戦友

「うわぁー」

 手塚自身の呑気な声が診察室に響き渡った。

 声がでかくてうるさい、と文句を垂れながら、秋野は一番下に着ていたTシャツの袖を捲り上げた。手塚は秋野の左肩を矯めつ眇めつして、消毒液に浸した脱脂綿を手に取った。

 秋野は痩せ型だが、服の下は驚くほど筋肉がついている。見せるための隆起したものではないから着やせするのだ。健康診断や何かで手塚が上半身裸の秋野を見る機会はそれなりにあるが、ここまで大きな傷をつけてくるのは珍しい。

「縫うほどじゃないけど、化膿したら困るねえ。軟膏塗っとくね」

「どうも」

 手塚は明らかに人間の歯形に見えるそれをまじまじと見て、改めて眉を顰めた。噛み痕は秋野の右の親指の付け根にもあった。どちらの傷も犬にでも噛まれたかと思うひどさだが、犬の牙ならもっと深く傷ついただろうとも思えた。

「……秋野、こんな癖の悪い女の子、どこで拾った?」

 どう見ても動物ではない。それなら機械か人間だろう。後者とあたりをつけて訊ねたら、秋野は何でもない顔で首を振った。

「女じゃない、哲だ」

 てつ。

 それが何を意味するのか分からなくて、消毒をする手塚の手が止まった。女ではない。てつ? 暫し考え、ようやくこの間顔を見たばかりの錠前屋が浮かんだ。確かに秋野より小さくて細いが、そこらへんの若い子に比べたら格段に男くさい雰囲気の子だった。鋭い目つきと、落ち着いているのとは少し違う雰囲気が蘇る。

 手塚は思わず深い、深すぎるくらいの溜息を吐いた。

「かわいそうに」

「何が」

「痛い思いしたんだろうねえ」

 本気で同情しながら少し消毒する手に力を籠める。秋野はかたちのいい眉をやや顰めた。

「冗談じゃない、俺だって傷だらけだ」

 片手で煙草のパッケージを取り出した秋野が一本銜え、火を点けた。手塚はあからさまに嫌な顔をしてやったが、秋野はそ知らぬ顔で煙を吐く。お互い分かってやっているのだから、まあ儀式みたいなものなのだが。

「はい、消毒はおしまい。傷だらけって、お前さんの傷はこれだけなんだろう? まあ、深いのは確かだけども」

 秋野は煙を吐きながら瞬きし、手塚に向かってべろりと舌を出して見せた。秋野の舌にはいくつも傷があった。ざっくりと切れ、真っ赤になって腫れているものも何箇所かある。よく見てみると唇にもいくつか傷があった。錠前屋は、やられた分は──方法は違えど──しっかりやり返したらしい。

「これじゃ暫く飯も食えない」

「自業自得でしょうが!」

 手塚は秋野の肩に軟膏を塗りたくると、上から大きな絆創膏を貼りつけて思いっきり叩いてやった。

「痛っ」

「秋野くんは大人でしょ! 泣き言は言わない!」

「あのな……」

「それにしても」

 秋野は手塚を睨むと、脱脂綿を載せている医療用具の銀のトレイに灰を落とした。まったく、子供じゃないんだからと思ったが、何かの上に落としただけまだマシか、と思い直す。もっとも、秋野のことだから、どこにでも灰をばら撒いたりはしないのだが。

「お前がそんな暴挙に出るとは思わなかったねえ」

 秋野は黙って手塚に目をやった。

「いくら好きだからってね──」

「好きじゃない」

「……好きじゃなきゃできないでしょう、男同士で」

「そうか? 喧嘩の延長みたいなもんだ。するつもりだったわけじゃないし、あいつのことが好きでしたわけじゃない」

「じゃあ何でしたんだよ」

「腹が立ったから」

 秋野はしれっと答えて煙を吐いたが、手塚に言わせれば腹が立ったからって寝たりはしない。手塚はちょっと頭を抱えた。

「佐崎くんもそう思ってるわけ?」

 眼鏡を押し上げながら訊ねてみた。秋野はその問をどういう意味に取ったのか、口元を歪めて笑ってみせた。

「あのなあ、あいつがどういうやつか分かってるか?」

「まあ、何となくねえ……。確かにお前達は百年経っても恋人同士にはなれそうもないけど」

「なる気もないし、なりたくもないね」

 吐き捨てるように口にした秋野に、手塚は思わず苦笑した。

 どんな呼び方であれ構わないが、二人の間に何かがあるのは間違いないのだろう。そうでなければ、いくら腹を立てた弾みだといったって、秋野とあの錠前屋が寝るなんて無理がある。

 その関係は多分優しくも甘くもなくて、手塚には理解できないものなのだろう。

「そうだねえ……さしずめ戦友ってところなのかな」

「どっちかと言うと敵兵って感じだけどな」

 秋野は喉を鳴らして低く笑った

「どっちでもいいさ。共食いして共倒れはしないでくれよ」

 秋野の吐き出した煙が、窓を伝って上に流れる。

「食うか食われるかだ。共食いなんかしない」

 細められた目の色に、手塚は声に出さずに呟いた。

 食われるのは一体どっちか。それは何もセックスの話ではない。まったく、自覚があるのかないのか知らないけれど。お前が片足突っ込んだその淵は多分底なし。戦友と手を携えて沈んでいくも、一人這い上がるのもお前次第。

 どうでもいいができるだけ幸せになってくれと、手塚は一人胸の内で重く長い溜息を吐いた。




 秋野はシンクに吐き出した水を改めて眺めた。何度口を漱いでも水には赤い色が混じっていたが、ようやく赤い色は赤い筋にまで減り、透明な部分が多くなっていた。

「止まったか?」

 哲の声に顔を顰めながら肩越しに振り返る。哲は下着とデニムだけを穿いて、手足を投げ出して床に座っていた。銜えた煙草と唇の間から、煙突のように煙を噴き上げている。

「何とか止まりそうだ——まったく」

 喋るだけであちこちが痛む。秋野の唇と舌は、惨憺たる有様だった。秋野も以前哲の喉に痣をつけたことがあったが、ここまでひどくした記憶はない。

 痣どころか流血の大惨事というやつだ。秋野が口づけるたびに危害を加えた当人は、そ知らぬ顔で煙草をふかしている。

 秋野はもう一度口を漱いで身体ごと哲のほうに向きなおった。室内の光源は、秋野の頭上、キッチンのスペースのライトだけだ。壁際に座る哲の顔は輪郭がぼんやりと滲んで見える。

「泊まっていくのか?」

 哲は相変わらずだらしなく座ったまま煙を吐き、煙の流れと同じくらい微かに頷いた。

「ああ。もう面倒くせえから」

 照明を消すと突然暗くなって一瞬目が見えなくなる。ライトの残像と、瞳に焼きついた煙の流れ。哲の足の指の先。

「お前、そっちで寝ろ」

「何で。ソファでいいけど、別に」

 哲が喋るたびに、煙草の先に灯る小さな赤い点が上下した。

「一応お前の尻を労わってるんだ。さっさと行け」

「あ、そう」

 秋野が寝室に顎を振ると、哲はのっそりと立ち上がった。灰皿で煙草を揉み消して身体を起こし、立ち止まって秋野を見た。何の変化もない、いつもどおりの険しい瞳で。

「お前、よかったか?」

「ちっとも」

 正直に答えた秋野を束の間見つめた哲はにやりと笑い、隣の部屋に入っていった。


 実際問題、気持ちがいいとか、そういうものではなかった。快感を求めるなら女と寝るほうがずっといい。二度としたくないとまでは思わないが、またしたいと思うこともない。

 秋野はソファに腰を下ろした。肩の傷にシャツの布地が触れて痛みが走る。そこが一番ひどい傷で、右の親指の付け根も、真っ赤になって血が固まっていた。掌を目の前にかざして眺めてみる。哲の歯の感触がまだあちらこちらの骨と肉に残っていた。

 哲との肉体的な繋がりに意味はなかった。深い理由も、恋い慕う気持ちもなかった。ただ、怒りと興奮に任せて滅茶苦茶に殴るよりそちらを選んだというだけの話だ。

 ではなぜそちらを選んだかといえば、殺したくなかったからかもしれない。手に入れたいと思うが、壊したくはない。

 疲労した身体が睡眠を欲して瞼を重くする。結局、どうにもならないことなのだ、と秋野は薄れていく意識の中で改めて思う。身体を重ねても手に入れられず、手に入れたくもない。それでいい。いくら頭で考え足掻いても、解決する道は思いつかない。

 自分の皮膚を食い破る哲の歯の感触。なぜかそればかりが蘇る。組み敷かれ、秋野の一部に身体の奥を開かれながら眇められた鋭い目を半ば陶然と思い返す。

 錆の味がする哲の舌。哲の血。いや、これは俺の血か?

 混じり合う体液、吐息、体温が溶けてひとつになる。食い殺される寸前の動物みたいに身体を震わせ仰け反った哲の爪が、秋野の背に長くて深い傷をつける。

 ゆっくりと閉じた秋野の瞼の裏に、赤い色が瞬き、そして消えた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る