捧ぐ歌

 哲がその道を通ったのは偶然だった。

 もしも煙草がなくならなかったら。そのまま真っ直ぐ帰っていたら。後にそう思うこともあったが、そのときの哲はただ漫然と煙草の自販機を探して脇道に入った。

 何の変哲もないその通りは、何かの建物の出入口に面しているらしく意外に人の出入りが多かった。しかし、学生が楽しそうに歩いているとか、観光客がいるとかいうふうでもない。よくよく見ると、強面ばかりだ。もしや、と思いながら何気に顔を上げると、こちらを見つめる男と目が合った。

 男は絵に描いたような「やっぱり」という顔で軽く手を上げた。以前会ったことのあるヤクザ、キツネ顔のおっさん。確か名前はナカジマだった。


「よう、錠前屋の小僧じゃねえか」

 ナカジマは細い目を更に細くして哲の肩をばんばんと叩いた。そういう顔をすると神社のお稲荷さんにそっくりだ。もっとも哲はお稲荷さんの実物を見たことはないのだが。

「いやあ、その節は世話になったな」

 笑顔で肩を抱かれても、懐かしくもなんともない。脇田はどうした、と口にしかけて思い止まり、やっぱり訊きたい衝動を何とか耐えた。万が一山の中とか海の中とか言われたら、脇田を知らない哲でもさすがに気が重くなる。

「ここ、あんたんとこの事務所?」

 こちらに裏口を向けて立っている建物を指すと、ナカジマは頷いた。

「そうだよ。坊主はこんなとこで何してんだい」

「煙草切れて、自販機探してたら」

「おーおー、そうよな。あっちの通りにはねえんだもんな。そこの角曲がれ。右手に薬屋あって、そこにある。薬と煙草売って儲けてるなんざ、ちょっとどうかと思うがね」

 どうも、と頭を下げ歩き出そうとしたが、ナカジマの手がまだ肩を押さえていたから立ち止まった。

「なんだよ、おっさん」

「中嶋っていうんだよ、おっさんじゃねえって」

 言いながら、ナカジマは哲に顔を寄せ、声を潜めた。

「わざわざ知らせてやるほど俺も親切じゃねえけど、まあ、せっかく坊主が目の前にいることだしなあ」

 そう言ってナカジマは哲の背中を押した。事務所だというビルの裏口から少し離れた道端に移動し、そこでようやく哲から手を離した。

「お前さん、芝浦しばうら文則ふみのりって知り合いはいねえか」

「……知らねえ。多分だけど」

 どこかで聞いたことがあるような気もするが定かではないし、少なくとも友人ではない。

「お前さんよりちょっと上なんじゃないかねえ。地元じゃ結構有名なチンピラらしい」

「おっさんの知り合い?」

「いや、ウチにも他んとこにも繋がりはねえだろう。で、そいつが仕入屋の兄さんにちょっかい出すって息巻いてるぞ」

 哲は目だけ動かしてナカジマを見た。どういう目つきだったのか、自分では特別な何かがあったとも思わなかったがナカジマはおかしそうに笑った。

「やっぱりなあ。お前さん、貸しを作りたいなんての、ありゃ嘘だろう」

「別に、嘘じゃねえよ」

「大人をなめんなよ、坊主」

 ナカジマはそう言って拳で軽く哲の肩を小突き、人間を化かそうとするキツネのようににんまり笑った。

「それで、続き聞きてえかい?」


 ナカジマと別れ──というか解放され──無事に煙草を買った哲が電話を掛けた相手は、先日再会した同級生の猪田いのだだった。

「もしもし、哲?」

 猪田は明るい声で電話に出た。

「いやー、この間はどうもなー」

「ああ」

「そのうち連絡しようとは思ってたけど、あそこで会えて手間省けたし。ていうか、お前ちゃんと部屋に戻れた?」

 哲はアルコールには強くてあまり酔わないが、猪田と会ったときは結構酔っ払った。飲みすぎたせいもあるし、二軒目の居酒屋の酒が安物だったせいもある。

「いや、知り合いん上がりこんで吐いてたらしいけど、あんまり覚えてねえ」

「相変わらずだなあ……滅多に酔わないくせに、酔ったらなんか面白いことになるもんな、哲」

 猪田と飲んで酔っ払ったことは少ないが、一度もないわけではない。哲自身はいちいち覚えていない過去の行状も猪田は覚えているらしかった。

「うるせえよ。それよりお前、芝浦文則って誰か知ってる?」

「しばうら、しばうらしばうら……あー、あれかな? あの二個上の、てか哲のひとつ上の、おっかねえやつのこと?」

 何となく聞き覚えがあると思ったが、やはり耳にしたのは高校時代らしい。祖父と暮らすようになってからの哲は、とにかく祖父が嫌がるから、揉め事や喧嘩を避けていた。

「俺全然覚えてねえんだけど、どんなやつだ」

「確か親父さんがどっかの会社の偉い人だとかいって、親からもらった金で遊び歩いてたって聞いたけど。まあ、高校生レベルで遊んでたっていっても高がしれてるけどな。ガタイもよくてなんかねちこい感じの先輩」

「分かった、どうもな」

「いや、哲、哲! ちょっと待てちょっと」

「何だよ」

「変わってないなあ、哲」

 電話の向こうで猪田が笑った。

「愛想も何もねえんだからもう」

「お前相手に今更愛想振り撒いてどうするよ。切るぞ」

「いや、だから待てってば。お前俺より物覚え悪いよな」

「何が」

 哲は特に意味もなく空を見上げて立ち止まった。空といっても広く高く、とは言い難い。薄く雲がかかった空は低層とはいえビルに切り取られてあちこちが欠けている。

「俺、今思い出したけどさ」

 耳の中で猪田の声がする。

「哲、高校のとき喧嘩でシバウラのこと病院送りにしたって。お前が言ったわけじゃなくて、誰かから聞いた話な。多分俺と同じクラスになる前の話だと思うから見たわけじゃないけど……覚えてねえ?」

「全然。切るからな」

「ちょっと、哲」

 通話を切って、哲は小さく溜息を吐いた。もし猪田の記憶が正しいなら、同じことをまた繰り返すことになるのだろう。

 なんだか馬鹿らしい気分になったが、どう思うにせよ、やることも結果も多分変わらないことを疑ってはいなかった。




 秋野は、杏子が動向を気にしていた芝浦という取締役のことはほとんど気にしていなかった。どれほど杏子を邪魔に思おうと、ヤクザでもない一般の会社員が物騒な連中を雇うとは考えにくかった。

 確かに岩倉画廊には色々噂もあるが、それはあくまでも入手や売買方法の話であって暴力的な噂ではないし、ヤクザと繋がっているという話も聞いたことがない。

 絵画マニアか、美術品を投資目的で所有するヤクザが買い手にいるということもないとはいえないが、少なくとも秋野の耳には入っていなかった。

 まあ、来たら来たときに対処すればいいだけだ。秋野自身はどうでもいいと思っていたが杏子はかなり心配し、タクシーで家まで送ると言い出す始末だった。いくら薄暗くなってきたとはいえ暗闇ではないし、そもそもどんな相手でも撃退できる自信があるからと説き伏せた。

 下手したら部屋にも乗り込んできそうな勢いだったが、あの勢いのまま襲われても心底困る。杏子が——かなり渋々ではあるが——納得したときは本当にほっとした。いくら杏子がいい女で魅力的でも、人のものに手を出す趣味はないから仕方がない。仮に岩倉の同意があったとしても、二年前とは事情が違う。

 溜息を吐きながら部屋に向かう角を曲がると、目の前に男が立っていた。身長は秋野とそう変わらないが、もっとがっしりしている。

「お前が仕入屋とかいうふざけた名前のやつか?」

 秋野は酷薄そうな薄い唇を歪めて言う男を上から下までわざと無遠慮に眺めてやった。男は案の定むっとした顔をしたが、人違いだったときのことでも考えたのか、特に何も言わなかった。

 服の生地を押し上げるこれ見よがしな筋肉がついた身体だった。胸板は厚く、腕は驚くほど太い。サイズが合っていないのか、敢えて小さめなものを選んでいるのか、ジャケットの肩や腕は今にもはちきれるのではないかと心配になるくらい突っ張っていた。

 太い片腕はジャケットの中にいかにも不自然に隠されている。ナイフかな、と呑気に考え、それにしてももう少しうまく隠せないのだろうかと余計なことが頭を過った。まあ、この手のやつらは刃物でも持ってないと気合が入らないのだろう。

 いかつい輪郭と薄い唇に不釣合いな二重の目は黒目がちで、どこか可愛らしさすら感じさせる。そのせいなのか、風貌全体を見るとなぜか意地が悪そうに見えた。

「どちら様ですか」

「芝浦、親父が岩倉画廊の役員なんだ。知ってんだろ? お前、親父に迷惑かけてる女に色々と用意してやってんだってな」

「さあ? 君のお父さんとは面識がないので」

 男──芝浦はどこか得意げな様子だったが、秋野の答えに眉を寄せ、苛立たしげに足を動かした。

「面識なんかあるわけねえだろうが、でめえみたいなチンピラによ」

 そう言い様、芝浦は秋野の手を掴んだ。避けることもできたし、掴まれてから振り払おうかと思ったが、いくら人気がなくても道の真ん中で揉める気はなかったから力は入れなかった。騒ぎを起こして運悪く通りかかった善意の人間に通報でもされたら面倒くさい。

 芝浦は存外に素早い動きで秋野を引っ張り、腕を捻り上げた。振り払ってやりたい衝動は抑え、芝浦の促すとおり黙って歩く。

 このあたりは寂れているから、人通りも少ない。この男の父親がどこから秋野の住所を探し出したか知らないが、襲いやすくて喜んだだろう。何せつぶれた工場や空きビルには事欠かない。芝浦の足の向かう方向に見える廃業した無人の工場に目をやって、秋野は深い溜息をついた。

 使うのが楽しいのか、芝浦が必要以上に押し付けてくるナイフの先が、ジャケットを通して背中を刺すのが不快だった。痛いわけではないが、癇に障る。杏子を訪ねるのにジャケットを着たのを少しだけ後悔した。芝浦のものと違って身体にぴったり合ったそれは、着心地はいいが暴力を振るうには適していない。

 もっとも、ジャケットを着ていようがいまいが、この程度の男くらい、秋野にとっては子供とたいして変わらなかった。今すぐ地面に叩きつけ、二度と立ち上がれないようにすることも簡単にできる。

 だが、杏子のことがあるからそういうわけにはいかなかった。杏子は秋野を会社に呼ぶことを隠してはいなかった。人の出入りが多いから、部外者が客としてやってきても誰もおかしく思わないのだ。

 内容はともかく仕事の話だし、隠れて会ったわけでもないとなれば、社内の人間だって秋野を目にしているだろう。その中に芝浦子飼いの社員がいるのは自明のことだ。その秋野が下手にこの男を痛めつけたら、それはそれで杏子潰しのネタにされるに違いなかった。

 そちらは解決策がないというわけではないが、それよりやる気満々の息子をどうするのが一番いいか。ぼんやり思案中の秋野を恐怖に言葉もないと判断したのか、芝浦はすっかりご機嫌だ。

「殺しはしねえから安心しなよ。ま、暫くは入院でもしてもらうかな」

 いきなりナイフの柄で後頭部を殴られた。それほど強くはなかったが思わず首を捩じ曲げ芝浦を睨みつけると、芝浦は怯んだように思い切り身体を引いた。ひどく怯えた自分に気付いたのか、急激に頬を紅潮させた芝浦は秋野の肩を掴んで向きを変えさせた。

「何だよ、その目はよ‼」

 裏返った声で叫んだ芝浦が、ナイフの柄を秋野の鎖骨に叩きつけた。硬いプラスチックが鎖骨にぶつかり、さすがに目の前に光が散った。いい加減大人しくしているのも頭にきて肩を掴む手を思い切り振り払った途端、なぜか芝浦が身体ごと倒れこんできた。

 力の抜けた男、しかも芝浦のように筋肉が多い男はやたらと重い。意識を失っているのか、自立していない状態だったら尚のことだ。支えきれずに芝浦もろとも仰向けに倒れ込んだ。地面は踏み固められた土の部分で、アスファルトの上でなくて幸運だった。

「何なんだ、一体」

 秋野の上に覆いかぶさって呻いている──どうやら意識はあるらしい──芝浦を押しのけようと手をかけた途端、今度はその突然重さが消えた。身体を起こすと、煙草を銜え、芝浦の首根っこを捕まえた哲がそこに立っていた。


 哲は秋野から引き剥がされ、膝立ちのままの芝浦の胸倉を掴み、きれいな右フックを叩きつけた。二度、三度と拳が打ち込まれ、陽の落ちた工場跡に苦痛の声が響き渡った。銜え煙草のまま無言で拳を振り下ろす哲の顔には相変わらず表情がない。

「なんだあぁ、てめえぇ」

 哲にシャツを掴まれたままの芝浦が鼻を押さえて弱々しく声を上げた。くぐもった声は必死で威嚇しようとしているにもかかわらず哀れっぽい。指の間から真っ赤な血が垂れ、手の甲を伝ってひどくゆっくり流れていく。

 哲は何も言わず、また拳を振り上げた。今度はなんとか顔を背けて辛うじて鼻に当たるのを避けた芝浦が右手に握り締めたままだったナイフに気がつき、雄叫びとともに太い腕を大きく振りかぶった。

 秋野が警告する間もなかった。もっとも、一体誰に何を警告しようとしたのかはよく分からない。哲が刺されると思ったというよりは、芝浦に無駄なことは止めろと言いたかっただけかもしれなかった。

 哲の右膝が芝浦の横っ面にめり込んだ、勢いで首が捩じれ、衝撃でナイフが地面に落ちて滑る。哲が芝浦の胸に蹴りを入れると、芝浦は堪らず横向きに転がった。哲は片足を胸に乗せたまま屈んでナイフを拾い、倒れた芝浦の上に馬乗りになった。

 タイヤが軋む音に首をめぐらせると、少し向こうの路地にタクシーが停まったところだった。ドアが開いて女が下りてくる。小走りで近づいてきたのは杏子だった。杏子は遠くから秋野を見て安堵した様子を見せたが、地面に転がる芝浦とその上に跨る哲を認めてぎょっとした顔で立ち止まった。

 哲は拾い上げたナイフの刃先を、芝浦の前歯の隙間に思い切り押し込んだ。芝浦が抵抗している暇もない。大きく開いたままの口から、しかしそのわりにか細い悲鳴を上げた芝浦は脚をばたつかせた。杏子が息を飲む鋭い音がここまで届いて気がついた。あたりはやけに静かで、聞こえるのは芝浦の声だけなのだ。飲み屋街の喧騒もここまでは届かない。

 ただ、ずっと耳の奥で何かが鳴っているような気がして頭を振った。僅かなノイズのような、空気の振動のような音。正体が分からないままぼんやりと耳を傾けていたら、哲が短くなった煙草を芝浦の顔すれすれ、地面に吐き出した。

 顔を背けようとしたが叶わなかったか、芝浦の顔は僅かに動いただけで動かない。芝浦の耳のすぐそばに落ちた煙草から細く煙が立ち上り、まるでからかうように頬を掠めて這い上がる。

「これ以上歯に隙間増やしたくねえだろ。大人しくしてろ」

 哲は左手で男の顔を荒っぽく掴み、ぐいと自分の方に向けた。

「いいか、お前も、お前の親父も、二度と仕入屋に関わるな」

 芝浦が顎を震わせた。返事をしたいのか、それとも悪態をつきたいのか、見ているほうには分からない。

「コンビニで偶然レジの同じ列に並ぼうが、道ですれ違おうが、許さねえからな」

 哲の手が離れ、芝浦が開けっ放しの口からしわがれた声を絞り出す。

「ほんな、むひゃな」

 前歯にナイフが挟まっているから上手く喋れないのだろう。歯茎に血が滲んでいる。

「黙れ、刺すぞコラ」

 哲のドスのきいた声と恐ろしい形相に、芝浦はナイフの刃を銜えたまま、激しく首を縦に振った。

「こいつの近くでてめえのそのツラ見かけてみろ、その場で首をへし折ってやる」

 歯を剥き出して唸る哲の言葉に、芝浦は流れ出した涙と鼻血で顔をぐしゃぐしゃにしながら何度も頷いた。

 身体を起こした哲は、いきなり芝浦の歯の間から刃先を引き抜き、腕を高く振り上げた。

「お、ああああっ」

 芝浦の甲高い叫び声が響き渡る。

 金属が空を切る音。

 大した速さでもない。それでも芝浦が刺されたと思ったのは、振り下ろされる腕に──瞬きしない哲の瞳に、ひとかけらの迷いも見えなかったからに違いなかった。

 哲が振り下ろしたナイフは、芝浦の耳の皮一枚と吸殻を犠牲に、地面に垂直に突き立っていた。芝浦は目を見開いた状態で固まっている。哲は転がった身体を跨いで立ち上がり、低い声で吐き捨てた。

「──三度目はねえぞ、芝浦先輩。覚えとけ」

 身体を起こした芝浦は手の甲で顔を拭い、鼻血か洟かもはや分からないものを啜りりながら、震える声で呟いた。

「……佐崎……?」

 芝浦が黙り込み、静寂が訪れる。秋野の耳の奥で鳴り響く音もまた、いつの間にか聴こえなくなっていた。



「余計なことだっていうのは分かってたんだけど」

 杏子は秋野を見送ったもののやはり心配で、拾って部屋まで送り届けようとタクシーで追いかけたのだそうだ。秋野の住所を知る人間は数少ないが、杏子はそのうちのひとりだ。車内から探しても秋野の姿は見つからず、タクシーを待たせて部屋にも行ってみたらしい。

「それで、運転手さんにお願いしてこの辺ぐるぐるまわってたの。見つけられてよかった……って、私が来たって仕方ないんだけど」

 芝浦は這うようにして姿を消した。哲は芝浦を見送った後、秋野と杏子にちらりと目をくれて肩を竦め——その顔は、俺は何やってるんだと言っていた——何も言わずに、血塗れの手を上げて行ってしまった。

「あなたが言ってたのは、あの子?」

「……ああ。そう」

 頷く秋野の肩を指先でつつき、杏子は少し笑った。

「あなたが猛獣なら、あの子は野犬みたい」

「それがどうした」

「どうもしないわよ。そんなに欲しいの」

「喉から手が出るほど」

 口に出しておきながら、一体何を言っているのかとも思う。自分が何をしているのか、自分に理解が及ばないという顔をしていた哲と同じだ。

「そんなに魅力的には見えなかったけど。というか、男の子としては魅力的。でも──」

「別に身体の話してるんじゃないよ。抱くならあんたの方が余程いい」

 哲の去った方に目をやったままの秋野を眺めて溜息を吐き、杏子は呆れた口調で言った。

「嘘ばっかり。どっちにも同じくらい興味ないくせに」

 さっきより強くつつかれ思わず笑う。

「だから鋭い女は嫌いなんだよ」

「そうね」

 杏子はすっかり暗くなった工場跡にしゃがみ、煙草に火を点けた。明かりのない敷地の中に赤く小さな点が灯る。杏子の官能的な唇も、栗色の髪も、何も見えない。そこにあるのは赤い光だけ、そしてメンソールの香りだけだった。

「あんたに迷惑がかかるかな。物は期限までに渡せる。芝浦の息子の方は——」

 杏子は立ち上がって煙を吐いた。暗くて細かい表情は見えないのに、煙だけはなぜかはっきり見える。

「見たでしょ、あの怯え方。絶対パパに告げ口なんかしないわよ。父親があなたに手を出そうとしたらあのドラ息子自ら駆けつけて守ってくれるかも。あら、それはそれで面白いわね」

「あんな暑苦しくて頭の悪そうなのは願い下げだな」

 秋野はそう言って杏子の腕を取った。行こう、と促す秋野に頷きながら、杏子はもう一度煙を吐いた。

「歌ね」

「歌?」

 立ち止まった秋野に杏子が顔を向けた。暗がりの中で、大きな目が濡れたように光って見える。

「野犬の歌う歌。あの子ずっと唸ってるみたいだったわね、毛を逆立てて」

 ゆっくり歩き出した杏子の後を追うように、彼女の香りが流れていく。女性にしては低めの声。耳に心地いい杏子の声はしかし、頭蓋を震わせるような振動を伴わずに秋野の耳に触れて消えていく。

「ご主人様に捧ぐ歌?」

「俺はあいつの主人じゃない」

「じゃあ、なあに?」

「──さあ、なんだろうな」

 呟いた秋野の耳の奥。

 束の間、唸り声のような小さな音が確かに響き、そして消えた。



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