取捨選択の自由

「ああ、そりゃ多分仕入屋だ」

 川端は椅子にふんぞり返ったままあっさりとそう言った。

「顔は知らんが、アキノって言う名前は知ってる」

「しいれや? 卸問屋みてえな感じ?」

「卸問屋じゃあ格好がつかんねえ……まあでも、そうなんじゃないか。お前さん顔見たのか?」

「何で。そんな珍しいのか」

「そういうんじゃないが、俺は今まで接点がなかったからなあ」 

「この間来た客がそんな話してたから」

 別に顔を見たと言ったところで何の問題もないのだが、哲は知らぬ振りをした。好奇心丸出しの川端にわざわざ詮索されるようなことを言うこともない。詮索というと語弊があるか。川端は、哲のことを必要以上に──と、哲自身は思う──心配するのだ。

「名前どおり、頼めば何でも仕入れてくれるって話だぞ。人間は扱ってないらしいがね」

 冗談なのか、川端は太鼓腹を揺すって豪快に笑った。川端は祖父の知人の息子で、特に飲み屋や風俗店の多いこの界隈に不動産事務所を開いている。

 薄くなった頭に二重顎。清潔感はあるが、くたびれている外見なのは否めない。見た目は若い女の子が嫌がる「オヤジ」そのものだ。

 川端の会社の取り扱い物件はほぼ企業向けらしいが、哲は今まで個人だろうが法人だろうが、ここで客を見かけたことがなかった。不動産業の裏でどんな商売をしているのか怪しいと思いつつも、興味がないので聞いたことはない。

 哲の粗末なアパートは川端の会社が仲介していている数少ない個人向け賃貸だ。家賃は振込や引き落としではなく、手渡しの現金払い。銀行口座がないわけではなくて、それが祖父と川端の決めた支払い方法だったからだ。

 祖父が生前から川端に部屋の手配や何かを頼んでいたというのは、祖父が亡くなってから知った。自分が死んだ後も誰かが孫の素行に目を光らせなければならないと思ったのかどうか、そこは哲の与り知らぬところだ。

「何だ、何か仕入屋に手に入れてほしいものでもあるのか」

「別にねえよ」

 哲はこじ開けたいだけで、欲しがっているのは仕入屋だ。

「じゃあ」

 薄っぺらな茶封筒を川端のスチールデスクに載せて腰を上げる。川端はワイシャツの胸ポケットからくしゃくしゃに潰れた煙草のパッケージを取り出しながら哲を見上げた。

「哲、お前さんは佐崎のじいさんからの預かりものだからな」

 振り返った哲を真剣な目で見て煙草に火を点ける。

「仕入屋に何か頼むのは構わんが、警察の世話になるなよ」

 頷き川端に背を向けて、哲は事務所の安っぽいドアを静かに閉めた。



 秋野からの電話は、住所と建物の名前、外観の特徴を簡単に伝えただけで切れた。人通りの多く明るい雰囲気の飲み屋街から少し離れ、やや寂れた雰囲気の漂う辺りだ。住所を頼りに少し歩き回ると、秋野の言っていた赤茶色の壁をしたビルがあった。

 古ぼけた企業向けの雑居ビルで、大谷ビルヂングという目立たないロゴの「ル」の部分が落ちかけている。

 階段で三階まで上がったら無愛想なドアがあった。いくら見回しても呼び鈴ひとつない。ノックするかと拳を振り上げた途端ドアが外側に開き、小指に思いっきりドアが当たった。

「——っ‼」

 声が出せない哲を見下ろしてにやにやしているのは紛れもなく仕入屋だった。

「そんなに思いっきりノックしなくてもいいんだぞ」

「……秋野、あんたなあ!」

 搾り出した言葉に、秋野が何故か軽く眉を上げた。一瞬の間に、何かまずいことを言っただろうかと思ったが、そもそも名前以外呼んでいないし、さすがに間違えてもいない。怪訝に思って秋野の顔を見返したが、秋野はもう何事もなかったような表情になっていた。

「どうぞ、って俺の家じゃないけどな」

 秋野に続いて入ると、室内は住居に改造されていた。天井や床は事務所仕様のままだが、色々と手を加えてある。女が住んでるな、とすぐに分かった。少女趣味の物はひとつもないが、男の一人住まいとは思えない柔らかい雰囲気がある。

 リビングに入ると、部屋の中央に置かれたソファに茶髪の若い男が座っていた。歳は哲と同じくらい、多分二十代半ばくらいだろう。男は立ち上がり、「尾山おやま耀司です」と言ってぺこりと頭を下げた。

 哲もつられて頭を下げる。

「佐崎哲です」

 部屋の真ん中に突っ立って頭を下げ合う二人を眺めた秋野が、新人営業マン同士みたいだな、と言って笑った。




 やっとあれを取り戻せる。

 そう思うと、苦い笑みが零れた。今思えば、若気の至り。それでも彼女はあの男を愛していると思っていたし、だからこそ溢れる想いをしたためた。その事自体に問題はなかった。若い頃の恋物語くらい、誰でも一つや二つ持っているものだし、拙い恋文は罪でも何でもない。

 ただ、彼は既婚者だった。しかも——彼女と直接の関係はなかったが——その後自ら命を絶った。

 私のせいではない。いくら主張してみたところで、誰もが信じてくれるとは限らない。今の彼女の立場では、そのことは間違いなく傷になる。そして、彼女自身だけではなく、家族にも血を流させるかもしれなかった。

 彼の息子は彼女に金をせびった。手紙を返して欲しければ、金を払えと。彼女にとっては傾いた会社の二代目社長が欲しがる額など高が知れていたから、支払った。それで終わりになるなら安いものだ。相手は犯罪者でも何でもないのだから、それで解決できるだろうと安易に考えた。だが、彼の息子は約束を果たさなかった。

 約束を違えてはいない、と息子は言う。確かに手紙は返却されたが、手元に戻ったのはたった一通。

 一体あと何通あるのだろう?

 焼いてくれればよかったのに。

 今はいないかつての恋人を恨みがましく思い出し、彼女は両手を握り締めた。

 私を苦しめようとしていらしたの? だから私に黙って手紙を残して逝ったの? なんて、自分勝手な酷い人——―。




「ダイヤル式の防盗金庫──」

 哲が呟くと、秋野が頷いた。

「型式はかなり古いらしいが、その当時の最先端、だとさ」

 耀司が淹れたコーヒーの香りと煙草の煙が混じり合っている。嫌煙が当然の昨今、三人集まって全員喫煙者というのも珍しい。ファンが回っているせいか煙は籠らず、秋野の吐き出す煙はいつのまにかどこかに流れて消えていく。

「時間はどれくらい取れんの」

「あそこの警備システムは一般的なものだし、解除は簡単だろう。そうすれば三時間か、少なくても二時間。念のため先に一回鳴らしに入ろうかと思ってる」

「故障に見せかける? 案外陳腐な手だな」

「まあね。でも案外有効なもんだよ。映画や小説なら誰もが見抜くけど、実生活で自分にそんなことが起きるわけはないと思ってるから、疑いもしない。誰だってそうじゃない?」

 哲の台詞に、コーヒーカップを持ち上げた耀司がにやりと笑った。

「悪いことが起きるのは、自分以外の誰か。ここではないどこか。って、俺自身だって、そう思うしね」

「つーか、俺が引き受ける必要あんのか? そんなに時間があるならバールでも何でも使った方が早いだろ。今のモデルだって耐工具十五分だから、昔のならもう少し短いだろうし。床に固定されてたら無理だけど、持ち出せばもっとじっくりやれるんじゃねえの」

 哲が言い終わると、秋野がゆっくりと首を振った。手足が長く、頭が小さい。動きは無駄がなくて、大したこともしていないのにやたらと目立つ男だった。

「盗んだ痕跡を残したくないんだそうだ」

「客が?」

 秋野は色の薄い目を哲に向けた。

「そうだ。金庫の中身を、元からそこにはなかったようにして欲しいっていうのが依頼内容だからな。それに俺は客に頼まれたものを客に渡すのが仕事だから、余分なものは手に入れない」

 銜え煙草が秋野が喋るたびに上下に揺れ、哲は柵に止まったトンボのような気分でそれを眺めた。きっといつか目が回って、ぽろりと柵から落ちるのだ。

 引き受けてもいいと言ったことをほんの少し後悔しているのを、この男は嗅ぎつけている。何となく、そう思った。

 今までとはきっと何かが変わってしまう。何だと言われると説明はできないが、確かに何かを失う気がする。今すぐ走って逃げ出せと、どこか遠くで声がする。

「どうする? 哲」

 秋野の低くやわらかな声が耳朶を打った。ひどく耳に心地よい声が、頭蓋の中で反響した。よく知りもしない男だが、声は好きだ。

「……」

 今回は大した仕事ではないかもしれない。だが、いつもそうとは限らないのだろう。何だか知らないがこの男には腕を買われているようだし、やると言えば、秋野と耀司は哲を仲間と見做すだろう。

 今までの生活を捨てることになりかねない。だが、捨てて惜しい生活なのか。自問しなくても、答えはよく分かっていた。

 耀司は居住まいを正してソファに腰掛けている。秋野は逆に姿勢を崩して、長い脚をだらしなく投げ出した。肉の薄い顔は、ライトの加減か、頬骨の形がはっきり見える。

 煙草を銜えた唇の端がゆっくりと曲がる。残酷そうな笑みが現れるのを、まるで催眠術にかかった馬鹿な観客みたいな気持ちで見守った。

 金色にも、黄色にも鳶色にも見える瞳に天井のライトが反射する。

 取捨選択はお前の自由だ、と獣のような薄茶の瞳が哲に言う。

「──わかった」

 哲はゆっくり両手を挙げた。

 降参だ。とりあえず、今日のところは。

「いつどこに行けばいいのか、教えてくれ」



 八重樫広告の名は、哲も聞いたことがある。大手からは数歩離されているものの、まあまあの規模の広告代理店だ。現在の代表取締役は創業者八重樫優一の長男、八重樫昇。

 ただ現在は資金繰りに奔走中というのが専らの噂だそうだ。一向に上向かない景気の中、経費削減で真っ先に削られるもののひとつが広告宣伝費だ。そういう意味では、言い方は悪いが水商売のうちに入るかもしれない。

 実体のない広告はなければないで済まされる。抱える在庫がない分身軽と言えるが、安売りして金の足しに出来るものでもない。

 しかし八重樫広告の名が哲のように業界に興味のない人間にまで知られているのには訳がある。

 会社を有名にしたのは、その業務内容ではなく、創立者八重樫優一のスキャンダルに拠る所が大きかった。

 八重樫優一の父親は元々農家の大地主で、実家はかなり裕福だった。三人兄弟の末っ子に生まれた優一は、兄弟の仲で一番陽気で男前。裏口から入ったという有名大学を出て──真偽のほどは不明だ──、意気揚々と大手商社に入社した。しかし結局甘やかされたおぼっちゃんに仕事は続かず、その後転職した会社もすぐに退職、起業した。

 カリスマ性はあったらしい。八重樫の人柄に惹かれて集まったスタッフと実家の財力で八重樫広告は軒並み業績を伸ばし、優一は時の人となった。田舎の出ながらも由緒正しい家系の娘と見合い結婚し、一男一女も授かった。だが、ひどく女癖と酒癖が悪かったのがその後の人生を狂わせた。

 CMやイベントで起用したタレントや女優、果てはスタッフから高級ホステスまで、優一のお相手女性は真偽取り混ぜて週刊誌の見出しを次々に飾り、両手にクラブホステスを抱え、だらしなく笑み崩れた写真が掲載された。

 一般人の放蕩など本来何のニュース価値もない。それなのに優一が騒がれたのは映画俳優顔負けの容姿だったから、そして付き合った女優の一人がその後ドラマのヒットに乗っかり売れに売れたからだ。

 女優の活躍は優一とは関係がなかったが、彼女の男性遍歴が話題になって、優一もほとんど芸能人のように扱われた。

 若い頃はそれも笑い話、客を呼び込む話題のひとつになったが、優一が還暦を過ぎたあたりから業績は下降し始めた。

 実家は金を出し渋り、友人は離れ、銀行は首を縦に振らなくなる。そして、優一が起死回生の策としてぶち上げた企画は見事に潰れ、その夜、彼は酒の勢いで自宅の庭で首を吊った。今から五年ほど前の話だ。

 この八重樫広告の古い自社ビルに目当ての金庫はある。業種の特徴で社員の帰宅は他に比べて遅いものの、来週の金曜日は創立記念日の宴会があって、社員は強制参加で社屋は空になるらしい。

「今時強制参加の宴会って……」

 耀司は首を振り振り溜息を吐き、秋野は呆れたように言った。

「資金繰りに泣きながらホテルで宴会とは恐れ入る」

「え? そこなのか? お前の気になるとこ!」

「俺はお前の気になるところが分からんよ」

「だって──いや、いいけど」

「先代は少なくとも会社を立ち上げる才覚はあったが、二代目は父親以上に駄目らしい。母親が余程甘やかしたと見えて、どうにもならん馬鹿だって噂だ」

 強制宴会についてはとりあえず忘れることにしたらしい耀司は、秋野の台詞に頷いた。

「かなりマザコンで面倒くさいって噂も嘘じゃないかもね。自己顕示欲で出来てる金食い虫とか、ネットニュースにもひどいこと書かれてたよ。社員にも嫌われてて、最近は流出する人材が多いって話」

 八重樫広告前にあるファーストフード店のまずいアイスコーヒーを飲みながら、哲は耀司の話を聞き流していた。哲にとっては二代目八重樫社長の性格も駄目さ加減も別にどうでもいいことだ。データは必要だが、それに人格は含まれない。

 それより何より煙草が吸いたくて堪らない。さっさと店を出てどこかに駆け込みたいが、仕事だからと諦め内心で溜息を吐いた。

 今日は八重樫広告自社ビルを哲に見せるのに集まったが、男三人でファーストフードもないだろうと言うことで、耀司の彼女が同席していた。

 斉藤真菜と名乗った人物は、耀司と同じ年頃のきれいな女だった。あと十センチ背が高ければモデルと言っても通りそうなすらりとした手足に、小さな頭が乗っている。

 どこからどう見ても、真っ当でない世界とは縁がなさそうだ。そのくせ秋野と耀司の話をにこにこして聞いているのだから、見かけどおりではないのかもしれないが。

「じゃあ、来週の金曜日ね」

 また飲もうよ、とでも言うように軽く言って、耀司と、続いて真菜が立ち上がった。

「俺達これからデートだから」

 日曜の午後三時だ。無理もない。来週には余所様のビルに侵入しようという男に常識的な日常生活を当てはめていいものかどうかわからないが、耀司は、傍目には普通の若者だ。

「なんかあったら電話してね」

 耀司は哲と秋野に手を振ると、真菜と手を繋いで店を出て行った。

「変な奴」

 ガラス越しに見える、遠ざかっていく二人の姿はごく常識的なカップルの姿で、それ以上でも以下でもない。思わず漏らした哲の呟きに、秋野は小さく笑った。

「まあな」

「あいつ、普通の仕事してんの」

 詮索する気はなかったが、何となく間が持たずに口に出した。本当に知りたいわけではなかったから誤魔化されても構わなかったが、秋野はあっさり頷いた。

「ゲイバーでホステスしてる。ティアラって安直な名前の店で」

 ほんの少ししか知らないが、そんな職業だとは思わなかった。眉を寄せた哲に向かって秋野は続けた。

「おまけに源氏名がマナって言うんだから悪趣味な奴だよ」

「……男が好きなようにも、女装趣味があるようにも見えねえけど」

「ああ、そういう趣味はない。だけど女装するのは案外嫌じゃないらしい。まあ勤めも遊びみたいなもんだ」

 とんでもない変人達と関わってしまったような気がしてきた。会話が続かないからもうひとつ訊ねてみる。

「あのビルは何なんだ? あそこ、住居向けじゃねえだろ」

「ああ、あいつの親父さんのビルなんだ。大谷って名義ではあるがね。親父さんには俺も世話になってて」

 特に秘密でもないのか、秋野は隠す風もなく続けた。

「俺の母親が外国人ダンサー……って言えば聞こえはいいが、ストリッパーみたいなもんだ。で、当時付き合ってた客の男との間に俺が出来たんだとさ」

 真っ昼間のファーストフード店で話す内容ではない気がしたが、秋野は何でもない顔で続けた。

「だけど子供が出来た途端に男が逃げて、自分ひとりじゃ育てられないっていうんで、母親は店のオーナーだったあいつの親父さんに泣きついた。そんなわけで子供の頃から知ってるから、耀司は弟みたいなもんだよ」

 だから秋野の目はこんな色なのか、と腑に落ちた。母親という人がどこの国の女かは知らないが、アジア人でないのは間違いなさそうだ。

 呆気なくその瞳の秘密が暴かれても、射すくめるような光と、それがもたらす獏とした恐怖感は消えなかった。

「秋野は?」

「……俺?」

 哲が呟いたら、また秋野がちょっと妙な表情で哲を見た。この間もそうだったが、何が悪いのかよく分からない。まあどうでもいいと思いながら、テーブルの上のプラスチックカップに指を伸ばした。

 カップの表面についた水滴を指先でなぞる。別に、何の意味もない。どうしてか、秋野の目を見ていたら吸い込まれそうに錯覚しただけだ。だから、他の何かに注意を向けていたかった。

「──あんたは、仕事あんのか」

「俺は仕入屋だ」

 秋野は僅かに目を細めた。黒い前髪が目の上にかかる。前髪の隙間から覗く虎の目みたいな秋野の目が、真正面から哲を見つめた。

「それ以外の何者でもない」

 秋野は腰を上げ、哲を見下ろして微笑んだ。

 優しげな笑顔なのに、どこか恐ろしいと思うのはなぜなのか。うなじの毛がわっと逆立ち、そんなはずはないのに、今にも襲い掛かられ引き裂かれそうだと一瞬思う。

「それとな、哲」

 僅かに傾けた顔。瞳の上を前髪が流れていく。

秋野の顔を見ていたら、無性に一服したくなってきた。  

「アキノは苗字じゃない」

「……は?」

「──俺の、名前なんだよ」


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