17

プラズマ邂逅 1

 偶然というのは恐ろしい。後に身をもって知ることになるが、今この瞬間、予知能力があるわけでもない哲がそれを知るはずもなかった。

 哲は吹きつける風の冷たさに首を竦めながら、雑踏の中に立っていた。普段あまり足を向けることがない中心部は、昼を過ぎたばかりだというのに結構な人手だ。自分の仕事が休みなのだから日曜日だと気がついて、混雑具合に納得する。待ち合わせの定番ともいえる百貨店の前は老若男女、連れを待つ人でごった返していた。

 本来哲はここにいるはずではなかった。今頃は古くてボロいながらも屋根のある我が家で惰眠を貪っているはずだったのだ。

 それが吹きっさらしの百貨店前で寒さに震えて——はいなかったが、そう主張してやる——いるのは、結局のところまたあの虎野郎のせいだ。哲は秋野の薄茶の瞳を思い出して舌打ちした。隣に立っていた女子高校生が不機嫌そうな哲の表情に気づいて離れていったから、腹の中だけで謝っておく。声をかけたら更に怖がらせてしまうかもしれない。

 つい先日、秋野は仕事で稀覯本を手に入れた。解錠が絡まない限り秋野の仕事の内容を聞いたりしないが、そのときはたまたま行き会った哲も古書店につき合った。どこかの社長が昔の知り合いのために探しているのだとかなんとか。贈られる側は入院しているという話で、秋野が病院まで本を届けたはずだった。

「暇か?」

「暇じゃねえ」

 朝っぱらからかかってきた電話は、相手が誰か分かった瞬間切ってやった。だが、遠慮とか配慮という言葉を──少なくとも哲に対しては──知らない男は平然とまたかけてきた。

「この間古本を届けた相手がいたろ? 彼の見舞いに行くからつき合わないか」

 眠いから誰のであっても見舞いには行かないと言うと、じゃあ見舞いはいいから終わったら飯を食おうと言う。断ってもまったくいうことをきかない。というか、哲の言うことは端から聞いていない。

 秋野はそうやって哲の嫌がることをしては喜ぶ癖があって、いちいち腹を立てながらもつき合ってしまうことが多かった。別に秋野のすることに逆らえないとかいうわけではない。いちいち真面目に相手をするのが面倒臭くてつい折れるだけで、結局は今日もそうだった。

 周りには学生、カップル、女の子の集団、中年の夫婦、子供連れ——と、とにかく雑多な構成の人が溢れている。その人混みの向こうにようやく秋野の横顔が見えた。百八十五センチと数字にしてしまえば大した長身とも思えないが、やはり雑踏からは頭ひとつ抜け出していた。

 哲は向かいから来た女を避けながら、こちらに気づかない秋野に向かって声を上げた。

「秋野!」

 秋野と、哲の脇をすり抜けようとしていた女が同時に哲を見た。視線を感じて真横に立つ女に目を向けたが、まるで見覚えがない。

 哲より少し年上。目を瞠るほどの美人というわけではないが、きれいな女だ。女は哲から視線を外し、ゆっくりと振り返った。

 こちらに歩み寄る秋野が息を呑む音が聞こえた気がした。鋭く短い、ほとんど聴こえないくらいの音が。

 哲は見る間に蒼白になった女の顔と、立ち尽くす秋野を見比べた。秋野の色を失った唇が僅かに開き、掠れた声が「たかこ」と言った。

 聞いたことがあると思ったものの、どこで耳にしたかわからなかった。秋野が哲をちらりと見て低く言う。

「……利香の母親だ」

 女は利香の名前にびくりと肩を揺らした。そうだった、前に聞いた秋野の女の名前だ。秋野の元に別の男との間にできた子供を置いて消えた女。

 そうまとめてしまうととんでもない性悪女に聞こえるものの、そんな雰囲気は微塵もない。緩いパーマのかかった長い髪、細面の白い顔。前に秋野が言っていた線の細い、ふわーっとしたという言葉が甦った。

 表現からは弱々しくて天然ぽい印象しか受けなくて、秋野には似合わない感じがしたが、そうではないと見れば分かる。きちんと自分の足で立っているのに、どこか怖いくらい脆い部分がある女。脆い部分は柔らかく、砕け散るのではなく破れてしまいそう。言い得て妙、とはこのことだ。

「俺、帰るわ」

「──悪いな」

「ああ」

 秋野は哲を見ずに頷いた。視線の先は当然女に向いている。女はどこか焦点を見失ったような、心許ない目で秋野を見ていた。哲はそのまま二人を追い越して通りに出た。暫く進んで振り返ると、二人はまだ、その場で対峙したままだった。




 こんな感覚だとは思ってもみなかった。秋野は目の前の女を食い入るように見つめながら、自分の胸の内を検分した。

 車のドアに触った時にばしりと静電気が起こったような、何ともいえない痛みと痺れ。初めての出会いならば、それを一目惚れとか運命の出会いとか表現するのかも知れない。だが、秋野と多香子には当てはまらない——どうやっても。そのことが辛かった。

「たかこ」

 四年ぶりに本人に投げかけた名前は、ひどくぎこちなく響いた。口が上手く回らない気がして思わず舌打ちする。多香子は目を瞠り秋野を凝視していたが、同時にどこか遠くを見ているような視線でもあった。

「多香子」

 今度は少しましになった。

 多香子は淡いグレーのスカートを穿いていた。冬の曇り空みたいな生地の裾が、冷たい風にふわふわと揺れている。多香子は意を決したように、秋野の眼を真っ直ぐに見つめた。

「ここじゃ、寒い」

「ああ」

 情けなくも声が震えた。多香子の声も掠れているのが小さな救いだ。

「どこかに入りましょう」

 多香子は秋野の返事を待たず、雑踏の中で踵を返した。


 多香子が入ったカフェは秋野には少女趣味にすぎた。出されたカップも紅茶のポットもやけにぽってりとしていて小ぶりなので、扱いにくい。大体紅茶が嫌いなのだが、口をつける気分ではなかったから、まあ何でも同じだった。

 昔、多香子に秋野の部屋が殺風景だと何度も指摘されたことを思い出す。多香子は花柄やレースを好む女ではなかったが、秋野からすれば十分可愛らしいものやきれいな色が好きだった。

 あのまま一緒に暮らしていたら、こういう食器や、可愛らしく飾られいい香りのする部屋に段々と慣れたのだろうか。そんな考えが頭をよぎった。

「変わらないね」

 多香子はテーブルに目を向けたまま呟いた。多香子の声は抑えられていて、音楽と話し声でざわつく店内では聞き取りにくかった。

「そうか?」

 無意識に煙草を取り出しながら灰皿を探し、壁に貼られたやたらと可愛らしいNO SMOKINGの文字を見つけた。今のご時世分煙は当然のことだし、全面禁煙だっておかしくない。確認もせずに吸おうとしている自分がどれだけ動揺しているか突きつけられる。

 だが、それ以前に煙草について何も言われなかったことが少し応えた。秋野がヘビースモーカーだということも忘れてしまったのか、それともそこまで頭が回らないのか。後者だと思いたかったが、自分勝手な考えだともわかっていた。煙草をコートに押し込みながら、所在なく腕を組む。

「利香は耀司くんの妹になったんですってね」

 秋野は頷いたが、顔を俯けてしまった多香子にその動きは見えなかっただろう。

「うちの母が代諾人——って言うんだったかしら? 尾山さんに頼まれて、それになったって聞いたから」

 多香子は利香を置いて姿をくらまし、どこへ行ったものか耀司の父、尾山にも探せなかった。警察に届けを出すことも考えたが、多香子を犯罪者にしたくなかったし、最終的に利香は尾山が引き取ってくれるというから結局は諦めた。

 利香はまだ赤ん坊だったので、養子縁組を自ら決めることはできない。そこで多香子の母親を代理人にして手続きを進めたのだ。彼女自身は連れ合いをと死別している上に身体が弱く、孫の養い親になる資格を満たせなかった。

 娘の行方は知らない、申し訳ないと彼女は泣いて謝ったらしい。あれは嘘じゃないだろう、と尾山は後に秋野に言っていた。

 あれからもう四年が経つ。逃亡犯というわけではないのだから、多香子が今も母親と連絡を取っていないほうが考えられないことだった。

「この辺りに住んでるのか」

 沈黙が気まずくて訊ねてみたが、違うのだろうと予想していた。もしそうなら、今までにもどこかで会っていそうなものだ。多香子はやはり首を振った。

「この辺じゃないよ。電車でもう少しかかるとこ。職場もこの辺じゃないの」

「じゃあ今日は」

「用事があって──これから人と会うから……」

 多香子は一瞬言葉に詰まって唾を飲み込み、そしてゆっくり顔を上げた。カフェに入る前にそうしたように、秋野の目をじっと見つめる。

 秋野の目の色はきれいだね。

 そう言って笑ったあの日のように。

「結婚するの」



 紅茶の濃い赤の上に、白く煙のように湯気がたゆたう。渦を巻くように水面を流れるそれを、秋野はただ目で追った。

 多香子がテーブルの上に置いた手に目をやる。昔と変わらない細くて華奢な左の薬指。そこにはまだ何も嵌っていない。

 今更やり直すつもりもないくせに、多香子が結婚すると聞けば腹の中にどろりと蠢く何かがあった。利香のことなど、この瞬間念頭になかったはずだ。それでも秋野が利香の名前を口に出したのは、多香子を傷つけたかったからなのか、それとも本気で利香のことを案じたからか、それは自分でも分からなかった。

「利香に会わないのか」

 白い湯気がゆらゆら揺れる。赤い水面には天井のライトが映り込んで白っぽく光っていた。まるで、今は手が届かない遠いいつかの何かのように。カップに触れたら揺れて消える、そういうものが人生には無数にある。

「——会いたいけど、そんな勝手、いくら私でも言えないよ」

 目を上げると、多香子は目に涙を溜めて秋野を睨んでいた。

「意地悪」

 回数は少ないが、喧嘩をしたときの多香子を思い出した。言いたいことも言えないような子、と同じ店で働く女のひとりが多香子を評したことがあった。だが、それは間違いだ。多香子は、言いたいことがあれば臆さず言う。ただ、その頻度が少ないというだけで。

「わかってるくせにそういう言い方するのやめて。私が全部悪い。そんなの知ってるよ。だけどそれとは別でしょう。私だって利香を忘れようなんて思ってない」

「——すまん。言ってみただけだ。確かに意地が悪いな、俺は」

 秋野は溜息を吐いて前髪をかき上げた。今更多香子を責めても何もならない。

 恨みつらみは置いておいても訊きたいことが山ほどあった。そのはずなのに、実際本人を目の前にしてみたら、どの質問にも意味がなく思えてくるから不思議だった。

 どこにいたのか。どうして出て行ったのか──一度くらい俺のことを思い出したか。今更答えを聞いたところで、結局また思い悩むだけなのだ。

 もう済んだことだし、多香子は娘に会えないという罰を受けている。それは重過ぎる罰だと思うけれど、秋野が口を出す話でもない。

「それで……結婚する相手は、どんな?」

「ええと、会社の同僚。私今、事務やってるの。中小企業で小さい支店だから人数は少ないんだけどね。でも、皆仲が良くてすごくいい職場」

 多香子は秋野を見てつけ加えた。

「……前の主人のことも利香のことも話したけど、ちゃんと話してくれたからもうそれでいいって」

「そうか」

 秋野は腹の底で鎌首をもたげるなにものかを押さえつけ、踏みつけて黙らせた。

 いくらでも笑える。多香子が消えて覚えたことだった。どんなに辛くても、悲しくても、顔では笑っていられるようになったのは、多香子のお陰というのは皮肉だった。

 自分の中の彼女を愛した部分は、きっと壊死してしまったに違いない。

 感情が死んだなんて思わない。そういうことではないけれど、腹の底に冷たい何かが常にある。死骸なのか、それともまだ息があるのか。分からないが、冷たくしこったそれは秋野の奥底に根を張っていた。

 多香子が消えて以来、誰が相手でも容易に本心を見せられなくなったのは、多分そいつのせいだろう。そう思い、頭の隅で少しだけ意外に思った。そういえば、愛だの恋だのとは無関係ながらも一人だけ例外がいるにはいる──ついこの間から。

 秋野は分厚いティーカップを手に取った。ずっしりと重たいカップが噴き出しそうになる何かの重石になればいいと、どうしようもないことを思いながら。

「そいつは、俺よりいい男?」

 多香子が笑った。

 それは思いがけない衝撃を秋野にもたらした。そういえば、ずっとこいつの笑った顔が見たかったのだと思い出す。多香子はおかしそうに微笑みながら首を振った。

「秋野にはちょっとだけ足りないなあ。残念だけどね」

 幸せそうな多香子の笑顔に、秋野の中で何かがちぎれる音がした。

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