フェイタルエラー

 結局どういう手を使ってか、秋野と耀司は二度ほど八重樫広告の警報を鳴らしてみたらしい。

 一度目はそれなりに緊張した様子だった警備会社の二人組の社員も、二度目は一人が車で待機、ビルに入ったのは一人きりだったそうだ。

 気が抜けた点検の後施錠しなおして帰っていくまで、ついぞ緊張感は見られなかった、と秋野は電話口で喉を鳴らした。これで万が一警報が鳴っても、余裕をもって逃げ出せるだろう。

 哲は相変わらず昼間は寝るか家事をするか、新聞を読んでぼんやりするかで、夜は居酒屋のバイトという普段どおりの生活だった。

 厨房で帆立貝に乗せて焼くための味噌と卵を混ぜながら、金曜のことや秋野のこと、耀司と真菜のこと、祖父のことを考えるともなしに考えはした。だが、それも何かを思い悩むというには程遠く、浮かんだり消えたり、他のバイトと喋ったり煙草を吸ったりする合間に頭の端を流れていく程度のものに過ぎなかった。

 金曜日は店を休むことにした。忙しい金曜の夜なので気が引けたが、そんなふうに思う自分がおかしくもある。気のいい親父は、腹が痛いという安易な理由を疑うことなく快諾した。

「佐崎はいっつも真面目に来てくれてさあ、助かってんだよ、店もさ。だから一日くらいゆっくり便所にこもってな」

 そう言われて、そういえば一年勤めて休むのは初めてだったと思い至る。真面目にやっているから休まないのではなく、何もすることがないから休みを取ることを考えないだけだったのだが、どうやら気に入られていたようだ。最近誰かに気に入られることが多いな、と思い、哲は一人顔を顰めた。



 侵入はあまりにも容易に済んだ。確かに外国映画に出てくるような監視カメラ、警備員つきのご大層な代物に比べると至極単純なシステムのようだが、興味がない哲には仕組みはまったく分からない。だが、耀司は鼻歌交じり、と言う言葉がぴったりの様子で楽々実行してみせた。

 後で聞いたら、専門家が急病で──それこそ本当に腹を下したそうだ──来られなくなって、電話でやり方を聞いたというのが真相だった。耀司自身は自分が何をやっているかまったく分からないままだったいたと言うのだから笑える話だ。

 そうやってお邪魔した八重樫ビルの総務部は、三階建ての二階部分にあった。一階は営業部と製作部、二階は総務・人事部と業務部、三階は会議室に倉庫。秋野と耀司は勝手知ったる様子で二階へと進む。耀司が印刷会社の納品やデザイナー、外部プロダクションの人間に紛れて、何度かこっそり出入りしていたらしい。

 呆れた無謀さだが、八重樫広告は外部の人間の出入りが多く、大会社のように入室チェックやIDカードなどは導入されていなかった。

 社員証は一応あるが、カードは単なるプラスチックカードで、ドアの開閉には一切関係がないものだという。今時いい加減な話だと思ったが、新しいシステムを導入するのも億劫なのか、単に金がないのだろう。

 二階に上がってドアを開け、目指す金庫へと向かう。社屋は真っ暗で細部は見えなかったが、金庫の鈍重なシルエットはすぐに見分けられた。窓から差し込む外の明かりで、手元が見えないほど暗いということはない。

 秋野と耀司は無言で哲を通した。哲はジーンズから薄手のゴム手袋を出し、指先に皺が寄らない様、丁寧に嵌めた。

 事前に秋野に渡された八重樫優一のデータを頭に思い浮かべて考える。優一自身、妻、子供、両親の誕生日。記念日。車のナンバー。目標売り上げ。体重に身長、生年月日。

 人間の考えることにはそれ程差異がない。余程の天才か何かでない限り、自分が覚えられる番号、そして絶対に忘れない番号はある程度のパターンしかない。当然、暗証番号にはその中の何かが使われていることが多い。

 この金庫は古いから、ダイヤル番号の設定は恐らく優一だろう。色々な話を聞く限り、息子がわざわざそれを変えたとは思えなかった。哲はそれぞれ一つずつ横向きになったレバーのついた両開き扉の、右扉の方に取り付けられたダイヤルに手を伸ばした。

 耀司が銀色の小さなマグライトを差し出そうとしたが、手を振って断る。暗さに慣れてきた目には、ダイヤルの大きな数字ははっきり見えた。外に灯りが漏れる可能性は少ないほうがいいに決まっている。

「聴診器は使わないんだ」

 耀司の独り言のような呟きに、ふと笑みが漏れた。秋野は腕を組んで黙って立っている。

「じいさんは使わなかった」

 哲の頭の中に、数字の羅列が次々と吐き出されてくる。スーパーのレジから打ち出されるレシートのように。親父の葬式で坊主が唱え続けていた経文のように。哲は頭の中で数字を手繰り寄せながらダイヤルに手を触れんばかりに近づける。

 秋野と耀司の眼には、哲の指先のほんの微かな動きが見えた。

 誰もいない暗い部屋に降り積もる埃のように、哲の指が音も立てず静かにダイヤルに触れた。



 ダイヤルに触れてからどのくらい経っただろうか。哲は、指先以外は石になったかのように動かなかった。明かりがなくとも、秋野の目には哲のこめかみと上唇の上に浮かんだ細かい汗の粒が見える。

 熱そうにしているわけでもなく、垂れるほどでもない。冷や汗なのかもしれないと何となく思う。極端に瞬きが少なくなった目は、はっきりと焦点を結んでいないように見えた。時折突然眼球が動き、さっと上を見上げる。まるで自分の頭の中に何かの答えがあるように。

 そして、沈黙の後に、指先がダイヤルをじりじりと動かす。その後三度、四度と回すときもあれば、元に戻すときもあった。

 耀司はリノリウムの床に胡坐を掻き、興味深げに哲を眺めている。秋野は金庫から何歩か離れた場所から哲を見ていた。

 先ほどから何度も同じ動きを繰り返す哲の右手は、今は迷ったように止まっている。左手は己を支えるように金庫の左の扉のレバーを握っている。高さ百五十センチほどの無骨な鉄の塊は沈黙したままだ。

 突然哲が右手を動かした。左回りに三回回し、ぴたりと止める。

 秋野の耳に、ごく小さな音が聞こえた。一瞬遅れて、哲がひゅっと息を吸い込む音。その音に我に返った秋野が身じろぎしたのと同時に、まるでスイッチが入った人形のように、哲は突然手足を生き返らせた。

 ポケットからピックとテンションを取り出すと、ダイヤルの横の鍵穴に両手を使ってそれらを差し込み、何度かなめらかに指先を動かしたかと思うと、引き抜いて歯に銜えた。

 両扉につけられたレバーを握り、外側に向けて一直線に並ぶそれを、まるで拍子木を打ちつけるような形に垂直に叩き降ろす。静けさに慣れた耳には妙に大きく響く、金属的な音がした。

 鉄格子の音。

 瞬間的にそう思った。幸い、本物の音は知らない。だが、今の音は、映画で見る刑務所の鉄格子の音と気味悪いくらいに似通っていた。

 哲の手袋を嵌めた両手がレバーを手前に引くと、軋むような油切れの音をさせ、ゆっくりと金庫の扉が開いた。ぽっかりと口を開けた内部は影になっていて何も見えず、開かれた扉は真っ暗な洞窟の入り口のようにも見えた。

 耀司が何か呟きながら慌てて立ち上がり、哲がゆっくりと秋野を振り返った。鋭い目だけをぎらつかせ、表情はないまま。低くしゃがれた声で、哲は言った。

「お前のものだ、仕入屋」

 フェイタルエラー。

 一瞬真っ白になった秋野の脳裏に、表示が明滅する。足は勝手に金庫に向かって進んでいるのに、床の感触も、耀司の声も、何一つ意識できなかった。取り返しがつかないミスを犯したのかもしれない。こじ開けられたのは相手ではなく自分を閉ざす錠前かもしれない。そんな非現実的なことを考えながら、一歩踏み出す。

 錠前屋は、どこまでも錠前屋なのだ。秋野は急に眩暈を覚え、手を伸ばして金庫の扉を握り締めた。

 鉄格子は開いたのか、それとも閉じたのか?



 秋野が金庫から何を取り出したのか、哲はろくに見てもいなかった。耀司が持参したごく普通のキャンバス地の四角いバッグに何かが仕舞われる。シャツの袖で額を拭うと、汗で袖が湿っぽくなった気がした。自分の緊張に気付くのは、いつだって解錠した後だ。

 それにしたってこんな風になるのは珍しいが、持ち込まれた手提げ金庫を解錠するのとは訳が違うのだから仕方ない。

「哲」

 秋野に呼ばれたので、金庫の前に戻った。扉は閉められ、レバーが耀司の手で直される。哲は耀司に促されて金庫の鍵を掛け直した。

 この金庫はダイヤル錠がメインなので、鍵はほんのおまけのような物だった。新しい型ならともかく、製造から二十年は経っていそうなこの金庫のそれは、一般住宅のドアについているものより粗末な代物と言っていい。

 かちりと音がし、鍵がかかったことを確かめる。

「閉めていいか? 番号は覚えてるけど」

「ああ、大丈夫だ」

 秋野が答え、耀司も頷いた。

 今度は無造作にダイヤルを右に回転させた。がらんがらんと、まるでバケツが転がるような音を立ててダイヤルが回る。

 何度も回した後、哲が触れる前に固定されていた番号に戻しておく。念のため押し下げてみたがレバーはまったく動かなくなっていて、金庫は完全に施錠されていた。


「俺も耀司も、絶対聴診器が出てくるって期待してたんだけどな」

「俺もガキだったし、じいさんが使わないって言ったときは正直ちょっとがっかりしたけど、さすがにねえわ」

 耀司の運転する車で秋野の部屋に連れて行かれたが、耀司は車を友達に返すと言って出て行った。哲も部屋に戻ろうかと思ったが、秋野がソファで寝てから帰ればいいというのでそれもそうかと従った。

 秋野は冷蔵庫から缶ビールを取り出し放って寄越した。時間は既に午前三時をまわっていたが、妙に疲れているせいかそれほど眠くはなかった。

「使う奴もいるのかもしんねえけど」

 空きっ腹にアルコールが入って軽く酔いが回った気がするが、気のせいかもしれなかった。酒には無駄に強いのだ。

「番号を予測することから始めて、少しでも候補を絞るっつーか」

 秋野が得心がいったように頷く。

「それであの誕生日やら何やらのデータが欲しかったのか」

「通販サイトとかのパスワードも、銀行の暗証番号も同じだろ。まあ、今時自分の誕生日に設定してる奴なんかそういねえだろうから、そんな簡単にわかるもんじゃねえけど」

「確かにな。昔なら大体誕生日かペットの名前か、電話番号か」

「今はさすがにな。だからまあ、ああいうの見てもすぐ分かるってことはねえけど、数字の組み合わせとかに何となく目が行くっつーか……俺もじいさんも人よりそっち方面の勘が発達してんじゃねえかって思うけど」

 秋野が煙草に火を点けた。間接照明だけのほの暗い部屋の中で、秋野の瞳が炎の色に浮かび上がる。

「数学的才能があるのかもな。だけど、それだけで開けられるもんでもないだろう」

「そりゃ手を使うから」

「その辺の空き巣だってピッキングくらいする。だろ?」

「……」

 哲は別に寡黙ではないが、それほど喋るほうでもない。聞き上手なわけではなく、喋ることが面倒くさいだけだ。だが、何故か秋野の低い声で促されると、答えなければいけないような気になった。

 そんなふうに思わされたことは気に障らないでもなかったが、親しいわけでもないから飲み込んだ。どうせ他人だ。これから頻繁に会うわけでもないのだから、関係ない。

「──あとは、あれだ、金庫のクセを読み取れるかどうか」

「癖?」

「車だって、乗ってる奴の癖がハンドルにつくじゃねえか。金庫のダイヤルだって部品の集まりだからな。いつも回す方向には滑らかに回るし、長年同じ方向に回してると金属も歪む。触れば何となく分かるから、そういうのをどうやってか繋ぎ合わせると、正しい目盛りに辿り着ける」

「触ったところで俺にはわかりそうもないな」

 秋野の吐いた煙が漂うのを目で追う。

「だから俺は錠前屋なんだよ。お前が仕入屋だってのと同じように」

 ビールの缶を握る秋野の指が僅かに動いた。哲は秋野の顔に視線を戻し、言った。

「違うか?」


 哲がソファで目を醒ますと、秋野は既に出かけた後だった。何処に行ったのか知らないが、別に興味もないし、どうでもよかった。

 居間の横の台所のシンクで簡単に顔を洗って用を足しに行ったら、トイレの横のドアが洗面所と風呂場だったのに気が付いた。典型的な独身者用の1LDK。それほど新しい物件ではないが、リビングにソファが置けるくらい広いのは珍しい。洗面所があるのも恵まれている方だろう。しかし、思っていた以上に素っ気なく安っぽい部屋だった。

 秋野自身はどこからどう見ても安っぽいとは言い難い。あんな仕事をしているくらいだからまともではないのだろうが、崩れた雰囲気もないし、着ているものもこれ見よがしではないのに上等だった。

 そんな奴の部屋だからインテリア雑誌に載っているような内部を想像していたのに、連れて来られた部屋には高級な家具も飾りもまったくなかった。そもそもマンションというよりアパートと呼ぶのが相応しい低層階の建物で、オートロックもなければエレベーターもないのだ。

 まったくおかしな奴だと思いながら勝手に冷蔵庫を開けてみたが、ここにも大したものは入っていなかった。

 中身が半分だけ残った牛乳パック、缶ビール、卵二個に玉ねぎの袋、そしてレンジで温めるシュウマイ。そういやあいつ定食屋で餃子食ってたな、と思いながら牛乳を取り出し、勝手にパックのまま飲んだ。

 煙草に火を点けると、今日の予定をぼんやりと考えた。今日は土曜だから店に行かなければならないが、他に仕事の依頼は来ていないので夕方までは眠れる。そうと決めたらさっさと部屋に戻りたくなった。哲は紙パックを捨てて煙草を揉み消すと、立ち上がって伸びをした。

 それでも昨日は楽しかった、と哲は微笑んだ。手ごわい錠前ほど開けがいがある。

 それにしても、と哲はふと踏み出しかけた足を止めて首を捻った。金庫の他にも何かを開けちまった気がすんのは、何でだったかな、と。




 彼女は携帯を握り締め、既に通話が切られているのに気付かない様子で立ち尽くしていた。

 瞼がかっと熱くなり、慌てて唇を引き結ぶ。泣いてはいけない。入念に施した化粧が剥がれ落ちてしまう。化粧だけではない、ここで落とすわけにはいかないものがたくさんある。今すぐに、席に戻らなければならないのだ。

 夫の会社が手がけた新しいコンベンションセンターの完成披露パーティーは、クライアントである自治体の幹部だけでなく芸能人や各界の著名人、政治家で溢れ、マスコミの取材カメラも入っていた。

 彼女は大きく息を吸い込むと、携帯を華奢なクラッチバッグにそっとしまい、手洗いに入った。個室は空で、清潔なクリーム色の内装に心が落ち着いた。トイレで安心するなんて、と内心で自分を嗤ってしまう。

 鏡の中、六十代を目前に控えた女は平静な顔で見返してきた。年相応に皺やしみがあるが、ことさらに隠す気も、消してしまう気もない。年齢を重ねた分だけの美しさが自分にあると彼女は知っている。

 前髪を整えると、彼女は扉をゆっくりと押して廊下へ出た。泣いてはいけない。今はまだその時ではない。

 一歩進むごとに、かつて女優として鍛えられた彼女の口元には楽しげな微笑が徐々に浮かんでいった。

 心とは裏腹。だが、誰もそんなことには気が付かない。悟られたりはしない。胸の中で何度も繰り返しながら、彼女は背筋を伸ばし、歩き出した。





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