8

まほうつかいの杖

 耀司からの電話は、それはもう楽しそうだった。

「哲? いやあ、これは哲に絶対教えないと、と思って。ええ? 違うって、聞けって。秋野が風邪ひいたんだよー。え? だってあの秋野がさ、熱で唸って……そうそう、マジで! 頼むから見に行ってくれ、面白いから‼ あ、うん。うん、うん。じゃあ、またなー」


 乱れた髪に伸びた無精髭が、秋野を妙に男臭く見せている。元来精悍で男らしいほうだが、普段は、こんなくたびれた雰囲気は感じられない。思わず吹き出しかけた哲を睨んだ秋野は「耀司め」と呟き、よろよろと部屋に戻った。

 長い手足はだらりと力なく垂れ、目の下が薄青く隈になっている。穏やかに見えて時折獣並の迫力を振り撒く薄い色の瞳も、今日はまったく威圧感がない。

 それでも煙草を銜えているのには呆れつつ、哲は笑顔を全開にして秋野の背を強く叩いた。

「いやー、風邪だって! 仕入屋! さすがのあんたも病気には勝てねえなあ」

 うっ、と呻いて背を丸め、秋野はしわがれた低い声を絞り出した。噛み締めた顎の隙間から漏れてくるような声は、いつもとは違う意味で迫力がある。

「吐くぞ、叩くな」

 哲は慌てて秋野から手を離し、一歩下がった。秋野は哲を力ない目つきで一瞥した。銜え煙草のフィルター部分を噛みながら床に座り、ソファの座面に頭を預ける。

「いや、ほんとに参った。きつい」

「熱と、何? 胃に来てんのか」

 吐く、と言うから訊ねてみる。秋野は僅かに顎を動かした。頷くだけの動作も億劫そうだ。

「腹に来てないだけマシだけどな」

 目を閉じたままの顔を観察してみる。元々顔に肉はついていないが、心なしか頬がこけたようにも見えた。あまり真剣に眺めたことがなかったが、もしかしてこいつはひどく端正な造作をしているのではなかろうか、と今更なことも頭を過った。

「食ってんのか、ちゃんと」

「食えるか……食ったら全部戻すし、吐けば体力消耗するし」

 この状態を面白いと笑える耀司も大したものだ。哲は秋野の床に投げ出された脚を爪先で突っついた。珍しく裸足の秋野の足の甲に、太い血管が浮いている。

「こんなとこに転がってねえでベッドに行けよ」

「ああ」

「治るもんも治らねえぞ」

「ああ」

「俺はいい男だよな」

「ああ」

「聞いてんのか!」

 秋野は薄目を開けてまた面倒くさそうに頷いた。

「ちゃんと聞いてる。お前はいい男だ。俺が保証する。嫁に来い」

「熱が脳まで達してるぞ、あんた」

 哲は大きな溜息を吐いて秋野の口から煙草を取り上げた。どうせふかしているだけで肺には入っていなさそうだ。煙草を銜え、よっこらせ、と言って立ち上がる。秋野の腕を掴んで無理矢理上に引っ張り上げた。

「床を引き摺られたくなきゃ歩けよ、仕入屋」

 不機嫌な獣のように低く耳障りな唸り声を上げたものの、秋野はのろのろと腰を上げた。


 秋野をベッドに放り込んだ哲は暫しその場に突っ立って思案した。何か食わせた方がよさそうだが、胃が何も受けつけないという。点滴が一番いいのだろうが、あの調子では病院に行くなんて嫌だと駄々をこねるに決まっている。

「そういや保険証なんかねえんだよな、きっと」

 一人ごちながら冷蔵庫を覗いてみたが、案の定大したものは入っていなかった。僅かな食材の他に目につくのは、ビール、牛乳、ミネラルウォーターがたくさん。

「水分だけで生きてんのか、あの男は……」

「固形物も食うぞ、普段は」

 哲の独り言に律儀に返事が返ってきた。

「うるせえな、黙って寝ろ」

 まったく、地獄耳で面倒くさい。哲はぶつくさ言いながら秋野を残して部屋を出た。


 買い物袋を提げて戻り、寝室を覗いたら秋野は眠っていた。そういえば寝顔を見るのは初めてだと思いながら額に触れる。苦しそうに眉間に皺を寄せているところを見ると、やはり熱があるようだった。

 しかし、触っただけで高熱と分かるほどには熱くない。汗もかいていないようで皮膚は乾いている。熱が上がりきらないから却って治りが遅いのだろう。こもった熱は長引くものだ。

 作り置きできて、吐かずに飲み込めそうな食い物といえば雑炊か、と考えながら秋野に背を向ける。一歩踏み出しかけたところを後ろに引かれてつんのめりかけ、見下ろしたら秋野が哲の手首を掴んでいた。長い指には力があるが、顔色は青白い。先ほどまでどんよりとしていた薄茶の瞳は、熱のせいか妙にぎらついて見えた。

「一応食う物買ってきてやったぞ。何か作って行くから」

「食いたくない」

「食わねえと長引くぞ」

 そう言って手首を捕まえる指を振りほどこうとしてみたが、離れない。

「秋野」

 名前を呼んだら秋野の目が満足げに細められた。

「おまえ、なあ」

 口に出した瞬間何かが神経に引っかかり、そうしてすぐに思い至った。あんた、と呼んでいたのだ。ついさっきまで。

 秋野は同じように哲の言葉に気が付いたのか、唇の端を曲げて笑った。顔色は相変わらず病人のそれ。だが、面白がるような表情が浮かんだ瞳の表情は、一瞬前とは確かに違う。

「さっきまで死んだ魚の目だったくせに、何なんだ」

「お前がいると興奮する」

「阿呆」

「絵に描いたような顰め面だな」

「うるせえな、誰のせいだよ」

 更に眉を寄せた哲を見つめて笑い、秋野は短い溜息を吐いた。

「食いたくない」

「わかったよ、まったく」

 哲は手首を取られたままベッド脇の床に座り込んだ。

「寝るまでいてやるから、早く寝ろ」

「見られてたら眠れない」

「うるせえ、眠れったら眠れ」

 秋野は髭面を緩め、ゆっくりと握った指を開いて哲の手首を解放した。

「冗談だ、帰ってくれ。わざわざすまん」

「大丈夫か?」

「ああ。死にそうになったら電話するよ」

「そん時は面倒だから死んでくれ」

 秋野は犬猫でも追い払うように手を振って、さっさと帰れと促した。



 ドアの閉まる音がする。そして、シリンダーの回る音。錠前屋は便利だ。合鍵なんてものは必要ない。

 秋野はうつらうつらしながら、つい埒もないことを考えた。まほうつかいの杖が欲しい。子供の頃耀司と読んだ海外児童文学に出てくるような便利なやつが。それを一振り、そうしたらこんな風邪はすぐに治るに違いない。

 朦朧とした頭でどうでもいいことばかり思いつく。

 本当に使えるなら、風邪を治すより虎になってみてもいい。黄色くて、でかくて強くて残忍な。

 そうして哲をばりばり噛み砕く。

 骨まで。すべてを。

 

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