どうして傍にいられると思ってしまったんだろうか。一緒にいるべきじゃなかった。そうすれば、先輩を巻き込まずに済んだのに。


 行かなきゃ。

 彼はきっと流を殺しに行った。彼なら絶対にそうする。


 落ちている意識を拾い上げ、歩き続ける。


 先輩、俺は何だってやりますから。必ずあなたを守ります。そのためならなんだってやってやりますから。だって、太陽は空できらめくべきだ。海に呑まれるべきじゃない。


 眠りの淵から起き上がり、彼の元を目指していく。道には迷わない。明るい場所を目指せば、いつかはたどり着けるだろうから。

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