仕入屋錠前屋
平田明
仕入屋錠前屋001
1
また明日、と言える幸せ
母親はいつの間にか消えていた。たぶん小学校の低学年の頃だったと思う。男でも出来たのか、それとも生活に耐えられなくなったのか、子供だった
今思えば、妻に愛想を尽かされても仕方がない夫だったのではないだろうか。普通の男だったとは思うが、子供の哲から見ても寡黙で面白味がなく、いるのかいないのか、存在感がないというより、存在したいのかしたくないのか、傍目にも分からない人物だった。
多少なりとも家事をしているところは見たことがなかった。母と睦まじくしているところも。母とは不仲というほどでもなかったし、素面のときは哲に優しくしてくれることもあったが、そもそも素面でいること自体が稀だった。仕事中は飲んでいなかったらしいから依存症ではなかったのだろうが、家ではいつも飲んでいた。
虐待されたりはしなかった。怒鳴られたこともなかった。気分の浮き沈みは少なく、あらゆる意味で平坦な男だったのだろうと今は思う。
そんな父と哲を置いて母は出て行った。
生活に困窮することはなかったけれど、哲は周囲が案じた通り、中学の途中から煙草を吸って所謂悪い仲間と付き合うようになった。
学校や勉強が嫌いと言うより、世の中のものすべてに反旗を翻したかっただけかもしれない。そこまで積極的な気持ちがあったかどうかすら怪しいものだが、当時どう感じていたかなんてはっきりと覚えてはいない。
まったくガキもいい所だと気付いたときには手遅れで、年月を経て哲の周りの「悪い仲間」はただの不良中学生から、かなり危ないちんぴらに替わっていた。
ヤクザとは繋がりたくなかったからそういった手合いは慎重に避けていたものの、組織に属さない分無茶をやる奴が多かった。
楽しかったかと訊かれたら首を捻るしかない。
仲のいい奴はいたけれど、楽しくて一緒にいたのかどうかと問われれば回答に困るというのが本当のところだ。
望むと望まざるとに関わらず、俺はきっともうすぐ刺されるか何かして死ぬんだろうな、と何となく思っていた。格好をつけていたつもりはない。色々なことに対して興味が──たとそれが我が身のことであっても──薄いのは、子供の頃から今に至るまでずっとそうだ。
そんな中、父親が死んだ。原因は肝臓の病気。ある日倒れて入院したと思ったら、あっという間に悪化して、何を感じる間もなく葬式だった。哲は一人っ子だったから両親ともいなくなってしまったが、法律的には未成年。そこで親戚が慌てて哲を押し付けたのが父方の祖父、
「おい哲ぅ」
平和に間延びした祖父の声が自分を呼ぶ声で目が覚める。あの頃の記憶は必ずそこから始まった。脚がガタガタの折り畳みテーブルに向かった祖父は、引き戸の向こうから哲を呼ぶ。
「哲、いつまで寝てるんだ」
痩せた背中はかなりの猫背だが、いつ見ても頑健そうだった。
「早く飯を作れ」
祖父は自分で何でもできるくせに、何でも哲にやらせたがった。粗暴な、ろくに高校にも行かなくなった孫を何とかしたかったのかも知れないし、ただ単に面倒だったのかもしれない。
「何食いたい」
寝ぼけ眼を擦って聞くと、祖父は必ず「だし巻き玉子」と言った。そんなもん作れねえと文句を垂れつつ、料理が嫌いでなかった哲は毎朝ネギ入りの玉子焼きを焼いた。因みに、綺麗なだし巻き玉子を焼けるようになったのは何年も後の話だ。
それは退屈な日常ではあったが、明日はこの路地裏で死体になっているかもしれない、という漠然とした恐怖とは縁遠かった。
おやすみ、じいちゃん。また明日玉子焼き焼いてやる。そう思える幸せを、哲は知った。
祖父は、かつてはごく普通のサラリーマンだったらしい。哲の父の他に子供はいない。哲が初めての、そして唯一の孫なのに、それまであまり会ったことはなかった。
祖父はこともあろうに、勤務先の金庫破りの現場を見つかって馘になった。
「セキさんはいい人だったからな」
祖父は懐かしそうに何度も語った。解雇された話など楽しい思い出でもないだろうに。聞く度にそう思ったものだ。
「会社には言わないでやるって。その代わり、即刻クビにされた」
祖父の笑みが曇るのは毎回ここからだ。
「だけど、それでかあちゃんがお前の親父を連れて出て行って……。そりゃあそうだよな。だから、あの子は死ぬまで俺を恨んでて、お前にもなかなか会わせてもらえなかったんだ。生まれたことだってすぐには知らされなかったくらいでさ──こんな親父より先に死ぬなんて、かわいそうに」
祖父の解錠に対する執着は、そのまた祖父から受け継がれた。
「錠前破り──というか、世間的に言えば空き巣だったんだなあ。だけど変わってたのは、物は盗まないで家中の鍵を開けてまわったんだとさ」
そんなことをして一体何の得になるのかよくわからないが、本人は至って真剣だったらしい。
「金庫も窓も全部開けてな……それで逃げ出すっていうんだから、他の目的があるんじゃないかってんで、却って怖がられたって話だ。俺も親父によく聞かされたよ。だから俺達はまじめに生きなきゃ、って」
「ふうん……で、親父の教えにも関わらずじいちゃんは真面目に生きられなかったっつーわけ」
隔世遺伝というやつか。祖父は笑って湯呑みを手の中でゆっくり回した。
「俺もなあ──いや、親父をがっかりさせたなとは思うんだよ。けどなあ、こればっかりは」
だからなのか。誰もが、手に負えないからと引き取りることを拒んだ哲を引き取ったのは。そんなことを思ったが、だったら何だということもないから黙っていた。
「錠前ってのはさ、哲」
祖父は穏やかな目で哲の若く尖った目を見つめる。
「開けて欲しがってる。だって、その為の鍵と錠前なんだ。二度と開けたくなきゃあ、ハンダ付けしちまえばいい。人間の胸ん中だってそうだろう。言うじゃないか、ココロのカギって」
哲は、その年十八になったばかりだった。
二度と開かないと思われた錠前。
失くした鍵。忘れられてしまったダイヤルの組み合わせ番号。その奥に何があるのかは関係ない。ただ、開けてみたいとは思った。
その先は考えなかった。ただ、閉じたものをこじ開けてみたかった。
英治が黙り込んだ哲を不思議そうに見つめている。
「哲? どうした」
「それって──」
「何だ?」
「俺もやってみてえ」
哲が自分の中に錠前破りのどうしようもない血を感じたのはその時だった。
目の眩むような瞬間。錠前が開いた音、指に伝わる痺れるような何か。まだ実際には感じたことのない何かに確かに触れた気がして、哲はゆっくり瞬きした。
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