知らないのは泣き方と剣の使い方 2

 電話の向こうの川端の声は、どこかおかしな響きがあった。

「哲?」

「かけてきたのはおっさんじゃねえか。俺に決まってんだろ」

 わざと憎まれ口を叩いてみたが、いつものような無駄口も返ってこない。数秒の間の後、強張った声が囁くように訊ねた。

「……お前、今どこだ?」

「バイト行くとこだけど。何だよ」

「成瀬さんの息子から電話があった」

 川端が低い声で告げた言葉に、哲は思わず玄関のドアを閉じた。スニーカーを履いたまま、三和土に突っ立って電話を逆の手に持ちかえる。

「──何で」

「分からん。お前さんに会いたいって言ってるんだが、どうする?」

 哲がどう応答するか考える前に、川端は続けた。

「って言っても、会うべきじゃないぞ。成瀬さんの話じゃあ、奥さんはまだ意識が戻ってない。警察に通報すべきだ」

「……俺の番号教えてやって」

 哲が言うと、川端は大きく舌打ちした。

「そう言うと思ったよ。しかし哲、いくらお前が喧嘩じゃあ負け知らずだって言っても——」

「うるせえなあ、いいからそうしてくれ」

「哲」

「分かってる。自棄になってなにすっか分かんねえとか、そういうのは。別に取り押さえようとか思ってねえし」

 川端の溜息と、何を言っているか聞き取れない呟きが暫し続き、数秒の沈黙の後、さっきより長い溜息が再び響いた。

「……じゃあせめて、仕入屋を連れて行け。一人よりいい」

「俺、付き添いはいらねえんだけど」

「お前がいらなくても、俺の心の平安のためにはいるんだよ。大体、あの男の知り合いからまわってきた仕事なんだ、そのくらいさせたって文句を言われる筋合いはないぞ。いいか、相手は自分の母親を刺して逃げてる男だ。絶対にお前一人で行くんじゃない」

 それこそ溜息が出そうになったが飲み込んだ。川端には世話になっているし、哲を心配して言っているのはよく分かっている。ここで言い合っても仕方がない。

「分かったよ、おっさんのいうとおりにすっから」

 川端との通話を切り上げ、バイト先に体調不良で休むことを連絡し、ひとしきり謝って電話を切った。

 やたらと体調を気遣ってくれた居酒屋の店主。それから川端。二人の男の顔が浮かび、それが成瀬の顔になって、義彦の子供のような笑顔が脳裏に浮かんだ。

 何してんだよ、おっさん。あんた、子供みたいに喜んでたじゃねえか。何で逃げたりしたんだよ?

 顔立ちはなんとなく曖昧で、笑顔ばかりがくっきりとした輪郭を持つ頭の中の義彦は、当然ながら微笑むばかりで何を答えようともしなかった。


 その川は哲の生活圏内からは遠いところにあった。住宅地から少し離れ、幹線道路を横切るようにして市内を流れている。

 河川敷は夏ともなればパークゴルフをする年寄りやサッカーを練習する子供達で賑わうらしいが、この時季は誰もいない。早朝や夕方には犬の散歩やランニング中の人もいるのだろうが、夜の時間帯は人通りがなかった。

 義彦は遊歩道から続く階段を下りたところの土手に座っていた。昨晩見たままの格好だが、ちょうど胃の辺りに黒っぽい染みがついている。話のとおりなら母親の血痕だろう。着替える余裕も、機会もなかったのか。無精髭が生え、顎の辺りが黒っぽく見えた。

 今までどこをうろついていたのか知らないが、冷え切っているのだろう。義彦の顔色はひどく青かった。もっとも、血の気が失せている理由は寒さばかりではないのかもしれないが。

 哲のスニーカーが枯れ草を踏む音に、背を丸めて座る義彦が振り返る。いくら河川敷とはいえ、街灯の明かりはある程度届く。近づくごとにはっきりした顔は、あのとき見た穏やかな中年男の顔そのままだった。どこかで想像していたような、荒れていたという若かりし頃を思わせる険しい表情はどこにも見当たらない。膝を抱えた姿勢のまま、義彦は哲に向かって律儀に頭を下げた。

「……あんた、なにやってんだよ」

「本当に、何をやってるんだろうね。おまけに逃げるなんて馬鹿みたいだ。悪ガキ時代と何ひとつ変わってないって、今更気だけど思い知ったよ」

 義彦は苦笑したが、俯き、膝の間に顔を落とした。

「それで、母は……」

「さっき知り合いから話聞いたときは、まだ意識戻ってなかった」

 丸めた肩が揺れ、一層縮こまる。暗い川べりで膝を抱える姿は、本人がいうとおり、頼りない少年のようだった。何にでも反発して、怒りと敵意を投げつける。そうして跳ね返ってきたものに傷つくのは、他の誰よりやわらかい心の一部だ。

 哲にはそういう弱さがなかった。俺は強い、という話ではない。自分には何かが欠けているのだとずっと昔から知っていた。だから、義彦の気持ちは分からない。理解もできない。だが、多分そうやって傷ついた義彦は、だからああして笑えるのだと思うのだ。

 縮こまったままの姿勢で呟く義彦の声は、ひどく聞き取りにくかった。

「きみは関係ないのに、呼び出したりして申し訳ない。僕は」

 言いさした言葉は、そのまま消えた。先を促しもせず黙り込む哲を訝しんだか、ゆるゆると顔を上げた義彦は哲の顔を束の間眺め、またあの寂しそうな笑みを浮かべた。

「娘が悲しむ。あんなに会いたがってたおばあちゃんを……」

「警察、行くんだろ」

 遮ると、義彦は頷いた。

「うん、行くよ。行かないとね」

「あんたの父親、」

 立ち上がりかけた義彦に一歩近寄る。言わなければ、と思ったわけではない。ただ口から出てしまったから、そのまま続けた。

「あんたは母親に似てるんだって言ってた。泣き方を知らないって」

 義彦の父の言葉の本当の意味は、哲には分からない。だが、義彦の顔はくしゃりと歪んだ。泣き出すかと思ったが、一瞬で元に戻る。その目に涙が浮かんだかどうか、哲には見えなかったし、知りたくもなかった。

 義彦はゆっくりと腰を上げた。まるで怪我を負ったのは母親ではなく義彦のようだ、とぼんやりと思う。突き立てられた刃は、義彦自身を切り裂いたのではないか。緩慢な動きで立ち上がった義彦は、不意に訊ねた。

「……きみのご両親は?」

「とっくにいねえよ、二人とも」

 哲は義彦を一瞥し、反応を待たずに踵を返した。

 義彦が自首することは疑わなかったが、万が一そのまま逃げたとしても正直なところどうでもよかった。

 義彦の父、成瀬が口にした泣き方を知らないっていうのはどういう意味だろうな、と考えた。当然だが、文字通りの意味ではない。義彦も母親も、悲しければ泣くだろうし、痛くても泣くだろう。

 解錠の日に見た義彦の屈託のない笑顔は、今も妙に心に残っていた。義彦はどの程度の罪に問われるのだろうか。それとも事故で済むのだろうか。またああやって笑えるようになるのに、母親と和解するのに、一体どれくらいかかるのだろう。

 哲はふらりと遊歩道に上がり、歩道脇に備えつけられたベンチに腰を下ろした。煙草に火を点け、吸い付ける。ライターの火が消えると、街灯以外の明かりは煙草の先の赤い点だけになった。

 遠く、向こうに見える微かな影は遠ざかる義彦だろうか。それとも目の錯覚か。街灯の落とす弱々しい光では、遠くは見えない。確かなことは分からなかった。

 実際に目にしたわけではないのに、涙を浮かべる義彦の父親の顔が目に浮かんだ。目の前に漂う煙を手で払って瞬きする。見えたような気がした義彦の背は、今はどこにも見当たらなかった。


 どれくらいベンチに腰掛けていたのか、何本か煙草を吸う間に強張った身体が氷のように冷えて我に返った。かなり長い時間ぼんやり座っていたようだ。

 凝った身体を伸ばし、立ち上がって歩き出す。遊歩道を歩きながらポケットに手を突っ込み、そこでようやく携帯のことを思い出した。

 川端がうるさく電話をかけてきたら面倒なので電源を切っていたのを忘れていた。あのおっさんはああ見えて心配性だ。多分大丈夫だとは思うが、万が一警察に捜索願いでも出されていたら叶わない。犯罪者というわけではないが、真っ当な一般人かというとそうとも言い切れないから、できるだけ警察とは関わり合いになりたくなかった。

 哲は溜息を吐きながら電源を入れ、川端の番号を呼び出した。そして結局、溜息も出ないくらい肩を落として通話を切る羽目になった。

 川端はやはり心配性だった。連絡が取れないと焦り心配した反動で電話の向こうで喚き、そして何より最悪なことには、警察より余程質の悪いものに助けを求めたと哲に告げた。

 携帯の電源を切っていたことを今更ながら猛烈に後悔した。不在着信が山ほど残っていたのは電源を入れてすぐ気づいたが、すべてが川端だと思っていたから表示を見てもいなかった。

 川端は哲が仕入屋と二人で行動していると信じて疑っていなかった。そこで、哲の電話が繋がらないと知るや、早速秋野の電話を呼び出した。ところが秋野はたまたま地下の店で依頼人と食事中、電波状態が悪くて繋がらなかったらしい。秋野に電話が繋がるまでの小一時間、川端は生きた心地がしなかったとか。

 やっと秋野を捕まえたと思えば、哲の行き先など知らないどころか義彦と会うこと自体が初耳だという。泡を食った川端は、哲が連絡をするまでの数時間、自らあちこち駆け回ったらしい。

 あの太鼓腹を揺すって走り回っている川端の姿を想像するとちょっと笑えたが、自分の今置かれている状況は決して笑っていられないものだと気づき、一転してうんざりした。

 川端はいい。哲が無事だったことに安堵してすっかり機嫌は直っている。しかし、そうは行かないのが一人残っていた。

 確かに結果だけ見れば何でもなく終わった。そもそも、川端がどう思ったにせよ、義彦が哲を傷つけようとする可能性は限りなく低いのだ。

 それでも、確かに可能性は皆無ではない。杞憂かどうかはともかくとして、川端が一人で行くなと要請し、了承したのに意図的に無視したこと。秋野にも係わるなと言われ、分かったと答えたにもかかわらず──これはわざとではないが、結果的に──勝手に係わったこと。

 どう考えても自分の落ち度だった。もし自分が逆の立場なら、むかっ腹が立つに違いない。せめてなぜひとこと言わなかったのかと責めたくもなるのは間違いなかった。



 訪ねた哲にドアを開けた秋野は無表情だったが、その無表情の下に確かな怒りを感じ、哲は内心溜息を吐いた。予想していても、怒った秋野は心臓に悪い。

 目が普段の数倍黄色っぽく見える気がするのは後ろめたい気分の投影だろうか。それとも、怒ると目から何かビームが出るとか。そんな妄想も残念ながら重苦しい気持ちを晴らす効果はなさそうだった。

 秋野に続いて上がった部屋は、なぜか照明が点いていなかった。寝ようとしていたのか、それとも腹立ちのあまり忘れているのか。後者のような気がしてならない。

 暗い道を歩いて来て目は慣れているから、見えないことはない。テーブルの上のミネラルウォーターのペットボトルが、酒でないだけに一層秋野の心中を表しているように思えた。部屋の壁に凭れたまま、秋野は突っ立つ哲のほうを見た。

「係わるなと言ったろう」

「お前に指図される覚えはねえ」

 他の相手なら多分すぐに謝罪するだろう。自分が悪いとわかっているのについやり返してしまうのは、素直に謝れないからではない。誰かの顔色──特にこの男の──を窺うなんて腹立たしいと思ってしまうだけだ。

「指図してるわけじゃない。分かってるだろう」

 黙り込む哲に、秋野は険しい目を向けた。

「お前が何をしようと勝手だが、今回はそういうことじゃない。係わるなって言って、お前は分かったって言った」

「……」

「ひとこと言えば済むことだっていうのに」

「──心配だったってか」

 秋野の物言いの何が癇に障ったのかよく分からなかった。

「お前に心配してもらう必要なんかねえんだよ。勘違いすんじゃねえ、お前は俺の保護者か何かか?」

 成瀬義彦の笑顔。泣きそうな顔。

 親。

 泣き方を知らないふたり。

 ささくれ立った神経に、抑制された秋野の声がひっかかった。多分、ただそれだけだ。ざらつく紙やすりで擦られたように、自分自身の言葉に過敏になった神経が悲鳴を上げる。

「俺がお前に甘えれば満足か? 助けてくれって頼れば、依存すれば満足かよ? そんな俺が欲しいのか」

 何を言っているのか、哲自身もよく分かっていなかった。

 突然出現したとしか思えない。

 反射神経は人並み以上のはずなのに、気がついたらすぐそこに拳があった。思い切り殴られて上体が大きく傾ぐ。咄嗟に両手を床について支え、膝はつかずに持ちこたえたが、奇跡のようなものだった。

 ここ数年、殴り合いも日常茶飯事というわけではなかった。それでも慣れと経験のお陰で咄嗟に顔を背けることができたものの、そうでなければまともに顎に当たっていただろう。

 ぐらぐらする頭をなんとか持ち上げた瞬間にすかさず蹴り飛ばされ、今度は堪え切れず、盛大に床にぶっ倒れる。テーブルが吹っ飛び、倒れた拍子に下唇の裏側を噛んだ。

 手をつき身体を起こしながら口中の血液を床に吐き出す。秋野の足が飛んできて、鳩尾をまともに蹴り上げられた。瞬間、息ができなくなる。突然空気が固体になったかのように喉が詰まった。

 思わず顔を背けて咳き込む哲を、秋野が跨ぐ。髪の毛を掴まれ、無理矢理顔を仰のかされ、目を向けたら秋野の瞳がそこにあった。

 一度だけ見た、何の感情も、愛想も穏やかさも何も浮かんでいない秋野の顔。瞳孔が窄まった薄茶の目には、無表情な顔とは反対に哲には理解できない何かが渦を巻いていた。

 あの時と同じ。

 本能的で原始的な恐怖を感じ、哲のうなじの毛が逆立った。


 身体をひっくり返されたと思ったら、いきなり顔を寄せてきた秋野に噛みつくように口づけられた。秋野の舌が哲の口腔を探り、傷を吸い上げる。鋭い痛みと傷に触れられる不快さに総毛立った。

 拳が顎をかすったせいで、まだ僅かに眩暈がした。握り込んだ右の拳を機先を制して床に叩き付けられ、逆に手首を掴まれる。眼前の秋野は表情がないままだった。普段より数倍険しいその瞳が、薄暗い部屋の中で光って見える。ものすごい力で握られた手首が痛い。折れてしまうのではないかと思うくらい、握る指の力には容赦がなかった。

 哲に圧し掛かる秋野の顔に、次第に表情が表れていく。目はぎらぎらと光り、こめかみと、食いしばった顎に沿って筋肉と血管の筋が浮き出た。哲を睨みつけたまま、秋野の右手が哲の首筋を強く掴む。引き寄せられ、もう一度、そのまま食われると錯覚するほど激しく貪られた。

 金気臭い味がする。

 さっき噛んでしまった傷の味。それとも秋野の血の味か。首筋から肩。腕から指。臍から下腹、股間、腿から膝。

 秋野の指と舌が皮膚の上を這っていく。そうやって少しずつ食われていくのだろうか。頭から食われてしまうから気をつけろと言ったのは、一体どこの誰だったか。

 粘つく体液の音がする。真っ赤に染まった哲の頭の中に、ぎちぎちと、何かが捻じ切れそうな音がする。実際の音なのか、それとも幻聴か。他人に組み敷かれることに対する激しい怒りと、切羽詰った自衛本能、そして同じくらい激しい興奮が腹の底からせり上がって、哲の喉を狭くした。

 絶え間なく響く、獣の唸るような低い音。それが自分の歯の間から漏れていることに、暫く経ってから気がついた。威嚇の唸り声のようなそれは剣呑なのに、まるで歌っているようにも聞こえる不思議な音だ。

 唸り声を上げる哲を、秋野の双眸が見下ろしていた。

 理性も、抑制も、穏やかさも。覆うものを何もかも取り払われた凶暴な目が、哲の闘争心を煽り立てる。先程まで感じていた恐怖は、欠片も残さずどこかへ消えた。

 秋野の裸の肩に喰らいついた口の中に、錆臭い、不快な血の味がした。爪を立て、噛り付き、穿たれる屈辱に咆哮する。食いたきゃ食え。だが、黙って食われてやるつもりは毛頭ない。尻の間に突き立てられたものが何かなんてどうでもいい。何、ではなく誰、が問題なのだ。

 腹が立って堪らない。肉体的な快楽はほとんど感じなかった。感じたとしても、感知することができなかった。揺さぶられながら感じたのは、脳髄を痺れさせるような原始的な興奮だけ。

 脳みそが灼けつき何もかもが真っ白くなって消えてしまう。目の前の男しか見えなくなる。

 それほど強烈な何かだけだった。

 



 成瀬義彦は、その日のうちに最寄の交番へ出頭した。

 母親の意識は戻っていなかった。義彦は、父親の顔を見て子供のように泣き崩れたと、後で聞いた。


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