9.お前は何だ
廊下の左側の扉に向かい、ドアノブに手をかける。
扉を開いた。右側の部屋と同じく、6畳ほどの広さで、デスクや本棚が置かれた何の変哲もない簡素な部屋だ。床にはカーペットが敷かれており、壁に設けられた出窓には紺色のカーテンがかけられている。外観は立派なお屋敷であったから、部屋もかなり広いのではないかと思っていた。しかし、この部屋も先ほどの日記があった部屋も、広さは極めて普通だった。この家の持ち主は、生活するのに必要な広さが確保できればそれで良いと考えていたのだろうか。あんまりにも一つ一つの部屋が大きいと掃除するのも大変そうだし、手ごろな広さの部屋というのも魅力的だ。
この部屋は先ほどの部屋とは異なり、本棚の中には多くの本が並べられていた。パッと見ただけでも医学書などの専門書や海外作家の小説等が確認できる。本のジャンルはバラバラだ。背の高さ順に整頓されているところを見るに、持ち主はなかなか几帳面な性格のようだ。
部屋の中に足を踏み入れる。出窓の傍に置かれた簡素なデスクに鎮座する、真っ白な花瓶に目を奪われた。
「花?」
花瓶には1本のバラが生けてあった。真っ赤なバラだ。傷一つないその花びらは瑞々しく、自らの美しさを誇示するかのように大胆な姿をさらしている。トゲは全て切り落とされており、花瓶の中の水は透明で濁りはない。園芸には詳しくないが、しっかりと手入れが施されているのがよくわかる。バラは12月に咲く花ではないし、持ち主は随分と手をかけてこの花を咲かせたのだろう。
まてよ、しっかりと手入れされている?
全身からサッと血の気が引いていった。自分の身体にかかる重力が2倍になったような、鉛の枷でもつけられたような、そういう嫌な重さが容赦なく心臓を押しつぶした。
しっかりと手入れされているはずがない。この家には誰も出入りしていない。20年前に建てられたはいいが、誰も住んでいないという話だった。他の部屋だって新品の家具が放置されたまま埃を被っていたのだから、誰かが住んでいるなんてありえない。
デスクの表面を恐る恐る指でなぞる。埃がつもったようなザラザラとした感触はなく、この部屋だけは掃除が行き届いていることを否が応でも理解する。
誰かがいたんだ! 放棄されたこの家に誰かが。誰かがこの部屋を使っていた。それもついこの間まで。
この家の持ち主だろうか。だがなぜこの部屋なんだ? 他にも部屋はあるのに、わざわざここでなければならない理由があったのか。
考えあぐねる京介の背中に、不意に声がかけられた。
「ごきげんよう」
背後からかけられた声に驚き、ぎゃっと悲鳴をあげる。しなやかで、上品な声色だ。はじかれたように振り向くと、開け放たれた扉の先に1人の人物が立っていた。
外国の人だろうか。ゆるくカールのかかった艶やかな金色の髪に目をひかれる。その人は非常に端正な顔立ちをしている。月を思わせるような、愁いを帯びた真っ赤な双眸。そんな気はなくても狼狽を隠せない。
「あぁ、えっと…」
非常に中性的な顔をしているほか、すらりとした華奢な体格をしており、女性か男性か判断がつかない。日本の家屋のドアはだいたい180cmであるから、ドアの高さと比較して身長は170cm後半だと判断できる。京介と同じくらいだ。
彼、あるいは彼女は真っ黒なロングコートに身を包んでおり、その下にはハイネックの黒いニットを着込んでいた。ズボンもブーツも同様に真っ黒で、手元にはレザーの手袋をはめている。服装だけを見れば黒ずくめすぎて奇妙であるが、その人は極めて自然に、その黒一色の衣服を着こなしており、不自然さのようなものは感じない。ともすれば洗練された印象さえ受ける。
言葉が出ない。自分や蒼、田中のほかに人がいたなんて。だがおかしくないか。他の部屋を見て回った時、自分たち以外の人間はいなかった。
裏口もなかったから、2階に上がってくるには正面の玄関と、蒼や田中がいる1階の廊下を通り抜けてこなければならない。玄関が開く音を自分が聞き逃してたとしても、蒼や田中は何かあれば必ず自分のことを呼ぶはずだ。その声を聞き逃すはずがない。
つまり、つまりだ。どう考えても目の前の人間は突然この場に現れた。廊下の窓から入った可能性も考えられないことはないが、窓が開いたのであれば音がするはずだし、そもそもこの人が履いているブーツの踵はかなり高い。その昔、学園祭で女装した時に、踵の高い靴を履かされたことはあるが、とてもじゃないが痛くて耐えられず、10分でギブアップした経験がある。あんなものを履いて登攀なんて不可能だろう。
輝かしい容貌の中に不気味なものを覚え、こぶしを強く握りしめた。もしこの人が自分にとって都合の悪い敵だったら? 入口を塞がれている今、どこから逃げればいい。
視線をさまよわせる京介をよそに、その人はクスクスと笑みを浮かべる。
「びっくりしたかしら。ごめんなさいね」
謝罪の言葉を口にしながら、デスクの傍においてある椅子に向かい、静かに腰を下ろす。歪みのないたおやかな所作だ。もしかすると、高貴な身分の人なのかもしれない。ドラマでよく見るような令嬢、もしくは御曹司みたいな、いわゆる上流階級の人。
入り口からその人が移動したのを見計らい、距離を保つように窓の方へ後ずさる。これで幾分か逃げやすくはなっただろう。
「俺は
逃走経路について思考を巡らす京介の心情を気にもかけず、その人は名を名乗った。アカガハラ ナガレ。赤ヶ原流?
先ほどの日記が脳裏をよぎる。この人が…
喉元に強烈な異物感を覚える。
目の前に現れた流という人物は20代後半くらいに見える。ずっと昔に書かれた日記に登場する人物が、こうも若い姿で現れるのはおかしくないか? どう考えてもつじつまが合わない。
ダメだ、ダメだ。負けるな。気をしっかり持て。
必死に声を絞り出す。
「立花京介です。あの、ここのお家の人ですよね。スンマセン、勝手にあがっちゃって」
流への警戒心を押し殺しながら、なるべく愛想のよい顔で名乗りを返す。目の前の流という人物は、この怪異について絶対に何かを知っているはずだ。もしかすると情報を引き出せるかもしれない。
腹の探り合いのようになってしまうのは心苦しいが、まずは流が敵か味方かを見分けなければ。
もしかすると味方になってくれる人かもしれない。
「いいのよ。結構気にするタイプの人なのね」
流は腕を組むと口元に手をやった。そんなさりげない所作でさえ絵になる。有名な絵画でも見ているような気分だ。
「自分たち以外はいないと思っていたのに、急に人が出てきたら驚くのも無理はないわ」
蒼も負けず劣らず綺麗な顔立ちをしているが、彼は自分の容姿に全く気を配らないタイプだ。猫背で、愛想がよい方ではない。服装にも気を使うことはなく、クローゼットから目についたものを適当に引っ張り出して外出することが多い。
彼が大学に入ったばかりのころの話だが、京介が趣味で買った柄物の派手なTシャツに、高校の時のジャージの長ズボンを着て出かけてしまったことだってある。
蒼の服装をどうにかしようと思い立ち、どんな組み合わせでもそれっぽい無難な恰好ができるよう、クローゼットの中身を入れ替えたことで現在は事なきを得ている。
結局、当たり障りのない格好になってしまってはいるが。
そういう、自分の容姿に無頓着な蒼とは異なり、流は全くもって正反対なタイプだと言えるだろう。
外部から自分がどう見えるか、非常に気を配っているように思える。背筋は真っすぐで、愛想もいいし、耳に心地良い上品な話し方をする。頭のてっぺんからつま先にかけて、一切の無駄を感じさせない。
服装についてもそうだ。部屋に電気がついていないこともあって、遠目では黒一色に見えたコートには、実はペイズリーがあしらわれており、シックな雰囲気を醸している。踵が高いブーツは手入れがしっかりとされている。汚れや傷などは見当たらない。
見た目の美しさに一切の妥協がないのだ。きっとこの人は努力を厭わない性格なのだろう。
京介は流に、ある種の執念のようなものを感じた。
流は目を細め、京介を品定めするようにじっと眺める。京介が流の出現に驚いたように、流も京介との遭遇に驚いたのだろうか。なんだか心の内を見透かされているような感じだ。落ち着かない。
「俺も驚いたわ。普通の人間はもう使い切ってしまったと思っていたから」
は?
「使い切った?」
表情が強張るのを隠せない。心臓が軋む。
反面、流はなんでもないような、極めて当たり前のことを口走るように京介の疑問に答えた。
「赤い壁を見たでしょう。あれを作るのに全部使ったと言ったらわかりやすいかしら。副産物として落とし子ができちゃったのは予想外だったけれど」
「お前」
「誰彼構わず襲ってしまうから困っているの。俺だって何回か襲われたわ。術式を組むときに、どこかで余計なことしちゃったのね、きっと。バグみたいなものに違いないわ」
それは極めて真摯な様子だった。嘲りや悲嘆などの感情は見受けられない。言葉の裏に含みはない。
「あぁ、ごめんなさい。使い切ったって話が聞きたいのよね。でもそれ以上の言葉はないわ。橋を作るには木材がいる。服を作るには布がいる。ただそれだけのことよ」
「…どうしてそんなことを」
声を出せたのが自分でも不思議だ。不意打ちだ。こんなの。あんまりにも手痛すぎる。
クスリ。流が笑う。
「儀式のためよ。うみなり様を復活させることが我々の望み。だからやった」
流の表情がゆがんだ。それでもその顔は美しい。だがその美しさは自然なものだ。彼、または彼女が磨いてきた美しさではない。
人に見せることを想定していない表情。京介は無意識に唾をのんだ。怖くなったのだ。
流のゆがんだ表情の奥底に、激しく、ひたすらに、一途で、純粋な感情を垣間見た。それがどうしようもなく怖いのだ。
「うみなり様はすべてを赦し、愛してくださる。その心に報いるために、我々は血を繋いできた。我々の先祖が神、いや、正しくは神の亡骸をその身に宿して何百年? 何千年? どのくらい経ったかなんて知らない。気が遠くなるほどの歳月をかけて、我々はついに御子を完成させた。で、あれば、我々はもう1つの役割を果たさなくてはならない」
それはむき出しの感情だ。燃え盛る炎のような熱量で、研ぎ澄まされた鋭い切っ先で、真っ直ぐに京介の心臓を貫いた。
「うみなり様を蘇らせる」
コイツだ! 間違いない。コイツがすべてを仕組んだ!
「儀式はもう始まっている。楔はもう起動した」
流は勢いよく立ち上がった。
「蘇った神は海となって世界を満たす。海は生態系を塗り替え、命を作り変える。そして新たな命を生む」
「そんなこと、本当に」
京介は首を左右に振った。
うわごとの様な拒絶に、流は首を傾げた。
「神を疑うことは世界を疑うこと。神格を否定し、その心を拒絶することは我々に対する冒涜だ。愛に報いるべく、ひたむきに神を崇拝する我ら信者に異を唱え、火を向けるつもりか」
流は京介へ右手を伸ばした。手を取れというかのように。
「かまわない! かまわないぞ。神はそれでもお前を赦す。お前を愛する。我々も同じだ。神がお前を赦し、愛する限り、我々もお前を同胞としよう」
突然、階下から大きな音がする。建物が崩れてしまったかのような激しい轟音。
1階で何かがあった。蒼や田中は無事だろうか。
「行かなくていいの? 京介」
試すような口ぶりで、流が首を傾げる。
流は興が削がれたのか、京介に興味を失ってしまったかのようにバラの方へ向き直り、その花びらに指を滑らせる。
「…」
コイツ、行かせようとしているな。直感でそう理解する。
流は興味を失ったフリをし、視線を逸らすことで京介がこの部屋から出るように仕向けている。後ろからお前を刺すような真似はしない。だから早くいけ。そういう腹づもりであるのは疑う余地もない。
ここは流の思惑に乗らざるを得ない。敵に塩を送られたようなものだ。若干の悔しさを覚え、唇を噛んだ。
流は間違いなく敵である。そして、この町を襲った怪異を解決するための糸口である。暗闇の中で見つけた蜘蛛の糸のようなもの。それをみすみす手放すような行為はしたくない。
しかし、しかしだ。蒼や田中のことが心配だ。今自分が優先すべき事柄は明白。この町の怪異を解決したところで、彼らを失ってしまえば意味がない。
京介は一目散に駆け出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます