15

知らないのは泣き方と剣の使い方 1

 哲は年末の雰囲気が好きだ。

 クリスマス頃までは街中もやけに慌しい。繁華街は様々な年齢、職業の男女で混み合い、あちらこちらで酔客や客引きの調子っぱずれな声が上がる。

 しかし年の瀬を迎えると、それが徐々に落ち着いてゆく気がする。遠い実家に帰省する者、大掃除や年末年始の買出しに追われる者が増えていく。行動範囲は彼らの生活圏へと戻り、このいかがわしい通りからは暫し足が遠のくのだ。

 この何とも言えない静けさが好きだった。身を切るような寒さも苦にならない。薄く凍りついた店先のシャッターに揺れる、少し気の早い正月飾りに何故か安堵する。

 クリスマスのけばけばしい電飾は好みではないが、正月飾りは好きだ。高校を出る頃から祖父と暮らしたせいか、嗜好までも感化されてしまったようだ。

 コーヒーや紅茶も別に嫌いではないが、緑茶が好きで和食が好き。ソファに座るより床に胡坐を掻くのが好きで、扇風機は好きだがクーラーは嫌い。

 そんな哲を年寄くさいと笑う友人もいるが別に気にならないし、言っているほうも哲が気にするとはまったく思っていないだろう。

 今哲が向かっているのは、友人ではないが、哲を爺呼ばわりしたことがある張本人のところだ。

 哲よりよほど爺に近いというのに、まったく。そのときのことを思い出した哲の口の端に束の間微かな笑みが浮かんだ。


 川端の事務所に着いてみると、驚いたことに先客がいた。受付の玉井さんが盆を持って奥から出てきたのでそうと知れたのだが、哲が訪れたときに客がいたのは初めてのことかもしれない。

 玉井さんは相変わらずで、哲を見ても羽虫が飛んできたくらいの反応しかしない。だが、嫌われているわけではないのは分かっているから、こういう人なのだと思うだけ。今更驚くこともなければ悲しくもない。哲は給湯スペースを片付けている玉井さんの背後に立って声をかけてみた。

「こんにちは」

「……」

 蚊が鳴いているとでも思われているのか、やはり反応はない。

「お客さん?」

 続けて訊いてみたら、玉井さんは、今度は白髪交じりの頭をちょっと仰向け斜め下から哲を見て頷いた。

「じゃあ、これ渡しといてもらえるかな」

 尻ポケットから家賃の入った薄い封筒を取り出して、玉井さんの前で振る。玉井さんはまた頷いて封筒を受け取った。じゃあ、と踵を返しかけたところで尻ポケットの携帯がぶるぶる震え出した。手に取ってディスプレイを見てみたら、着信表示はドアの向こうの川端だった。

「哲か?」

 川端の銅鑼声がステレオ放送で聞こえてくる。

「俺の携帯だ、俺に決まってる」

 川端はでかい声で笑った。ドアの向こうから聞こえる声と哲の話し声がリンクしていることに気付いたのか、玉井さんが眉を上げた。頷いてみせたら玉井さんは急須にお湯を足し始めた。俺の分かな、と横目で見ながら川端の声に注意を戻す。

「お前、今どこにいる?」

「近く」

「そうか。悪いが、時間があったら寄ってもらえないかね。お前に仕事の依頼なんだが」

「分かった」

 電話を切ると、玉井さんが茶托に載せた茶碗を差し出した。

「自分で持っていきなよ」


 茶を啜りながら足でドアを開けると、川端が目を剥いた。

「早いな、おい」

「いや、いくら近くっつってもそんなわけねえよな。たまたま寄ったとこ」

 川端の向かいの人物もこちらを向く。ぱっと見た印象では八十前後に見える男だ。真っ白になった髪は僅かに後頭部に残るだけでほとんど禿げてしまっていて、線が細く、弱々しげな老人という感じだった。

 男に会釈した哲は足でドアを閉め、川端の隣に座った。川端の横幅のせいか何となく窮屈だが仕方がない。

「こちらは成瀬さんだ」

「どうも、初めまして。成瀬なるせ幹彦みきひこです」

「初めまして、佐崎です」

 成瀬と名乗る男は細い首を何度も曲げてお辞儀をし、老人特有の透き通ったような目で哲を見た。

「成瀬さんは岩倉画廊さんの紹介でこちらへいらしたんだ」

 岩倉画廊といえば秋野の知り合い──というか、得意先だ。川端が哲の胸中を読んだかのように続ける。

「岩倉さんが奥さんに話して、奥さんから仕入屋に話が行ったらしくてね。仕入屋が俺に話を持ち込んできた。お前にまわせってな」

 秋野がどこかから持ってきた仕事の依頼を受けたことは過去にもある。手錠が取れなくなった女のようなちょっといかがわしいものもあれば、一般人からのごく普通の依頼もあった。

 ただ待っているだけのときより明らかに仕事の量は増えているのだから、ありがたくはあるのだ。だが、秋野がまるで雛鳥に餌を与える親のように解錠の仕事を持ってくるのがどうしてなのか、哲には未だによく分からない。

 束の間仕入屋のことを考えていた哲のほうに、突然成瀬が身体を乗り出した。

「お願いしたいんです!」

 弱々しい外見と裏腹に、拳は固く握りしめられている。

「うちの鍵を、開けてもらえませんか」

「お宅の──成瀬さんの家の鍵ですか?」

 思わず茶碗を取り落としそうになって、慌てて茶托ごとテーブルに載せた。川端も面食らったような顔をしている。

「ああ、いや、すみません。鍵をなくしたとかそういうことではないんです」

 成瀬は慌てたように両手を顔の前で振る。

「私ら——私と家内が寝てる間に、玄関の鍵を開けて欲しいんです」

「……それはご自分で開けられるとよろしいんじゃ……」

 川端がもごもごと言う。哲も思わず隣で何度も頷いた。外に出ているときならともかく、家の中にいて鍵が開けられない理由が思いつかない。

「いえ、家内がね、眠りが浅い質なもんですから。私が起きると必ず目を覚ましますのでね」

「鍵を開けることを、奥様に知られたくないと?」

「ええ、そうなんです」

 問いかける川端に答えた成瀬は、ひどくか細い溜息を吐いた。握っていた拳が開き、細い枝のような指先が微かに震えながら膝のあたりを彷徨っている。

「順を追ってお話いたします」

 成瀬は意を決したように背を伸ばし、祈るように手を握り合わせた。



「私ども夫婦には一人息子がおりまして。これが、義彦よしひこというんですが、お恥ずかしながらどうにも手のかかる子で──いや、手がかかったんです。十代の頃は」

 お前みたいだなと川端が小声で言ったので、テーブルの下で密かに、しかし思い切り向こう脛を蹴っ飛ばしてやった。

 川端は声を出さずに悶絶している。成瀬は不思議そうに川端を見たが、川端が必死に浮かべてみせた笑みに安心したのか、話を続けた。

「私らも頭を悩ませましたが、それでも何とか更正しましてね。まともな勤め先も見つけて女房ももらって、子供も産まれました。女の子ですよ。それで、郁美いくみ——孫の名前なんですが——郁美が生まれた頃に、家に戻ってきたんですがねえ」

 成瀬はちょっと目頭を押さえた。

「うちの家内がまたきかない女でしてね。若い頃に義彦が散々問題起こして出てってから、勘当だ、二度とうちの敷居は跨がせないなんて言いましてねえ。義彦は孫の顔を見せに来たんですが、追い返されてしまいました」

 川端は脛が痛いのか感情移入したのか知らないが、泣きそうな顔でうんうん頷いている。

「それからは訪ねてくることもなくなりました。私はたまに連絡を取っていましたが、家内に隠れてというのはね、意外に難しくてどうにも……。それで、この間義彦から連絡がありまして、郁美が二十歳になったんでどうしても会ってほしいと」

 そりゃあ、会いたいですよ、と成瀬は俯いた。

「家に行くって義彦は言うんだが、家内がねえ──意地になってるのか、会わない、家には入れないの一点張りですよ。家に来たって、ドアを開けるのも駄目だって言うんですからね」

「それで、俺に鍵を開けろと?」

 訊ねる哲を真正面から見据え、成瀬は強く頷いた。

「あれは眠りが浅くて、私が鍵を開けたら起きてしまいます。寝る前の戸締まりは忘れませんし、それに、義彦から電話があったもんですから。私が勝手に渡すんじゃないかと思ってるんでしょう、鍵もしっかり握ってるんですよ」

 成瀬は透き通った目を瞬き、哲を拝むようにした。

「お願いしますよ。義彦が来たら、鍵を開けてやってください。私はあの子を許してます。あの子は家内によく似てる。泣き方を知らないだけなんですよ……会えば、顔を合わせればきっと家内だって折れるはずなんです」

 強さと弱さを行ったり来たり。成瀬の瞳を見つめ、そう思う。妻に遠慮する成瀬も、子を思う成瀬も、どちらも同じ人間だ。さっきまでは震えていた指先を固く拳に握り、そうしてまたおろおろと開いては閉じる。

 そういうものなのだろう、とぼんやりと思う。老人だろうが若かろうが、ひとというのは、強くも弱くもあるものなのだろう、と。



「なあ、俺とデートしねえか」

 哲が言い終えた後、一瞬の間も置かずに「嫌だよ」と冷たい返事が返ってきた。哲は携帯を持つ手を換えて文句を垂れた。

「おい、返事が早すぎるんじゃねえか。喜べよ」

「お前が自分から言うってことは絶対にデートじゃない」

 秋野の声はどこまでも素っ気ない。階段を上る哲の髪を巻き上げる風は冷たい。空気が澄んでいるせいか、足音も普段より響く気がする。

「お前がまわしてよこした仕事のせいで深夜勤務なんだ。むかつくからつき合え」

 喋りながら秋野の部屋のドアをがんがん音を立てて蹴飛ばすと、ドアが開いて秋野の呆れた顔が現れた。

「まったく……俺に断る余地はないのか?」

「ねえな。俺に仕事を与えたてめえが悪い」

 秋野は溜息を吐いてドアを大きく開く。哲は空いているほうの手でドアを支え、携帯をポケットに突っ込みながら早くしろよと声を上げた。


 成瀬の家は古い一戸建てだった。入り組んでいて道路が狭く、車が行き交うのも片方が軽ならばぎりぎりというところ。

 成瀬の話によると、息子の義彦は深夜一時から二時の間、つまり成瀬の妻がすっかり寝入った頃に実家にやってくるということだった。

「嫌なんだよな、個人宅の解錠って」

「どうして」

「強盗の手助けみたいで、あんまり気分よくねえから」

 白い息を吐きながら答えた哲に、秋野が自販機で買った無糖のコーヒーを放って寄越した。

「本人がそうしてくれって言ってるんだから、お前が気に病むことはない」

「まあ、それはそうなんだけどよ」

 コンビニエンスストアの駐車場の脇にしゃがみ、哲はコーヒーを開けた。最近、気温は下降の一途を辿っている。手元の缶コーヒーから湯気が上がり、吐いた息と混じってどちらがどちらか分からなくなる。

「しかし寒ぃな」

「人一倍寒さに強いお前が寒いんだから、俺の寒さは推して知るべし」

「てめえが寒いかどうかなんて知るかよ」

「冷たいねえ」

「俺は寒さに強えからな」

「はいはい──ああ、あれじゃないか」

 秋野がブーツの先で哲のしゃがんだ背中をつついた。道を渡って来た中年男が、立ち止まって辺りを見回している。

「あー、それっぽいな。仕方ねえ、行きますか」

 哲は立ち上がってコーヒーの缶をゴミ箱に放り込んだ。ペットボトルと缶のぶつかる音が聞こえたのか、男がこちらに気づいて身体の向きを変えた。五十代だろうか、ややくたびれてはいるが清潔な格好をしたごく普通の男に見える。

 男は哲の前に立ち、軽く会釈した。

「ササキさんですか」

「はい、どうも」

「成瀬義彦です。すいません、父が無理なお願いを……」

 義彦は、昔は無茶なことをしていたとしてもその雰囲気をうまく隠していた。それとも、単に年齢を重ねて分別を得たのか、家族を得て人間が変わったのか。いずれにしても、これといって特徴のないその顔に危険な匂いはまるでない。

「早く済ませたいんで、行きましょう」

 哲が促すと、義彦は頷いて歩き出した。秋野は黙って哲の後ろを歩く。成瀬は秋野のことは別に気にしていないようだ。

「父──あの、親父は、事情を話しましたよね」

「はい、大体は」

 哲の顔を見て、義彦は笑顔を見せた。

「お恥ずかしい話です。元はといえば僕が悪いんですけど、親父も結構突拍子もないこと考えたもんです。こんなことに巻き込んじゃって申し訳なくて」

「いや、俺は鍵開けるだけだから」

「きみは、これが仕事なの?」

 哲は義彦に目を向けた。睨んだわけではなかったが、義彦は少し気まずそうにして、それでも微かに微笑みを浮かべたまま続けた。

「いや、僕も若い頃は人に言えないことばかりしてたから、お説教なんかしないですよ」

 成瀬の笑い方は寂しげで、それでもあたたかみがあった。

「緊張してるのかな、余計なこと言ってばかりですみません」

「……いえ」

 別に余計なことだとは思わないが、興味はない。それでも人並みに、こんなふうに笑う男なら両親と和解できればいいなとは思った。

 成瀬家は寝静まっているようだった。家そのものと同様に古い玄関の鍵は難なく開いた。哲の作業を目を丸くして見ていた成瀬は、小声でへえ、と呟き、何に関心したのか熱心に頷いていた。

 哲が場所を譲り、成瀬がドアノブを捻る。今時はドアレバーが主流だ。最近見なくなった懐かしい古いドアノブは、義彦の手の中で苦もなく回ってみせた。義彦はドアを少し手前に引いたまま、暫しその場に立ち尽くしていた。

 風が吹きつけ、義彦と哲の髪を揺らす。何の意味もなく背後を振り返ったら、冷たい風に煽られた髪をかき上げた秋野と目が合った。

 薄茶の瞳にあたたかさはない。だが、冷たい外気で隔てられても感じる熱っぽさが確かにある。哲は小さく舌打ちして秋野から目を逸らし、義彦の背中に視線を戻した。

 ようやく踏ん切りがついたのか、義彦は哲を振り返ってにっこり笑い、頭を下げた。屈託のない、いい笑顔だった。




 誰かが触っている。いや、揺らしている?

 哲は覚めきっていない頭で、違和感の元を探そうとそれなりに努力した。身体が揺れている気がするのは一体なぜだ。地震かと思ったがそれも違う。誰かの手が肩を掴み、揺すっているのだ。

 ミキか? 違うか。あいつの手はこんなに大きくない——。

「哲!」

 強い口調で名前を呼ばれ、目が覚めた。身体を屈め、哲を覗き込んでいるのは煙草を銜えた秋野の薄い色の目だ。一気に記憶が蘇り、成瀬家から戻りそのまま秋野の家に泊まったことを思い出した。

 ソファで縮こまっていたせいか身体のあちこちが痛かった。さっきと同じ姿勢の秋野が低い声で何か言っている。

「──ああ? 何だって?」

「起きろ、ちゃんと聞け」

「だから、何だよ」

 ゆっくり身体を起こし、煙草を探して周囲を見回したが見当たらない。哲は手を伸ばし、目の前の秋野の唇から煙草を掠め取って銜えた。朝一番の煙草はくらっとくる。血流に乗って有毒物質が身体中に回る気がする。多分錯覚ではないのだろうが、だからどうしたと毎朝思う。

「成瀬の——」

「成瀬?」

 名前にひっかかってようやく秋野に注意を向け、改めて見たら秋野はほんの少し顔色が悪かった。そう思って聞けば、声も妙に強張っている。

「何だよ、なんかあったのか」

「成瀬義彦が母親を刺して逃げた」

「は……?」

「刺された母親は重体で、救急車で運ばれた病院にそのまま入院したそうだ」

 思わず開けてしまった唇の端から落ちそうになった煙草を秋野の手が受け止める。頭の片隅で熱くないのだろうか、と思ったが、口に出す前に忘れてしまった。

「哲、成瀬からお前に連絡があると思うか?」

「……」

「哲?」

「──ああ、悪ぃ、何だって?」

「お前に、成瀬から直接連絡があると思うか?」

「ああ、いや──川端さん通してるから。俺の連絡先は教えてねえ」

「それならいい。もし連絡があっても係わるな。俺が岩倉を通すから」

「……分かった」

 秋野が岩倉杏子を通して成瀬から聞いた事情によると、義彦は家に上がった後、しばらく一人で過ごしたらしかった。

 彼が父親を起こしに行ったのが午前四時頃。物音で母親の目も覚めた。母親は、勝手に家に入り込んだ義彦に激昂した。父親が事情を説明すれば、今度は父親を詰るばかり。穏やかに話したいと言っていた義彦が、さすがに声を荒げた。

 母親は義彦の怒声に飛び上がると、一目散に台所へ飛んでいったという。

「ぶるぶる震えて包丁を……」

 成瀬の声も震えていた、と杏子は秋野に伝えたらしい。

「義彦は昔、短い間でしたが家内に暴力をふるってたんです。それで家内は——あの子は、そんなものは捨てろ、危ないから、って」

 パニック状態になった母親から包丁を取り戻そうとした義彦は、老女とは思えない力で包丁を振り回す母親と揉み合いになった。

「あれは、二人ともよく似た親子です」

 哲には成瀬の泣き声が聞こえるような気がした。

「お互いに、言いたいことも言えないで、ずっと意地を張って……あの二人が知らないのは泣き方と剣の使い方なんです。おろおろするばかりで家庭の中をどうにもしてやれなかった私に刃を向けてくれればよかったものを——」

 ほんの短い時間顔を合わせただけの老人。透き通った白目、骨と皮ばかりになった震える指先が哲の脳裏に浮かび、消えていった。

 

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