仕入屋錠前屋002

16

飛んでいく

 ここ最近、手首が痛い。

 哲の素人診断では腱鞘炎になりかけているのではないかと思うのだが、病院に行ったわけではないから本当のところは分からない。だが、原因ははっきりしている。キャベツの千切りだ。

 つい先日、居酒屋の厨房アルバイトが一人辞めた。哲自身もバイトだが、そいつは大学生。働き者でそいつがシフトに入ると助かったのだが、学業の方に問題があったらしい。居酒屋では優秀でも勉強も同じとは限らないのか、それともバイトに精を出しすぎたのかは知らない。進級できるか否か、単位数が足りず崖っぷちだということだった。

 人が減ったタイミングで、店主の親父が突然コロッケをメニューに加えた。それはまあいい。だが、なぜか必要以上に大量のキャベツが添えられることとなり、おまけにおかわり自由に設定された。

 いいよ、いいですよ別に。キャベツおかわり自由。今シーズン、キャベツは豊作らしかった。仕入も安く済み、客は酒を飲みながら生野菜が食える。お互いいいことしかないはずが大誤算だったのは、このコロッケの評判がすこぶる良かったこと、キャベツの千切りの需要が急激に拡大したことだった。

 店主は料理だけではなく、カウンター越しの接客もある。当然キャベツの千切りという単純にして地味且つ誰がやってもいい作業はバイトたちの手に委ねられた。件の大学生がいたらそいつが担当しただろうが、残念ながらやつはもういない。

 店主のポリシーでスライサー使用が禁止されているために、哲はここのところ調理そっちのけで毎晩キャベツを刻んでいる。錠前屋どころか千切りキャベツ屋と胸を張れるくらいだ。

 当初は俎板も切れよとばかりにキャベツに真剣勝負を挑んでいたが、慣れというのは恐ろしいもので、最近は別のことを考えながら今まで以上に千切りを量産することが可能となった。

 しかし、だからといって将来に生かせるわけでもないし、何よりとにかく手首が痛い。料理人ってのは大変なんだな、と思う錠前屋であった。


 哲が左手で煙草を挟むと、秋野がちょっと眉を上げた。何食わぬ顔をして見せたつもりだったが、秋野の視線が右手に移動し、失敗したことがわかった。だが、とりあえず見た目に傷がないのでいいと思ったのか、実は気づいたわけではなかったのか、とにかく特に突っ込みはなかった。それなら藪をつつく必要もないだろうと、哲もあえて触れないことにした。

 隣に立つ男の横顔に目を向けて、哲は声に出さずに秋野を罵った。こいつはいつもそうだ。何だかよくわからない基準でやけに哲の心配をしたり世話を焼いたりするわりには——耀司曰く大事にしているということらしいが勘弁してほしい——自分では平気で哲を蹴ったり殴ったり噛んだりする。

 噛みつくのはともかく殴る蹴るは先に手を出す哲が悪いから自業自得でもあるのだが、この間は殴り合いの果てに襲われた。今でも秋野の顔を見るたびにケツが痛む気がしてならない。

 長いことその顔を眺めていると、秋野がこちらを向いて何だという顔をした。哲は何も答えず、秋野の顔から目を逸らした。黒いコンタクトを入れた秋野は嫌いだ。目の色が違うだけなのに、なぜか哲の興味をひかない。あまりにも何かが足りなすぎるのだ。

 秋野が哲の肩を叩く。そろそろ行く、という合図だ。哲は足元に吸殻を捨ててスニーカーの底で揉み消し、ジャケットのポケットに突っ込んだ。マナー云々以前に自分の痕跡を残したくないからでもある。

 秋野がシャッターのいくつか並んだ建物に近づいた。建物といってもその敷地の半分近くには何もない。ここは配送センターのような場所らしい。トラックがシャッター部分に合わせてバックすると建物と荷台が直結するかたちになって、荷物の積み込みができるようになっているのだ。

 秋野はある列の端から順にシャッターの上に記された番号を確認し始めた。敷地は広いが、大体の位置は事前に連絡があるのだろう。すぐに目的の場所を見つけた秋野が哲を手招いた。

 古いシャッターの錠は古くて脆弱なシリンダータイプだった。そこそこ大きな企業ならともかく、地場の中小企業では複雑なセキュリティシステムなど導入されていないところも多い。防犯カメラのダミーすらないのだから、シャッターもどの程度のものがついているかは推して知るべしだ。

 巻き上がったときにはそこそこでかい音がしたが、周囲に民家があるわけでもない。秋野が何を仕入れるのか知らないし興味もないので、哲はシャッターをくぐったところで立ち止まった。

 きちんと梱包された箱の他に、雑多なものを入れたダンボールがあちらこちらに置いてある。そのうちのひとつに腰かけようと近づき、哲は思い切り顔をしかめた。

 そこには、あるJAのロゴとともに、でかでかとキャベツと書かれていた。



 秋野を迎えた男はいかにも社長という雰囲気を持っていた。押し出しのいい中年男。額は後退しているが、それもまた渋い魅力になっている。腹の周りには年相応に脂肪がついていそうだったが、そうだとしても仕立てのいいダブルのスーツがうまく隠しているようだった。

 男は応接室と書かれた部屋に秋野を通し「さあ、どうぞ座って」と椅子を勧めた。 ここは岩倉画廊と関係の深い紙類の卸会社で、男はその会社の社長である。オーナーなのか雇われなのかまでは調べていないが、ここ最近の業績はいいらしく、どちらにしても優秀らしい。

 男はコーヒーを淹れてきた女性社員に気さくに礼を言い、秋野の向かいに腰を下ろした。

「いや、どうも、お呼びたてしてしまって。はじめまして、土橋と申します」

 受け取った名刺には土橋どばし賢輔けんすけという名前が印刷されている。勿論事前に杏子から話は聞いているから知っているが、それはお互い承知のことだ。

「岩倉さんの奥さんからご紹介頂きましてね、是非手に入れて頂きたいものがあるんですよ」

 杏子はあれからたまに秋野に仕事を回してくるようになった。土橋もそうだが、基本的には岩倉の友人か仕事関係の知人が多い。

「僕にできることでしたら」

 秋野が言うと、土橋は思い切り笑顔になった。前置きなしに本題に入る率直さといい、気持ちのいい笑顔といい、人に好感を与える男だ。

「岩倉さんみたいにすごいことはお願いしませんよ。ご心配なく」

 秋野が思わず笑うと、土橋はテーブルの上に用意されていたA4サイズの封筒から用紙を取り出した。

「ここにまとめました」

 土橋が差し出したのは、表計算ソフトで簡単に作ったらしい一覧だった。自分で作ったのだろう、事務処理に慣れた人間が作ったものとは違う拙さがある。秋野はどこかぎこちない一覧表を眺めながら記憶を辿った。

「作家ですか?」

 どこかで見たような名前だが、はっきりとは分からない。ただ、名前の他に並んでいるのは明らかに出版社と書籍名に見える。

「そうなんです、この作家の本を探してまして──ああ、普通に買えるものもあるんですよ。今はほら、インターネットで何でも手に入りますからねえ」

 秋野は黙って頷いた。土橋のいうとおり、今はどこにいても大抵のものが手に入る。そういう時代だから秋野の商売も上がったりでおかしくはない。だが、仕事は今も昔も変わらずあって、減ってはいなかった。非合法的でもいい、どんな手段でも構わないから望むものを手に入れたいと願うひとがどれほど多いかということだろう。

「……初版本を探しているんですよ」

 そんなものは、伝手を頼れば手に入るだろうに。

 この男は、本を手に入れ、そして何を手に入れたいのだろう。微笑む土橋を見つめながら、秋野はもう一度手の中の用紙に視線を落とした。



 商店街のど真ん中。おばちゃんや年寄りから頭ひとつ飛び出ているやつがいる。見慣れた背中に、哲は思わず仕入屋の名前を口にした。

「──秋野」

 普段はあまり名前を呼ぶことがない。最初は苗字だと思っていたから頻繁に口にしていたが、秋野には苗字がなくて、それが名前だと知ったからだ。名前で呼び合うことに深い意味を見出す質ではないのだが、秋野を呼ぶこと──そして哲、と呼ばれること──にはなぜか多少の屈託がある。

 薬屋の前で振り返った秋野は哲を認めて薄い色の目を細めた。声をかけた格好になった手前そのまま立ち去るわけにも行かず、哲は仕方なく歩を進めた。

「珍しいな、こんなとこにいんの」

「お前こそ。買い物か?」

 哲がぶら下げたビニール袋に目をやり、秋野は僅かに首を傾げた。ビニール袋は半透明だから透けているが、中身は箱なので何を買ったか見えるわけではない。

「包丁」

「包丁?」

「キャベツ用に」

「キャベツ?」

 怪訝そうな顔をする秋野を見てみたが、手はに何も持っていない。

「そういうお前は何してんだよ」

「ちょっと業者のとこに。仕事でな」

 秋野は哲が当然ついて来ると思っているのか、さっさと背を向けて歩き出した。秋野の思い通りになるのは癪だが、ここで踵を返すのもそれはそれで負けたような気がする。

 哲が舌打ちして横に並ぶと、秋野は唇の端を曲げて笑った。むかつくやつだ。横合いからふくらはぎを強く蹴飛ばすと、秋野は堪え切れずにちょっとよろけた。ざま見ろ、と口の中で呟く。

「まったく、往来で蹴飛ばすんじゃないよ」

「往来じゃなきゃいいのかよ」

 秋野は小さく笑ったが答えなかった。

「で、何やってんだって?」

「稀購本を探しにきた」

「なんだ、古本か」

「身も蓋もないよ、お前」

 秋野は溜息を吐き、あそこだと長い指を持ち上げた。指の先には「稲盛古書」と書かれた色の剥げた看板。どれも間口の狭い古い店と店の間に挟まる地味な古書店が、秋野の目的地のようだった。


 今時懐古趣味の喫茶店でもあるまいし、ドアに鈴がついている店が現存するとは。もっとも、哲がその手の趣ある店に出入りしないだけかもしれないが。

 正にちりんちりんと音を立てる鈴から視線を戻し、哲は店内を見回した。古い本特有のにおいがするが、店内は意外にきれいで風通しがいい。

 哲はほとんど本を読まない。高校のとき一緒に暮らした祖父が推理小説やハードボイルドが好きで、よく哲にも本くらい読めと寄越したものだった。そのお陰で今でもそういうものなら読むこともあるが、この古書店にあるのは気軽に読める文庫本の類ではないらしい。

 その辺の本屋で見かけるようなものはほとんどない。ハードカバーの重そうな本は表紙に薄紙がかけてあり、どれも同じに見える。なんだか全集——それも小説ではなく論文集——やら聞いたことのない日本画家の画集やらが、棚にも棚以外にも所狭しと並んでいた。

「いらっしゃいませ」

 のんびりとした声がするほうを向くと、青年が立っていた。背丈はそれなりにあるが線が細く、いかにもインドアな感じだ。流行のカラーにした長めの髪と丁寧に整えられた眉は有名事務所のアイドルのようだが、それにしては覇気がなさすぎる。そいつは秋野に目を向け、次いで哲を見てぱっと顔を輝かせた。

「あっ!」

 でかい声を出されたので顔をしっかり見てみたが、知り合いではない。

「知り合いか?」

「いや──」

「キャベツの人じゃないですか!」

そいつが嬉しそうに放った言葉に結構打ちのめされ、哲は思わずがっくりと肩を落とした。


 書店名がそのまま苗字だという稲盛いなもりは、つい先頃哲の働く居酒屋に客としてきていたらしい。

「コロッケ美味しかったですー」

 稲盛は擬音語で表せばほわり、とかふにゃり、というような感じで笑った。

 哲はつい顔を引き攣らせた。男でも女でもこういうタイプは哲の苦手とするところだ。嫌いなわけではないのだが、どうにも話が噛み合わない。

「友達と三人で行ったんですけど、すごくキャベツ好きなやつがいて、何回も持ってきてもらって」

 言われてみたら、確かにそんな記憶がある。人相は分からないが、やたらキャベツのお代わりを頼むテーブルがあったと他のバイトが言っていた。秋野は哲のぶら下げたビニール袋に目を向けて笑った。

「お代わり自由?」

「そうだ。キャベツがすげえ好きなやつって何だよまったく」

「それでこの間、段ボール箱に向かっておかしな目つきをしてたんだな」

「うるせえな。キャベツの代わりにてめえの喉掻っ捌くぞ」

 哲の乱暴な言葉に怯んだのか、稲盛の笑顔が強張る。秋野はまだ口元を緩めたまま稲盛に向き直った。

「で、手に入ったんだったな?」

「あ? あ、ああ、はいはいはい」

 稲盛は忙しなく返事をしながら狭いカウンターの奥に入り込んで見えなくなった。カウンターの向こうも本が山積みだ。すぐにパタパタ——この表現がぴったりくる——と足音をさせて稲盛が戻ってきた。

「はい、ご注文の本。さすがに俺も諦めかけました」

 差し出されたのは表紙が黄ばんだ本だった。薄っぺらく、教科書くらいの大きさだ。

「実はご依頼頂いてすぐ一冊見つけたんですけど、あまりに状態が悪くって。さすがに売り物にならないなって……そこからが長くてですねえ」

 秋野は本を手に取って、表紙を眺めたり裏返したりしている。著者名か何か確認しているのだろう。

「ありがとう。金は振り込むよ」

「毎度」

 稲盛はふにゃー、とだらしなく笑うと、哲に手を振った。

「またお店に行きますねー、キャベツ係さん」

 哲は憮然として店を出ながら呟いた。

「もう来んな」

 秋野は後ろ手にドアを閉めながら吹き出した。


 通話を終えた秋野はなぜか困ったような顔をしていた。

「何だよ」

 稲盛古書を後にして、秋野はすぐに依頼主だという会社社長に電話をかけた。土橋という名の社長は友人への贈り物としてこの本を探していたらしい。

 随分前に発行された詩集で、特に前衛的だったわけでもないが、内容が時代に合わなかったのかすぐに廃刊になったそうだ。その後研究者や愛好家の声もあって評価が高まり新たに出版されたものの、初版本は手に入れることが困難だという。そういう稀覯本ばかり集めるマニアもいるとかで、哲からしたら目玉が飛び出しそうな高値で取引されているようだった。

「俺に届けて欲しいって」

「その依頼人に? それは当たり前じゃねえの」

「いや、自分で所有するんじゃなくて贈るって──その相手に」

「ふうん。まあ、どうせ高い金払ってもらってんだったらそのくらいしてやってもいいじゃねえか」

「それはそうなんだが」

 少しの手間を惜しむのは秋野のやり方ではない気がして、考え込んでいる秋野の顔に目を向ける。少しの間その場で突っ立っていた秋野は、手の中の包みを見つめて呟いた。

「──末期癌で入院してるそうだ」

「ああ……」

 相槌を打ったものの、何を言っていいかよく分からない。

「仕方ないな。これも仕事だし」

 溜息を吐きそうな顔で──実際には吐かなかったが──言う秋野の背後を腰の曲がった老人が通り過ぎた。曖昧な色のシャツに曖昧な色のズボン。ズボンとしかいいようがないそのボトムはやけに丈が短くて、右足の靴下がずり下がっているのが見えていた。

 鼻歌なのか呪文なのかよく分からないものを口ずさみながら歩いていく。着ているものも薄くなった頭髪も、くたびれているが元気そうだ。見た目だけで判断はできないが、それでも目に見える限り、その老人は死という言葉からは遠かった。

 背筋を伸ばし、野暮ったさとは無縁という顔で佇んでいる酒の色の目を持つ男。こいつもいつか病み、衰えるのだろうかとふと考え、どうでもいいことだと頭から追いやった。

 秋野の未来に興味はない。人間なのだからいつかは老いるし、死ぬのだろう。だが、そんなことに思いを馳せるような仲でもないし、そもそもそこまで付き合いが続くわけでもないと思う。

 「……つき合ってやるよ」

 哲が言うと、秋野は手にした本から哲に目を移した。

 病んでも、老いても。その日が来ても、多分こいつの目だけはそのままだ。その時秋野の隣にいるのが誰かは哲の知ったことではないけれど。

「さっさと行っちまおうぜ」

 秋野は微かに笑い、頷いて歩き出した。



 その総合病院は大きく、病室さえ知っていれば誰に断ることもなく見舞いに行けた。末期の癌患者というともっと隔離というか滅菌された場所にいると思っていた哲には意外だったが、病院の治療方針によるのかも知れない。

 秋野が訪ねた病室は個室で、内田うちだ宗市そういちと書かれた名札が掛かっていた。秋野のノックに意外にしっかりした声で返事があり、秋野は数秒待って静かに引き戸を開けた。

 ベッドの上の痩せた男がゆっくりとこちらを向いた。病気のせいか元々の体つきなのかは分からない。優雅と表現していい長い指は掛け布団の上で組まれている。

 傍らの棚には本が積み上げてあり、老眼鏡らしき眼鏡をかけていた。男は秋野と哲に目をやり、誰だったか、という顔をした。

「はじめまして」

 会釈した秋野の虹彩の色に興味を引かれたのか、男は秋野をじっと見つめる。その瞳には高い知性を感じさせる何かがあった。

「土橋賢輔さんからのお届け物をお持ちしました」

 秋野の柔らかな声に対して、男は怪訝そうに眉を寄せた。

「土橋から?」

「あなたにお届けするように言付かりました」

 内田は秋野の差し出した包みをじっと見つめ、どういう意味なのか、首を振った。

「どうぞ、よかったらお掛け下さい」

 内田の手は布団の上に置かれたままだった。拒否はしないものの受け取ろうとはしない内田を束の間見つめ、秋野は結局本を引っ込めた。何も言わずに見舞い客用のパイプ椅子を移動させて腰を下ろす。椅子はもう一脚あったが、哲は入り口の壁にに凭れて腕を組んだ。

「……私と土橋は大学が一緒でしてね」

 秋野が落ち着いたのを見計らった内田が口を開いた。どの部位の癌なのかは見ただけでは分からない。声が出るから喉頭癌ではないのだろう、と想像できるだけだ。弱ってはいるようだが、しっかりした声だった。

「あいつとは常に張り合いました。成績も、女の子も、酒の量でさえ……きみたちもそうですか?」

「いえ」

 秋野は微かに笑って首を振る。内田は柔らかい笑みを浮かべて続けた。

「土橋と私の恋人が駆け落ちしたのは、もう遠い昔の話です」

 細く、だがしっかりとした内田の声は、白く清潔な病室に寂しく響いた。

「あの頃はあいつを恨みましたけどねえ。そのお陰で私は家内に会えたんですから、結果よければ、ですよ。あいつは今は——社長か。そうですか。偉くなったんだなあ」

 内田はまた秋野に微笑みかけた。秋野の手の中の本。それが本だというのは形からすぐに分かるだろう。入手困難だとか、高価だとか。どうでもいいことだと送り主も多分分かっている。

「土橋に言ってください。直接渡しに来いと」

 ほとんど独り言のような低い声が病室に響く。小さいのに確かな芯があるそれは、哲の耳にもはっきり届いた。

 死にかけている人間の声ではない。柔らかくて、そして強い声に首肯して、秋野はパイプ椅子から腰を上げた。




「そういうわけですから、どうぞご自分で」

 秋野がそう言って包みを応接セットのテーブルに置くと、土橋はその上で視線と手を彷徨わせた。以前会ったときのにこやかさはなく、今日の土橋は知らない場所で困惑している子供のように見えた。そうでなければ、その子供を探して右往左往する親のように。

「内田は、」

「お元気でしたよ。今は、まだ」

 土橋は大きく息をつき、掌で顔を擦った。

「すみません、きみにまで面倒かけて」

 土橋は前回と変わらず高級そうなスーツに身を包んで、精力的な実業家そのものの外見だった。だが今は急に老けてしまったように、五十代後半だという実年齢より上に見えた。ソファの背凭れに背を預けて溜息を吐く。土橋はもう一度本に目を向けて、身体を起こして座り直した。

「内田はね、大学の教授なんです。文学部で、詩が専門でね。これはあいつが欲しがってた本なんだそうです。知り合いの学生にこっそりリサーチさせたんですよ」

 秋野は病室のベッドの上で、本を傍らにしていた内田の知的な雰囲気を思い出した。どこか浮世離れしたような感じも、学究の徒と言われれば納得がいく。

「もうお聞きになったかもしれないな。私はあいつの婚約者に横恋慕しましてね。それが原因でずっと連絡を絶ってました。しかし、同窓会であいつが癌だって聞きましてねえ」

 土橋は顔を俯けた。土橋の顔に落ちかけた陽が当たり、皺が一層深く見える。

「あいつは、いつも私の先を行っていた。勉強も、恋も、何でもね」

 顔を上げ秋野の目の色に今気付いたとでも言うようにじっと見入って、土橋は呟くように先を続けた。

「いつも、先に先にって——そうやってあいつは飛んでいく。今度も、私より先に」

 秋野の目を見ているようで、どこか遠くを見ているようだった。過去の自分や、今の自分。先を行く背中を追いかけて、追いつき追い越したと思ったら手の届かないところへ飛んでいく。追いつくことが幸せなのか、それとも兎と亀の昔話は真実なのか。時と場合と相手との関係が入り乱れて解きほぐせない。こういうことに確かな答えなんかないのだろう。

「……若い人にはまだ、ピンと来ないだろうね。自分が死ぬということは」

 秋野は黙って土橋の目を見返した。

「あいつが癌だって聞いて、ショックでね……仲も良かったけれど、それだけじゃあなくて——何と言えばいいかな。先に死ぬのも怖いが、置いていかれるのも怖くなってくるんですよ。私くらいの年齢になるとねえ」

 土橋の掌は袋に入った詩集に置かれていた。今、それだけが彼をこの世界に繋ぎとめているかのように、しっかりと。

「友情っていうのは、なかなかなかったことにできないものですよ、恋愛とは違ってね。長年連絡を絶っていたことを後悔しています。こんなものを渡したところで許されはしないのにね」

 指先が詩集をそっと撫でる。

「あなたも、お若いうちに手に入れた友情は大事にした方がいい。失くしてからでは、遅いんです」

 秋野は土橋に出されたコーヒーのカップに手を伸ばした。その動きに我に返ったように土橋が瞬きする。

「やはり、ご自分でお渡しになったほうがいい」

 低く呟いた秋野の声に、土橋は両手で顔を覆った。




 哲が一服しに店の裏に出ていると、一体どうやって嗅ぎつけたのか、秋野がふらりと現れた。

「サボりか?」

「違う、休憩」

 しゃがんで煙草を吸っている哲を見下ろした秋野は低く笑った。

「高校生が教師に隠れて吸ってるみたいだな」

「隠れてねえし。何か用かよ」

「いや、お前が右手を傷めてまで千切りしてるキャベツでも食ってやろうかと思って」

 やはり右手が痛むことはばれていたらしい。渋い顔になった哲を見下ろし、憎たらしいことに秋野は一層笑顔になった。

「お前に食わせるキャベツはねえ」

「まあそう言うな」

「うるせえ。あ、そういや古本、どうなった?」

 秋野はしゃがんだ哲の隣に立ち、壁に凭れて腕を組んだ。真横に立った秋野の顔が哲から見えなくなる。

「自分で行くと言ってた。謝って渡してくるそうだ」

「何を謝るんだかな」

 哲は吐き出した煙で輪を作った。哲の口から次々に生まれる細く儚い煙の輪は、すぐに崩れ、かたちを失って薄れていく。

「あの内田っておっさんは、謝ってほしいわけじゃねえだろうに」

「土橋さんは謝りたいんだからそれでいいんだろう」

 秋野は哲が作った新しい煙の輪をひとつ、伸ばした指でかき回した。長い指にまとわりつく煙の筋はまるで蜘蛛の糸だ。自分の肺から出てきたものとは思えないくらい執拗に秋野の周りを漂い、そして掻き消える。

「飛んでいく。煙も、内田さんも」

「何?」

 意味が分からず身体を捻って見上げると、秋野は真面目な面持ちで煙が消えていくのを見つめていた。まるで煙と一緒にあの世まで流れていきそうだ。哲がそんなことを思った途端、秋野は急に肩を竦め、呟いた。

「俺が死んだらお前は泣くかな」

 哲はアスファルトで煙草を揉み消し、吸殻を拾って立ち上がった。

「泣くわけねえだろう、分かってねえな。お前癌なのか?」

「まさか」

 裏口を開けた哲は表に向かって顎をしゃくった。

「お客さんは向こうだよ」

「はいはい。死ぬほどキャベツを食ってやる」

「死ね、くそったれ」

 まだ死なないと分かっているから。死にそうにない男だから、わざとそう口にした。

 秋野は喉の奥を鳴らして笑い、哲に背を向け表に向かう。裏口のドアを閉めかけて振り返ったが、秋野はもう見えなかった。分かってないのはお前だと聞こえたのは、多分空耳だったのだろう。

 その日も哲の右手は商売繁盛。キャベツは大層消費された。

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