颯爽と
「
無理矢理裏返した低い声に呼び止められ、秋野は渋々振り返った。走って逃げてやってもいいが、意外と俊足の奴のこと、追いつかれては同じことだし寧ろ目立つ。
「どうしたのぉ、こんなとこ歩いてるなんて珍しい」
長いロングの茶髪に猫のような大きな目。中々のいい女──と言って言えないことはないが、如何せん声が低すぎる。それに、精一杯しなを作っているものの、まったく女らしく見えなかった。
「寄るな、気色悪い」
「何よお。ひっどおい」
わざとらしい裏声に、すれ違う若い男が振り返る。
「いい加減にしろ、
「耀司って呼ばないでっ」
大柄な女──ではなく耀司は、ローズがかったベージュの唇を尖らせた。
「今はまだ、マナちゃん!」
「はいはい」
面倒になって耀司の顔の前でひらひら手を振る。高いヒールの靴を履いた耀司の身長は、百八十五センチある秋野ともそう変わらない。
セミワイドのグレーのパンツに黒いタートルネックという地味な格好でも、異様に目立つ。美しいからではなく、違和感がすごいからだ。
ゲイのカップルと勘違いされたのか、向こうからやって来た少女の三人連れが、並んで歩く二人を見ながら忍び笑いを漏らした。耀司が呑気に手など振るものだから、少女たちは喜んで笑い転げている。カメラを向けられSNSに投稿でもされたら敵わないなと思いつつも、秋野もまた彼女たちを余所行きの笑顔で見送った。
「耀司、もういいだろう」
「だってえ、面白いんだもん」
「その喋り方は気色悪い」
「はいはい、了解。つまんねえの。この格好で秋野に会うことあんまりないから、せっかくだと思ってさあ」
「全然嬉しくないから、普段どおりにしてくれ」
「そんなこと言わないでぇ、いらっしゃい、あたしたちの愛の巣へ」
「あたしたちに俺は入ってないよな? 一応訊くけど」
耀司は秋野に向かってにやりと笑い、これ見よがしなグッチのバッグからキーホルダーを取り出した。鍵を振り回してじゃらじゃら言わせながらビルに入って行く耀司に続き、秋野もガラスの扉を通り抜ける。
外壁に赤茶のレンガ風タイルが張られた古いビル。一階の半分は空いていて、半分は何年も誰も来た事のないような介護用品のショールームが入っている。二階は怪しげな健康自然食品販売事務所と何だかわからない会社がいくつか、そしてその上の三階が耀司と
「ただいまー!」
「お帰り」
耀司が玄関から声をかけたら、台所から真菜の顔が覗いた。美人で、色白で線が細いせいか一見儚げに見える。黒髪をルーズに纏め上げているから細いうなじが剥き出しなのも、華奢な感じを強調していた。耀司に微笑み、秋野を認めてにっこり笑った真菜は、外見を裏切るように威勢よく右手の菜箸を振り回した。
「秋野、ご飯食べていきなよ!」
「悪いな、もう食ったから今日はいいよ」
「えー、残念。じゃあ持って帰る?」
「また今度」
受け答えしながら、真菜は台所に引っ込んだ。野菜の煮えるいい香りがする。耀司の女装は必要半分興味本位半分で、趣味ですらなかった。性の嗜好という意味では紛れもないヘテロセクシャルでもある。
単発の罰ゲームか何かならともかく、仕事で毎日こんな姿をしている恋人を笑える真菜は中々大物だといつも思う。
「それより秋野、なんであんなとこにいたんだよ」
耀司が鬘を引っ張りながら訊ねてきた。鬘の下は同じような色に染めた短髪だが、化粧をしたままなのでそういう髪型の女に見える。
「仕事の話」
「あの辺うろついてたらやばいんじゃなかった?」
「どこだって、やばいなんてことはない。顔を知られてたら面倒な相手があの辺に住んでるだけだ」
「そうなんだ」
「必要がなければ行かないだけで、別に顔を見られたからって何か問題が起こるわけじゃないよ」
「でも要らない心配はしたくないだろ? 何か用事があるなら俺が行くから言えよな」
耀司がマナと言う名前のホステスとして勤める店は、怖いもの見たさの女性客が多いゲイバーだ。実は、従業員も耀司のようなゲイではないスタッフがかなりいる。
それにしてもいくつかあった候補の中からわざわざそんな所を選ばなくてもよさそうなものだったが、本人が意外に楽しいというのだから口を出すこともなかった。
目立ちすぎではないかと思ったこともあったが、耀司曰く「マナは仕入屋の連絡係ってことになってるし、目立たなきゃ誰も俺に依頼持って来られない」という理屈だった。
依頼人が必ずしもゲイバーに行くわけではないだろうと思いはしたが、まあその辺はどうでもいい。
「で?」
「何だ?」
「詳しい話聞いてきたんだろ?」
耀司はメイク落としのシートでぐいぐい顔を擦りながら秋野を見た。口紅がよれて口角にはみ出し、子供のらくがきみたいに見えた。
「新しい依頼はどんな内容だった?」
凝った細工の小さな宝石箱。いつ頃の物なのか、哲にはまるで分からない。
外国製なのだろう、くすんだ金色の飾りに、カリグラフィー風の英字が掘り込んである。哲は手に持ったピックとテンションをそっと動かした。ほんの小さなひっかかり。傷つけないように、静かに静かに動かしてゆく。
心の中で錠前と宝石箱に話しかける。いいじゃねえか、そろそろ秘密を吐き出しちまえ。お前らは開いてなんぼだろう。もしも空っぽが寂しいって言うんなら、開いた口からまた新しい秘密を取り込んで、大事に大事にしまえばいい——。
カチリ、と微かな音がした。薄いゴムの手袋をした手で蓋を何ミリか持ち上げ、問題なく開くことだけ確認すると、蓋を閉めて小さく息を吐いた。
「お見事」
いきなり声がして、声の主の存在をすっかり忘れていたことに気付く。どこといって特徴のないその中年男は厚い掌を何度か叩くと立ち上がった。
「いやあ、さすが
「こんなのは、ちょっとピッキングが出来れば誰でも開けられるんで」
「だけど箱もかなりの値打ちもんなんですよ。その辺の奴にやらせたら多かれ少なかれ、引っ掻き傷付けられただろうからね」
哲が箱を載せた机の前から立ち上がり、あとは自分でやってくれと言うと、男は不思議そうに宝石箱と哲の顔を交互に見た。
「中を見ないんで?」
「俺が興味あるのは錠前だけですから」
哲はそう言って手袋を脱ぎ、丸めてジーンズの尻ポケットに突っ込んだ。
結局哲は祖父の跡取りのようなものになった。と言っても、祖父は本業の錠前破りでも、資格を取った鍵師でもなかった。
妻子に逃げられてからは職を転々とし、ひっそりと暮らしていたらしい。それでも噂と言うのは伝わるもので、何度か人に言えない仕事もしたようだ。
そして、噂はまたも勝手に風に乗る。あのじいさんの孫も、同じくらい腕がいいらしい、と。
哲も今ではたまにどこからともなく舞い込む依頼を受ける。骨董品の抽斗に取り付けられた錠前であったり、簡単な家庭用手提げ金庫であったりと、依頼内容は色々だ。
怪しい依頼は多くはない。だが、どんな依頼であっても哲にとって錠前は錠前、どれも変わりなかった。
元々、哲はヒトにもモノにも興味がなくて執着しない質だった。錠前は別だが、興味があるのは錠前そのものであって、来歴はどうでもよかった。
どんな錠前だろうが、目の前に餌を置かれた動物のように嬉々として平らげていくだけ。それだけだ。
しかし、いくらそちらを本業だと思っていても、いつ持ち込まれるか分からない解錠だけで食っていけるわけではない。
必要以上の金を手に入れたいとは思わなかったが、収入がなければ食っていけない。工事現場や何かの肉体労働もしたが、ここのところは適当に選んだ居酒屋の厨房が哲の職場だった。
「佐崎さん?」
その居酒屋の前に、見知らぬ男が立っていた。
まだ開店前で表の看板に明かりが点いていないので、顔立ちはよく見えない。長身にカーキ色のミリタリージャケット。着古しているように見えるが、やたらと物がいいのは哲にも分かった。ジーンズに包まれた脚は長い。哲は男を眺めつつ、足を止めた。
知り合いではなさそうだ。仕事の依頼だろうかと一瞬思ったが、バイト先の居酒屋の前で待っている客などいない。
男がこちらに歩み寄ると、角度が変わり、街灯で照らされて顔が見えた。穏やかな表情をしているのに、ひどく獰猛な印象がある。混血なのか、妙に色の薄い瞳がネコ科の猛獣を連想させるせいかもしれない。
大股で哲にあと一歩の距離まで近づいた男は、口の端を曲げて笑った。秋野が、哲の人生に颯爽と登場した瞬間だった。
「佐崎さん、あんたに頼みがあるんだ」
春夏秋冬の秋に野原の野で秋野、と名乗った男は、ビールのグラスを持ったまま言った。これから居酒屋のバイトがあると言うと、待っているから、とだけ言って姿を消した。
そのまま現れないかと思ったものの、閉店後に着替えて外に出たら一体どうして上がりの時間が分かったものか、秋野はそこに立っていた。
秋野を連れ、夜の勤め帰りの男女でいつも騒がしい定食屋に足を向ける。店は汚いが飯は安くてうまいので繁盛している。
「錠前?」
哲の問いに秋野は頷いた。
「他に何がある?」
「さあね。俺も知らない俺のいい所を発見してくれたのかと思ったけど、そうじゃねえの」
「残念ながらまだそれほどあんたのことを知らないんでな、佐崎さん」
秋野は薄茶の眼を細めて哲を見た。自分も錠前を前にするとこんな目つきをするのかも知れない、と何となく思う。
獲物を前に舌なめずりしているような目だ。もっとも今その瞳に映っているのは哲ではなく、鍵のかかった何かなのだろうが。
秋野という男は、初対面だというのに、どこにも緊張した様子がなかった。哲自身緊張しているわけではないが、それなりに警戒はする。だが、眼前の男には構えた様子がまるでない。
「開けるだけなら受けてもいい」
「中身が何かも聞かないのか」
秋野が眉を上げる。哲は頷いて秋野の皿の餃子をひとつ掻っ攫い、口に放り込んだ。
「受ければ必要なことは聞く。俺に開けられるとあんたが思うならやるけど、俺は必ず開けるとは約束しねえぞ。どうしても開こうとしないものもある」
「開けてくれないと困る」
秋野が笑ったので、哲もつられて頬を緩めた。見かけどおりに穏やかな奴ではないだろうが、開けられないと言った途端騒ぎ出すような馬鹿ではないらしい。そうでなければどんな錠前を開けるのかも確認せずに受ける気にはなれない。
「しかし、開こうとしないってのは妙な表現だな」
「そうか?」
「まるで生き物みたいに言うんだな」
面白がるような秋野の表情に、哲は暫し言葉を捜した。
「勿論勘だけで解錠するわけじゃねえし……道具も使うんだから開いて当然と言えば当然だけど」
秋野はグラスのビールを飲みながら、哲の言葉を黙って待っていた。
「鍵のかかった箱ってのは、誰にも口を聞くもんか、っていじけてるガキみたいなもんかな。こっちは菓子やら玩具やらで何とか気を引こうとする。口を開かざるを得ないように持って行く。だけど、チョコレートが好きなガキもいりゃあ嫌いなガキもいるだろ? 何が上手くいくかはやってみないと分かんねえ。で、チョコレートかクッキーか知らねえけど、そいつが少しでもくらっと来たら——」
「そしたら?」
黙り込んだ哲に秋野が聞いた。
「手を突っ込んで無理矢理口をこじ開けんだよ」
哲がにやりと笑うと、秋野は声を上げて笑い、グラスの残りを干して立ち上がった。
「哲」
不意に呼ばれた名前に、一瞬何かが止まった気がした。
時間ではない。呼吸でもない。何なのかは分からない。ゆっくりと顔を上げて秋野を見てみたら、今しがた秋野自身が飲み干した酒のような、黄色く透ける色の瞳がじっと哲を見つめていた。
「また連絡する」
哲が黙って頷くと、秋野はテーブルに多すぎる札を置いて出て行った。
哲、と呼ばれたことに意外なほど動揺していた。秋野の穏やかさを装った面の皮の一枚隔てたところにあるもの。それが、その二文字を発した間だけ僅かに透けて見えた気がした。
「じゃあ、そのササキって鍵屋に決めた?」
耳の中に耀司の声が明るく響く。いついかなる時も基本的には明るい男だ。
「ああ、問題ないだろう。噂を信じるなら腕はいいようだし」
「評判倒れだったらどうすんの?」
「その時考える」
「秋野らしくないね」
「そうか?」
「そうだろ。信用できるかまだ分かんない奴に大事なとこ任せるなんてさ。もしかしてすっごい伝説的エピソードでもあんの? 難攻不落の銀行の金庫を開けたとかさ」
電話の向こう、耀司の背後で真菜が立てるらしき物音がして、秋野はつい微笑んだ。耀司は弟のようなものだ。耀司を選んでくれた真菜にいつも心の中で感謝する。
「銀行の金庫は無理だろう、さすがに」
「冗談だって」
「分かってる。そうじゃないが、気に入ったからな」
「秋野に気に入られるなんて、不幸な鍵屋だな。どんな感じの奴?」
「錠前は生きてるんだそうだ」
「はあ? 何それ」
「別に特別いい男でもなければ不細工でもない。愛想もない。無理矢理無表情を貼り付けてるように見えた」
「お前のわざとらしい笑顔と似たりよったりだな」
「うるさいよ。近いうちそっちに連れてく」
秋野は電話を切って携帯をポケットに突っ込み、歩きながら錠前屋の顔を思い浮かべた。
外見はどうということはない今時の若いやつだったが、目が気に入ったのだ。錠前だけでなく、人の中身までこじ開けようとするかのような、鋭い眼差し。
はっきり見えたわけではないが、常識的な態度の下に、抑制された凶暴さみたいなものを確かに感じた。
錠前のことを話すときの熱っぽい目。あの底にあるのは、何もかも白日の下に引き摺り出したいという望みだろうか。引き摺り出すそのことがすべてで、中身には興味がないというような突き放した風情との落差に心惹かれるのは何故だろう。
いいじゃないか、と秋野は胸の中で独りごちた。こちらの注文どおりに動き、尚且つ金庫さえ開けてくれれば本人はどうでもいいと思っていたが、こういうのも悪くはない。
鍵屋の鍵を逆にこじ開けてやるのもまた一興、と言うものだろう。
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