2

可能性のはなし

 指先が哲の肩から腕の線をなぞる。滑り下りた掌が哲の掌に合わさり、爪の先が指の腹を擦った。首筋に微かに触れる唇の感覚にぞくりとする。

 あたたかくて、やわらかい。包み込まれる快感に、腹の底からふわふわと掴みどころのない何かが湧き上がる。

 腕を伸ばして細い身体を抱き締めると、やわらかい、いい香りがした。まるで花のような、果実のような。微かに甘い香りが——。

 しているはずが。

 哲の嗅覚が捉えたのは、花の香りでも果実の香りでもなくて——煙?

 渋々目を開けると、煙草を銜えた秋野の顔がこちらを覗き込んでいた。

「……最悪だ」

 目を開けるなり身動き一つせずにそう吐き出した哲に、秋野は不思議そうに問い返した。

「何が?」

「あんたが」

「俺?」

「すげえいい夢見てたのに中断された上、朝一番に拝んだのがあんたの顔なんて最悪っつーこと……」

 ぶつくさ言いながら起き上がった哲が自身を見下ろすと、まだジーンズにTシャツのままだった。そういえば、シャワーを浴びるのが面倒でそのまま眠ったのだったと思い出す。

 頭に手をやってみると髪は寝癖であちこち突っ立っていた。多分目は充血気味、全身に昨日は酒を飲んでそのまま寝ましたと太字で書いてあるだろうな、と自分でも想像がつく。

「それより鍵閉めて寝ろって前に言わなかったか?」

 秋野が煙と一緒に溜息を吐いた。どうやらまた玄関の鍵を開けっ放しで寝たらしい。また、というか、そもそも施錠することがほとんどない。

「何度か電話したんだけどな、出ないから。携帯は?」

「携帯?」

 哲は頭を掻きながらあたりを見回したが、布団の傍にも床にも見当たらない。

「分かんねえ。その辺にあると思うけど」

「まったく」

 秋野が携帯を取り出して哲の番号を表示する。発信して少し経つと、部屋の中のどこかからバイブの振動音がし始めた。

「鳴ってんな」

「鳴ってんな、じゃないよ。探せ」

「んー……あれ? マジで見えねえけど──」

 二人して狭い部屋の中に視線を巡らせ、同時に音源に辿り着く。ブーブー喧しい鳴動は、何故か冷蔵庫の中から聞こえてくるようだった。


 哲が秋野に頼まれてある金庫の解錠をしたのは、二ヶ月ほど前のことだ。

 秋野は通称仕入屋、人間とドラッグ以外は頼めば何でも仕入れるという触れ込みで商売をしているらしい。

 ある女からの依頼を受けた秋野は、彼女が昔男に送った手紙を手に入れるのに金庫破りをする必要があった。それで、祖父の後を継ぐかたちで細々と錠前屋をやっている哲を探し当てたのだ。

 哲が解錠をするのは本業でありながらも収入面では趣味程度のものでしかなく、居酒屋の厨房アルバイトが本業だと言っていい。

 若い頃——今でも世間的には十分若いが——には喧嘩三昧、学校にもほとんど顔を出さなかったが、父親が亡くなり祖父と暮らすようになってからは喧嘩も夜遊びも止めていた。つまり、本質はどうであれ世間的に哲はごく普通、一般人の域を少しもはみ出ない。

 だが、秋野は自分とは違う、と折々に感じる。その秋野が妙に自分をかまうのが二ヶ月経った今でもまだ不思議だった。

 あの仕事の後、また何かあれば声をかけると言われた。だから、仕事があれば会うのだろうと思ってはいた。だが、秋野は仕事の有無に関わらずごく自然に哲の前に現れた。

 特別馴れ馴れしくされるわけでも、干渉されるわけでもない。会ったからと言って会話を強要されるわけでもない。一緒にいたって大して話すこともないというのに、何故か秋野は哲の生活にするりと入り込んでいた。

「ものすごく冷えてる」

 冷蔵庫を開けて携帯を取り出した秋野は手の上の筐体を見て眉を顰めた。

「何でこんなところに入れたんだ……」

「知らねえよ、俺だって」

 入れたのは間違いなく自分なのだが、覚えていない。哲は顔を擦り、こみ上げた欠伸を噛み殺した。

「あー畜生、しかし損したな」

「何が? さっき言ってた夢か?」

「そう。元カノとやってる夢みてた。すげえいい女だった」

「お前の下半身は思春期の学生か?」

「悪いか」

 秋野は仕方ないな、という風に笑って、冷えた携帯を放ってよこした。

「これから会うのは女だから、その若い下半身は置いていってくれ」

 受け取った携帯電話の冷たさにようやく記憶が甦り、約束を忘れていたことを思い出した。昨日の夜秋野から連絡があって、解錠の仕事を引き受けたのだ。

 昨夜は勤め先の居酒屋の三十周年とかで、哲のようなアルバイトも含めた宴会だった。

 居酒屋の宴会で居酒屋に行くのもおかしな感じがしたが、まあ突然こじゃれた店に連れていかれても落ち着かない。

 上機嫌で飲んでいた店の主人に「おっ、佐崎、彼女か」と型どおりの茶々を入れられながら応答したら、かけてきたのは秋野だった。まだ飲み始めたばかりの時間だったから、今の今まですっかり忘れていた。

 これも嵌めたまま眠ったらしい腕時計を見ると既に昼過ぎだ。開け放したままだった窓から差し込む日差しは強い。

「腹減った。何か食わして」

 大きく欠伸をしながら言うと、秋野は仕方なさそうに頷いた。


 二ヶ月の間に秋野が哲に解錠の仕事を持ってきたのはこれで四度目になる。最初の時の金庫のような仕事はなかったが、秋野が持って来る話はいつも少し変わっていた。

 今回の仕事は手錠を外すこと。外国人と思しき女の左手首にぶら下がった手錠は、幸いにも警察のお世話になったことがない──高校時代に補導されたことはあるが、逮捕はされていない──哲には本物に見えた。

「……まさかあんた、遊んでて取れなくなったとか言わねえだろうな」

 小声で言うと軽く蹴られた。

「馬鹿。俺がそんなヘマすると思うか」

 秋野が薄い茶色の瞳を光らせて答える。秋野は混血で、目の色からして明らかに欧米人の血が入っているが、どの人種がどれだけ混ざっているのか詳しいことは知らない。百八十五センチの長身に薄い色の瞳。普段は穏やかそうなのに、時折ひどく威圧的に見える。

「そりゃあご立派」

 蹴り返したら軽くかわされてむっとしたが、目の前に女がいるからそれ以上の攻撃は控えておいた。

「彼女、風俗で働いてるんだが、客が警察マニアだったらしくてな。どこで手に入れたのか、本物の手錠だ」

「警察マニアって……警察フェチ? いや違うか。自分が警察官になりてえタイプ?」

「じゃないのか。そうでなきゃ自分に手錠を嵌めると思うが」

「あー、まあ、そうよな」

 女は日本語が分からないらしく、黒目がちの大きな目をぱちぱちさせていた。少女のような細く小さい体に不釣合いなサイズの胸は、確かに男どもの目を惹きそうだ。

「勿論遊びのつもりだったんだろうが、彼女は日本語がほとんど分からん。本物の警察官だと思ったらしくて」

 事情は聞くまでもない。このあたりは警察とは死んでも係わり合いになりたくない、と言う外国人の数が多い。秋野自身の母親も不法就労者で、秋野には戸籍すらないらしい。

「それで彼女が暴れたもんだから、そいつはびびってそのまま逃げたってわけだ」

「そんでこのままになっちまったわけ」

「そうだ」

「これ取りゃいいのか」

「ああ」

 哲は女に近づいた。見知らぬ人間だから怖がらせるかと思ったが、女は特に警戒することもなく笑顔を浮かべて立っている。幾つくらいなのだろう、近寄ってみると、最初の印象ほど若くなかった。

 秋野が低い声で女に話しかけた。秋野の英語は流暢だったが、女のそれは哲の耳にも訛って聞こえた。女が黙って片手を差し出す。

 客が途中で逃げ出したためだろう、手錠は大きなブレスレットのように彼女の左手首に嵌まり、もう片方の輪とそれを繋ぐ鎖が垂れ下がっている。

 哲にとっては手錠を外すことなど仕事のうちにも入らない。呆気なく外れた手錠を手渡すと、女は嬉しそうに声を上げて笑い、哲には分からない言葉で何かを呟いた。


 初めて会ってから二ヶ月が経った今でも、秋野のことはよく分からなかった。いつでもどちらかというと穏やかな雰囲気で、声を荒げるのを聞いたことはない。もっとも怒らせるようなことを言ったりしたりしたわけではないので、それも当然の話ではあるのだが。

 それでも、秋野がその気になればどこまでも残酷になれるであろうことは、付き合いの浅い哲にも何となく想像がついた。光の加減で黄色や金色に見える薄茶色の目は、例え笑みを浮かべていても、そのことを哲に思い出させる。

 外れた手錠を見せてはしゃぐ女に話しかける秋野を見ながら哲は最近時折考えることをまた思った。本当の秋野はどんな人間なのだろうか、と。

 建物を出ると陽射しはより強くなっており、虹彩の色が薄い秋野は眩しそうに目を眇めた。

「哲」

 秋野から目を逸らした瞬間に名前を呼ばれ、何となく落ち着かない気分で視線を戻した。今でも秋野に名前を呼ばれると、無意識に身構えてしまう。

「金」

「金──? ああ……いらねえ」

「何で」

「あんなの何かしたうちに入んねえから」

 哲は首を振り、ついでに浮かんだ疑問を口に出した。

「大体、何であんたが俺に金払うんだよ」

「俺が依頼人だから」

「──あの子、知り合いか?」

「いや、別に。店のオーナーは知ってるが、彼女の名前は知らないし、俺はその店の客でもない」

 大した仕事ではない。だから、報酬は大した額でもないだろう。それでも、名前も知らない外国人の女のために秋野が金を払う理由が哲には分からなかった。

 この間の金庫とは違うのだ。最悪、工具を使って壊せば無駄な金がかかることもないというのに。

「知り合いでもねえなら、何であんたが俺に頼むんだよ」

「さあ。暑いな、何か飲まないか」

 秋野は哲の答えを待たず、先に立ってさっさと歩き出した。秋野の背中を黙って眺める。細身で、服を着ていたらよく分からないが多分筋肉はついているだろう。動きに無駄がなく、騒々しく音を立てることがない。

「何してる、早く来い」

 肩越しに振り返ってまた歩き始めた背中を見て、哲は小さく溜息を吐いた。秋野がどんな男なのか、そう簡単には理解できそうになかった。




「よう、あんた」

 哲が振り向いたのは自分が呼ばれたと思ったからではなかった。

 今日はバイト先の居酒屋の主人が珍しく風邪を引き、必死で頑張ったものの仕込み中に高熱でぶっ倒れるという事態が発生したため臨時休業になった。そこまで頑張ることもないだろうと思いもしたが、個人事業主は休業が収入減に直結するのだから仕方ない。まったく、金を稼ぐというのは大変なことだ。

 夕飯は大体店のまかないで済ますが、そういうわけで今夜は自分で調達しなければならなかった。仕事なら料理もするが、自分の腹に入るものに対してはまったくこだわりがない。わざわざ作るのも買って帰るのも面倒だったので、適当に飲みにでも行くつもりで歩いていた。

 人出は多いし、肩を叩かれたわけでもなかったが、真後ろで声がしたので反射的に振り返っただけだった。

 しかし、声の主は真っ直ぐに哲を見ていた。いかにも下品な薄ら笑いが、意外に整った顔に貼りついている。ジーンズにTシャツ。古そうに見えて高い、今時の格好。やや明るすぎる茶髪にピアス。哲も知っているタレントによく似た男は、ごく普通の格好でありながら、真っ当な人間には見えなかった。

「──俺?」

 身体の向きを変えてみると、頷く男の陰に隠れるように少し前に会ったあの手錠の女が立っていた。哲が目を向けると、女がおずおずと微笑む。どうやら男はこの女の知り合いらしい。

「こいつ、俺の女なんだよ。なんか、あんたが手錠外してくれたとかってさ」

 男は振り返って女に何か言う。英語はそれなりに流暢だが、間違っても優しい口調とは言えない。明らかに命令と思われる男の言葉に眉尻を下げつつ、逆らうことも言い返すこともせず、女は俯いて足早に去っていった。

「なあ、ちょっといい話があるんだよ」

 女を見送った男はテレビで見る芸能人のような顔をにやりと歪ませた。

「話聞いてくれるだけでいいから。な? 奢るから何か食おうぜ」

「いや、いらねえ」

 すぐに背を向けた哲の肩を男が掴む。肩越しに振り返ったら男は一瞬哲を睨みつけ、すぐに哀れっぽい顔になって馬鹿でかい声を張り上げた。

「なあ、あいつの代わりに礼をさせてくれよ!」


 男が渋る哲を連れて行った焼肉屋には他に客がいなかった。だが、客の有無はどうでもいい。店が繁盛していようがいまいが、焼肉を食いたい気分でもなければ、こんな男と差し向かいで食事する気分でもなかった。

 しかし男が道の真ん中ででかい声を上げた後、わざとらしく深々と頭を下げるものだから、仕方なくついてきた。

 恥ずかしいとか、男がかわいそうだと思ったわけではない。周囲の注目が集まって面倒くさかっただけだ。そういうわけで、哲は不機嫌極まりないながらも男の向かいに座るだけは座っていた。

「なあ、何か頼めよ」

「いらねえ」

「俺が奢るって言ったじゃねえか、心配すんなって。何でも食ってくれよ」

「何がいい話だって?」

 ようやく哲が興味を持ったと思ったか、男は不自然なほど満遍なく日に焼けた顔に笑みを浮かべた。いらないと言っているのに運ばれてきた哲のコップに勝手にビールを注ぐ。

「あいつに聞いたんだけどよ、あんた、鍵を開けるのが商売なんだって。なあ、すげえなあ。手先が器用ってさ、羨ましいよ」

 男は上目遣いに哲を窺ったが、哲が能面のように無表情なのを見てお追従は止めることにしたらしい。ビール瓶を置き、笑顔を引っ込め声を潜めた。

「実はさ、ちょっと、あるヤマを踏むのに色んなとこの鍵を開けてくれる奴が必要なんだよ」

 焼肉屋の店員は皆カウンターの中だ。店主らしき中年男は野球中継に見入っていてこちらの方は見てもいないのに、男はより一層声を落とした。

 説明によると、男はどうやらどこかの資産家の家に強盗に入るつもりらしかった。

「そこの家の改築工事に行った業者に俺のダチがいて、家の中のことはばっちりだ。あとは鍵さえ開けられりゃ万事解決なんだって」

「そんな仕事しようってんなら住宅の鍵の一つや二つ開けられんだろうが」

 哲が言うと男は悔しそうに首を振った。

「そりゃ、物置の鍵くらいなら開けられっけど。改築で玄関のドアも取り替えてて、そんなちゃちなのはついてねえし。それに金庫のある書斎まで鍵の掛かった扉だらけなんだ。壊して回るっつったって、朝が来ちまうよ」

「なあ、あんた」

「ああ、何だ?」

「俺は、家宅侵入はしねえんだよ。面倒くせえからお断り」

 哲は素っ気なく言って腰を上げた。二ヶ月前に無人の企業ビルに忍び入ったのとはわけが違う。おまけにヤマを踏むとか、お前は映画か小説の登場人物かと突っ込みたくなるようなことを言う奴と仕事をする気にはとてもなれない。

 男が顔を歪ませ、慌てて立ち上がろうとした。

「おい、こっちは頼んでるんじゃねえか!」

 要するに、ヒモか何かなのだろう。外国人の女に貢がせる日本人。自分は働くこともせずに女にたかる。おまけに次は強盗と来た。

「お前みたいなのに頼まれてもやる気にならねえ」

「取り分はあんたのいいように……くそ、待てよ!」

 言い募る男を残して席を立つ。店員たちは興味がなさそうにこちらに視線を投げただけで、カウンターの中に突っ立っている。

「同じ頼まれるんでもあいつとは全然違う」

 焼肉屋の引き戸を開けた哲は、我知らずそう呟いていた。


 小さな居酒屋を出て左に曲がった瞬間だった。頭上に何かが振り下ろされる気配を感じた。頭が理解する前に身体が反応して咄嗟に避けたが、それでも肩口に硬いものが打ち下ろされ、哲は思わずたたらを踏んだ。

 男を置いてさっさと焼肉屋を出た哲は、適当な居酒屋でおでんを食べてビールを一瓶飲み、女将お勧めのお茶漬けを食べ終わって出てきたところだった。腹がくちくなって眠くなりかけた矢先だっただけに、一瞬何が起こったのか分からなかった。

 身体を立て直して顔を上げると、先程の焼肉男ともう一人、こちらは異様に派手な花柄の開襟シャツを着た、明らかにヤクザまがいの男がいた。そいつが手にしているのはレンチに見える。

「こういうときは鉄パイプかバットって決まってんだよ、気が利かねえな」

 哲が言うと、先程の男が吠えた。

「お前なあ、調子に乗ってんじゃねえよ!」

 哲はうんざりして肩を落とす。自分の思い通りにならないからと言って駄々をこねるのは止めて欲しい。

「俺はあんたの話を断っただけで調子に乗ってるわけじゃねえよ。他にもピッキングできる奴なんてそこら中に掃いて捨てるほどいるだろ。そいつらにやらせろよ」

「ばーか、とっくにそうしてるんだよ」

 そういいながら男と開襟シャツはじりじりと寄ってくる。

「お前、気にくわねえから殺してやる」

 いつの間にか取り出して右手に握っているのは、お約束のナイフだ。

 哲は今度こそ本当に力が抜けた。秋野は俺の下半身が思春期の学生だとか言いやがったが、こいつらは頭の先から足の先までそれ以下だ。殺してやるとか、どの程度のつもりで言ってるんだか。

「びびってんじゃねえよ!」

 男の威嚇が癇に障って、哲は怒鳴り声を上げた開襟シャツを睨みつけた。

 不意に意識が身体から乖離したように錯覚した。開襟シャツがレンチを振りかざすようにして間合いを詰めてくるのを、どこか遠くから見ているように遠く感じる。

 高校の頃は喧嘩ばかりしていた。だが、祖父が嫌がるから止めたのだ。まったく、とは言わないが、殴り合いとはほとんど縁がなくなった。

 衝動は腹の底に押し込め、ただ漫然と日々を過ごす。祖父が亡くなっても、それでいいかと思っていた。どうやったって、時間は過ぎていく。黙って息を吸っていたって、いつの間にか日は暮れる。

 このまま自分を抑えていたって、生きていくことはできるのだから、と。

 街灯がレンチを照らし、雑な塗装がどこかやわらかい光を放つ。ここにはいない誰かの目が黄色っぽく光るように、密かに、淡く。

「……まあ、もう、いいか」

「ああ⁉ 何一人でぶつぶつ言ってやがんだよ!」

「じゃあ、久しぶりに運動すっかなあ」

 哲は指を組んで手首を回し、両足に力を入れてアスファルトを踏みしめた。




 秋野は哲に会いに来たわけではなかったようだが、さすがに見逃してはもらえなかった。

 左目の横には大きな絆創膏。唇は何箇所か切れ、両手も絆創膏とガーゼだらけの姿はスーパーの中では異様に目立ったようだから、まあ仕方ない。

「哲?」

 オレンジ色の買い物カゴにネギの束を突っ込んでいたら、秋野の声がした。振り返ったら、カートを押すばあさんが目の前を通り過ぎ、その向こうに秋野が立っていた。

「……よう。なんであんたがスーパーの野菜売り場にいるんだよ」

「俺だって飯くらい食う──それより何だ、それ」

「ネギに決まってるじゃねえか。親父さんが仕入れの量間違って、足りなくなるかもしれねえから念のため買い出しにきた」

「いや、そうじゃなく」

「そう言えばあんた、ネギも仕入れんの?」

 ふと思いついて訊いてみたら、秋野は真顔で頷いた。

「お前の頼みなら」

「あっそう。じゃあ次はあんたに電話して頼むわ」

 用事はなかったから立ち去ろうとしたが、秋野は哲の後についてきた。

「ネギはどうでもいい。その怪我」

「ああ、ちょっと絡んできた奴がいたんで、ほんの少し相手しただけだって」

「それにしては怪我が多いだろ」

「いやそれが、マジで久し振りだったんで、情けねえことに勘が鈍くなってて」

 つい笑った哲の顔を見て、秋野は形のいい眉を寄せた。眉間に刻まれた深い皺にどういう意味があるのかは分からない。

「勘って、お前」

「そんで途中から愉快な仲間たちも湧いて出てきたもんだから」

「何だって?」

「最後にはなんか色々思い出してもうアレだったんだけど……ってんなことはどうでもいいか。この間の手錠の子いたろ? あの子の男っていうのとお友達がちょっとな。つーかよくねえぞ、あれは。ああいうのと付き合ってたら、女もいずれ痛い目に遭うと思うけどな」

「……」

 やや長すぎる沈黙の後、秋野は突然哲のカゴに手を突っ込むと、ネギを掴んで野菜の棚にきっちり戻した。


「親父さん、ネギがなくて泣いてるんじゃねえかなあ」

 そう言いながらも、哲は呑気に煙草を吸いつけ、煙を吐いた。

 実際は、哲の怪我に驚いた店主にもう帰っていいと言われていた。自主的な買出しだったし、ネギも在庫で間に合うかもしれない。間に合わなければ何かで代用するだろうから、特別差し迫った問題があるわけではなかった。

 秋野に引き摺られるようにして部屋に戻された哲は、仁王立ちの秋野に昨日の顛末を事細かに語るはめになった。哲にしてみれば終わったことだし、向こうは哲の何倍も酷い目に遭ったのだからもうどうでもいい。

 だが、秋野の気持ちも分からないではない。他人に迷惑をかけたと思えば気にするのは当然のことだろう。

「──不用意にお前に頼んで悪かったな」

「別に。終わったことだし、そんな謝られるようなことじゃねえっての」

 煙草を挟む哲の指を、秋野の薄茶の目が追う。長い睫毛に縁取られた虹彩の色が、光の当たり加減で微妙に色を変えるのが不思議だった。

「指が折れたら仕事にならないだろう」

「あ? ああ……」

「錠前屋じゃなかったら、お前には何も残らん」

 はっきり言う秋野に思わず苦笑した。親しいわけでもないのに、どこまでも遠慮がない。

「だけど折れてねえし」

「可能性のはなしだ。折れてたかもしれないだろう」

 秋野の手が伸び、指の長い大きな手が哲の側頭部から頬を包んだ。

 金縛りに遭ったように筋肉が言うことを利かない。触んな、と言って振り払えばいいだけなのに、なぜかそれができなかった。秋野の目は、その手と同じだけの力を持って哲のすべてを押さえつけた。

 哲の右手の煙草から灰がぽとりと床に落ちる。秋野は哲の頭蓋を掴んだまま、長い間、ただ哲を眺めていた。 



 何も言わずに出て行った秋野が何をしにどこへ行ったのか、哲は知らなかったし、知りたくなかった。

 焼肉男とその仲間たちは、哲に負わされた怪我などかすり傷だと思うような目に遭うのかもしれない。秋野の双眸を思い出し、哲はぶるりと身震いした。

 やはり、秋野がどんな人間なのかよく分からない。見知らぬ外国人の風俗嬢に優しい秋野も、哲の右手を大事にする秋野も。

「……可能性のはなし、か」

 哲は床に落ちた白い灰を見つめて呟いた。

 可能性ならいくらでもある。哲は指先で床の上の灰に触れた。それはまるで雪片か埃か甘くやわらかい夢のように、儚く崩れ、細かく散った。

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