雨上がれば虹

 訪れてみると、哲の部屋のドアには珍しく鍵がかかっていた。哲のアパートはボロアパートという呼称がぴったりな建物で、ドアホンなんて立派なものはついていない。昔懐かしいチャイム──ご丁寧に音符のマークがついたボタン──を押したら、誰何の声もなく、突然ドアが開いた。

「ああ、あんたか」

 風呂にでも入っていたのだろう、哲は濡れた髪をタオルでいい加減に拭きながら秋野に背を向けた。ドアを開けはしたが、秋野が入ってこようがどうしようがどうでもいいらしい。哲が通った後に点々と水滴が落ち、まるで光る小石が繋がったように細い道を作っていた。

 上がり込んだ秋野を振り返った哲は、数秒黙ってこちらを眺めていた。

「余計なことして悪かったな」

 別に責めに来たわけではなかった。謝罪してほしかったわけでもない。哲はさっさと立ち去ったから、なぜあの場所に現れたのか、そしてどうして芝浦を知っていたか訊けなかったから足を運んだまでだった。

 もっとも、後半に関しては想像がつく。先輩といったからには中学か高校の先輩なのだろう。確か高卒だと聞いたことがあるから、そうでなければバイト先か以前勤めていた職場か何かの先輩か。芝浦もすぐに思い当たったふうではなかったから、中学高校の線が濃厚だ。

 結果として助けられはしたが、感謝する気持ちはない。もし逆の立場なら秋野も同じことをしたかもしれないが、それでも。

 哲は狭い部屋の床に胡坐を掻いて目の前に立ったままの秋野を見上げた。

「突っ立ってねえで座れば」

 秋野は哲の向かいの床に腰を下ろした。座れといったくせに哲は秋野には関心がなさそうにタオルで髪を拭いている。

「お前、芝浦と知り合いなのか」

「あ?」

「三度目はないってことは、二度目なんだろう」

「ああ、知り合いっつーか、高校の先輩だってよ。俺は全然思い出せなかったけど、なんか喧嘩したことあったみたいで」

 あまりにも哲らしい言い種に思わず笑う。

「そうか。俺と揉めてるってことは、誰から聞いた?」

「知り合い。たまたま耳に入っただけ」

 秋野は頷きながらも、哲から視線を外さなかった。哲は僅かに決まり悪げな顔をした。その顔からは反省も後悔も読み取れないが、少なくとも余計な手出しだったという自覚はあるらしい。

「あんたのほうが余程きれいにやったんだろうし、別に俺は」

「きれいに?」

 秋野を見つめる哲の目に、男を殴りつけているときの凶暴な目の色はない。年齢以上に老成していて、寡黙でもないが饒舌でもない。まるで飢えた野犬のように歯を剥き唸る哲と普段の哲はひどく遠いようでいて、実際は同じなのだと強く感じた。

「傷も残さねえで、徹底的にやるんだろ」

 どこかで見ていたように確信をもって口にされ、曰く説明しがたい苛立ちが襲ってきた。そして、喉が詰まるような感覚と。哲が軽く眉を上げて秋野を見る。秋野は咄嗟に哲の濡れた前髪に手を伸ばした。

 鷲掴みにして強く引く。秋野の動きを予測していなかっただろう哲は、引っ張られるまま呆気なく床に転がった。

「痛えな、何すんだよ」

 眉間に刻まれた深い皺。見上げてくる目にはごく僅かな怒りの色が見えたが、それ以外には何もなかった。

 右手を哲の顎の下にかけて力を籠める。哲の唇が薄く開き、怪訝そうな表情が浮かんだが、抵抗はなかった。秋野の右手がゆっくりと圧力を強めていくと、哲の顎が上がり、呼吸が浅く速くなった。

 掌で感じる脈動は強く、速くも遅くもなく規則的だ。自分の身体から何かが剥がれ落ちてゆく音を聞く。乾いた何かが崩れ、はらはらと舞い落ちる。哲の喉から隙間風のような音がする。このまま押さえつけていたら、自分の中の何かが剥き出しになってしまうだろう。

 手を、離さないと。

 哲の口から立て続けに笛のようなか細い音が漏れる。自分の意思とは遠いところで動く右手の指。

 離したくない。

 捕まえていたいのは、握り潰したいのは、何なのか。秋野にはよく分からなかった。



 手が離れた途端、哲は俯せになって咳き込み始めた。吐き出すことはできるのに吸い込めない様子で、苦しげに喉を掴む。か細い喘鳴が響き、哲の両目から涙が溢れ出した。

 呼吸困難に陥った肉体の当たり前の反応だ。感情の入っていない生理的な涙に心が動かされることはない。黙って眺める秋野の前で苦し気に息を吐き、何度目かの挑戦でようやく息を吸い込むことに成功した哲は、ゆっくりと顔を上げた。涙で濡れた頬を手の甲で無造作に拭う。

「やべえ、今虹色になったぞ、目の前が」

 哲はひどくしゃがれた声で、何ごともなかったようにそう言った。秋野が元凶だというのに、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに煙を吸い込む。またひどく咳き込んだがそれでも煙草を置こうとせず、治まったと思ったらまた吸い付ける。

 片膝を立て、背中を丸めて軽く咳をする哲に一体何を求めているのか。自問自答してみたが明確な答えは浮かばず、秋野はふと思い浮かんだことを口にした。

「雨上がれば虹、だったな。子供のときは」

「──何だって?」

 哲が訊き返す。秋野は哲の視線をとらえて繰り返した。

「雨が上がれば虹が出るって、昔は信じてた。必ず出るわけじゃないのにな」

 哲の目の縁は赤く染まり、目尻は涙で濡れたままだ。瞬きする度に睫毛が目尻に貼りついて、重たそうに持ち上がる。潤んだ目が、杏子が哲を譬えた野犬という言葉を思い出させた。

「あの頃は何でも単純だった」

「俺は今でも単純だぜ」

 哲は手を伸ばし、秋野の口に吸いかけの煙草を突っ込んだ。哲が銜えていたせいで微かに湿った感触がする。だが、不快だとは思わなかった。秋野はフィルターを強く噛み、深く息を吸い込んだ。有害なものが身体に入るのだと分かっているのに、そうせずにはいられなかった。




 数日後、海外有名画派の展覧会から一点の絵画が盗難にあった。それは誰もが知る巨匠ではないながらも名の知られた画家の作品で、その作品群の中では特に秀逸とされた一点だった。

 必死の捜査が行われたということだったが、国内外の監視を知ってか、その後もオークションに掛けられたり、人知れず売買されることもなかった。

 持ち主——非合法ではあったが——はもとよりそれを金に換える気などなかった。残り少ない人生を愛する絵画と妻とともに、静かに、そして穏やかに送りたいというのが彼の望みだったからだ。

 最近部下の一人が酷く落ち込んでいると聞いたが、慰めてやる気にはなれなかった。大方、また彼の妻に嫌がらせをして何倍にもして返されたのだろう。部下は彼がそれを知らないと思っているようだが、甘い甘い。

 彼は件の絵画の額縁を愛し気に撫でながら、妻の顔を思い浮かべた。確かに老い先は短い。だが、あとどれくらいと数えられるほど短くもないと思っている。まだまだ、できる限り身も心も健康でいなければ。妻には私が必要なのだから。

 朽ちかけた小屋と木立、雨上がりの空に薄くかかる虹。美しい絵を眺めながら、彼は、彼の愛するものたちを想い、ひっそりと微笑んだ。

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