19

静まれ心臓 1

 はじめて開けた錠がなんだったか、哲はいまいちよく覚えていない。

 だが、よそ様の家の錠でなかったことだけは確かだ。哲に解錠を教えてくれた祖父も錠と名のつくものを開けるのが大好きだったが、玄関だけは嫌がったからだ。

 その頃の哲は、祖父に教わることひとつひとつが目新しくて面白かった。

 デットボルトとラッチボルトとか、ディスクシリンダーの構造とか。

 授業で習う数式や英単語はいくら眺めてみても覚える気にはなれなかったのに、祖父が教えてくれることはすんなりと頭に入った。好きこそものの上手なれ、とはよく言ったものだ。

 祖父は哲に資格を取って真っ当な鍵師になることを勧めた。そんなに好きなら商売にしてしまえ、と言うのだ。どうせこの道に入るのなら、自分の轍を踏まず、きちんとした鍵師になって真っ当に生きて欲しかったのだろう。

 だが、なぜかその提案は哲の心に響かなかった。家の鍵を失くして困っている人に感謝される──それはいい仕事だと思うし、それこそ鍵師の本分ではないか。そうやって鍵師として生きているひとを尊敬もするし、羨ましくも思う。

 だが、自分がそういう生活に向かないのは分かりきったことだった。

 玄関の鍵を開けるのが嫌なわけではない。それでは不満ということではないのだ。どんなに単純な構造だろうと哲にとって錠前は錠前。挑み甲斐のあるものとそうでないものがあるのは当然だが、真っ当な鍵師になる気になれないのはそれが理由では決してなかった。

 筋道を立てて説明できるわけではないが、祖父も分かっていて勧めた節があった。はっきり返事をしない哲の髪をぐしゃりと掻き回して祖父は笑った。

「いいさ、哲。お前のしたいようにすればいいんだ」

 哲の脳裏に祖父の痩せた、しかし頑健そうな身体が浮かぶ。まず浮かぶのは何故か背中だ。学校から帰ってドアを開け、まず目にするのが背中だったからかもしれない。

 少し猫背で、テレビの前に置いたテーブルで新聞を読んでいる祖父の案外広い背。そしていくつもの姿が浮かび、最後に必ず思い出すのは死に顔だった。ありふれた交差点の交通事故で呆気なく逝ってしまった祖父の、眠っているように穏やかな顔。

 祖父英治が死んで、三年になる。


「あらあ、久しぶりだねえ、てっちゃん‼」

 哲は背後で上がった甲高い声に、思わず顔を顰めて振り返った。祖父の妹で哲には大叔母に当たる人の娘、喜美子きみこが立っていた。ややこしいが、彼女は哲の父親と従姉妹になる。

「どうも」

「大きくなって! いや、変わってないか! まあ元気そうでよかったわ!」

 会釈する哲の背中をばんばんと叩きながら、喜美子は笑顔で哲を見上げた。喜美子は小柄なので、大して長身でもない哲のことも首を反らして見上げる格好になる。

 正に鶏がらのように痩せているのだが、喜美子は健康そのものらしく病気をしたという話は聞いたことがない。そして、いつも底抜けに明るいのも昔からだ。

「もう、こんな時でもないと顔も出さないなんてねえ! 薄情な子だよ、あんたは」

「知ってんなら言わなくてもいいじゃないですか」

「薄情じゃなくて面倒くさがりだね! 知ってるよ」

 ぶつくさ言う哲の腕を引っ張りながら、喜美子は寺の中へと進んだ。

 この小さな寺で哲の祖父、佐崎英治の三回忌の法要があるのだ。しかし、相変わらず参加する親族はほとんどいない。始まるのは十一時。十分前だというのに、本堂にいた人数はほんの僅か。そして、恐らくこれ以上誰も来ないだろう。

 哲と、祖父からすると姪に当たる喜美子。喜美子の娘の寛子ひろこと、まだ小さい息子のじゅん。それと、祖父の兄である孝治こうじと、孝治の妻みさ。たった六人の寂しい法要だった。

 今更驚くことではないし、もう慣れたので不思議とも思わないが、相変わらずだなとは思う。

 祖父は六人兄弟の下から二番目だ。下の妹が喜美子の母で、あとの四人は皆兄だ。一番上、そして喜美子の母は既に他界しており、三番目の兄が孝治、二番目、四番目の兄は葬式にも顔を出さなかった。

 会社の金庫を開けようとして馘になった——一応、辞職という形を取らせてもらえたものの——兄弟は、一族の恥というわけだ。

 哲の父の死後、よってたかって問題児の哲を英治に押しつけたのも、その辺の事情があったからなのだろうと後に気づいた。当時は単に素行の悪い自分が嫌がられただけと思っていた。

 哲は一人っ子だから兄弟間の感情のもつれについては理解できない。血縁だからといって思いやり、支え合えるわけではないのだなとなんとなく思ったが、まあそれは哲には関係のない話だ。

 今時銭湯の売店でしか見かけない牛乳瓶の底のような眼鏡をかけた住職が、よろけながら本堂に入って来た。くたびれた法衣が住居部分の玄関にあったゴルフバッグの何分の一の値段なのか訊いてみたいと意地の悪いことを考える。

 ふらついたのかお辞儀したのかよく分からない坊主の頭頂部をぼんやり眺めながら、哲は線香臭い空気を吸い込んだ。



「さあーて」

 英治の小さな遺影を紫色のちりめんの風呂敷に包みながら、喜美子が明るい声を上げた。

 本来ならきちんとした大きさの遺影を用意するものだろうが、晩年の英治の写真はほとんど残っていなかった。写真を避けていたとか、何か特別な事情があったからではない。哲と暮らしていても写真を撮る機会がなかっただけだ。哲以外に孫はいないし、死んだ哲の父以外の子供もいない。何のイベントごともなかったから、わざわざ写真を撮影することもなかったのだろう。

 何枚かあったものも無理に引き伸ばすとぼやけて誰だかわからなくなり、それより前のものはあまりにも若すぎた。それで、一般的な遺影ではなく小さなフォトフレームに入れることになったのだ。

 これがまた葬儀に当たって佐崎家を苛立たせ、「死んでまで面倒をかける」などと暴言を吐いた男が、冷静ながらも腹を立てた哲に無言で──手加減はしたから平手で──張り倒されるという一幕もあった。

「てっちゃん、一緒にご飯でも食べに行こうよ」

 喜美子は笑顔で哲を誘う。孝治と妻はさっさとタクシーに乗って姿を消しており、今ここにいるのは喜美子親子と、小さい潤だけだ。

「俺はいいですよ。孫と三人で仲良く行って」

 喜美子は哲が唯一好意を持っている親族だ。哲の父親が死んだときも、喜美子は誰も引き取らないならうちで預かる、と言い張った。夫と娘を説得した、と鼻息も荒く主張したものだ。

「てっちゃんが可哀相じゃないか!」

 残りの親族の胸中は大方、あんな不良のどこが可哀相なものか、といったところだっただろう。喜美子の家族は至極まともで、だから親戚一同は喜美子に哲を押し付けるのには躊躇した。結局、英治が哲を引き受けることを承知してその場はおさまった。

「まあまあ、そう言わないで。一年に一度会うか会わないかなんだから、はい、これ持って! 行くよ!」

 無理矢理手に押し付けられたお供物の果物籠——自分で持ってきて自分で持って帰るらしい——を抱え、哲は仕方なく喜美子の小さな背中を追った。



 潤は、お子様ランチを前ににこにこ顔だ。利香とさして変わらないように見えるから、小学校に上がる前だろう。

 ドーム型になったケチャップライスに刺さった旗を抜いては刺し、抜いては刺しして寛子に叱られている。その様子は幼児というより小動物のようだ。叱られてもまったくめげない潤の姿がおかしくて、哲は思わず頬を緩めた。

 寺からタクシーで十分ほど、四人は最初に喜美子の目についた全国チェーンのファミリーレストランに入った。まさに昼時で、日曜の店内は家族連れで混み合っている。

 いかにも法事帰りの黒ずくめの四人組は、表側では縁起が悪いとでも思われたか奥まったテーブル席に案内された。しかし子供の発する甲高い奇声や客の喧騒から少し離れたのは、哲にとっては却っていい具合だった。

 哲は椅子の背に凭れ、喜美子たちの様子を観察した。喜美子は相変わらず元気そうで、多少のことでは弱りそうもない。多分百二十歳くらいまで生きるのではなかろうか。

 三年前に離婚して以来実家にいるという寛子はやや線が細いがなかなかいい女で、潤のような大きな子供がいるようには見えない。確か哲より二つ三つ上だったような気がするが、あまりよく覚えていなかった。

「てっちゃんは、彼女なんかいないの?」

 突然の喜美子の質問に、不意を衝かれた哲は瞬きした。

「かのじょ?」

「だから、てっちゃんは結婚の予定とかはないのかい、って」

「別にないよ、そんなの」

 何となく嫌な予感がして、姿勢を正す。親戚のオバサンがそういうことを気にしだしたら、大抵はいいお嬢さんがいるのよ、とか言い出すに決まっているのだ。下手をしたら写真まで出てきかねない。

「うちの寛子なんか、どう?」

「……は?」

 何を言われているのか分からなかった。ゆっくり寛子に目をやると、あろうことか耳まで真っ赤になって俯いている。嘘だろう。別に子持ちシングルマザーに偏見はない。だが、親しくはないくても親戚となれば話は別だ。潤はプリンの上の真っ赤なさくらんぼに気を取られていて、大人の話など聞いてはいない。

「おばちゃん、熱でもあんの?」

「いやだよ、てっちゃんたら。照れちゃって」

「いや、これっぽっちも照れてませんけど──」

 喜美子はわざとらしく小首を傾げてジュースを飲んだ。


「そういう話なら、俺よりもっとマシなのがいるだろうが」

 黒いネクタイを外して襟を寛げ、低い声で乱暴な口をきく哲を、喜美子親子は別の生き物でも見るように眺めていた。分かっていたが、分かっていてそうしているのだから構わない。

 哲にも人並みの気遣いくらいはできるのだ。滅多に会わない上に祖父以外では唯一世話になったと思う親戚だから、哲なりに無害な親戚の男の子を装っていた。だが、話の内容を聞いていたらそれも面倒臭くなってきた。

 潤がレストラン内の子供の絵本スペースに行ったので、煙草に火を点け天井に向けて煙を吐く。喜美子も、哲の仕草に何となく気圧されたようにしていた。

「でもねえ……」

「大体な、男を切れねえあんただって悪いんじゃねえか」

 仏頂面で睨まれて、寛子が叱られた子供のように首を竦める。寛子の目尻に薄く涙が滲んだが、そんなことで優しくなれるほど哲は人間ができていない。

 寛子が潤の父親と別れた原因は、相手の不倫だったそうだ。夫の人が変わったような言動に傷ついた寛子も男を作り、最終的に離婚が成立した。

 しかしその男というのがホストだというから、寛子も血迷っていたとしか思えない。もっとも、浮気の渦中にいる男女は大体そうで、片方だけが冷静なんてことはあまりない。哲自身は経験がないが、知り合いがした側、された側だったことはある。辛さや後ろめたさ、やってはいけないことをしている高揚感。諸々あって、どっちも精神状態は普通でないことが多かった。

 まあ寛子の胸中はさておき、ホストの話だ。ホストにも意識の高いプロフェッショナルからチンピラまで様々いるが、そいつは丁度その中間、正直に言えばチンピラ寄りの困ったやつで、いいのは顔だけ、というのが冷静さを取り戻した寛子の評価だ。

 しかし寛子も寛子で、すっぱり切ることもできず、何となく関係は続いたままらしい。

「だからねえ、寛子の婚約者ってことで、そいつを諦めさせてほしいのよ。男の人が間に入れば向こうも引くでしょう。ヤクザじゃないんだから」

 喜美子が拝むような真似をするが、そんな昼間のオバサン向けドラマのようなことをするつもりはまったくなかった。

「ストーキングされてるなら警察に行け。そこまでされてねえなら自分でなんとかしろ。何で俺が出てかなきゃならねえんだよ」

「てっちゃん」

 寛子が潤んだ目で見上げてくるが、その程度で絆されるほど仲はよくない。

「何だよ」

「お願い。一回だけ、一緒に来てくれればいいから」

 喜美子と寛子の女二人に潤んだ目で迫られ、哲は眉間の皺が段々深くなるのを感じた。はっきり言わせて貰えば、そんな茶番は絶対にお断りだった。冷血と言われようと残酷と言われようと、答えは否だ。

 口を開きかけたとき、潤がぱたぱたと足音をさせて席に戻ってきた。慌てて煙草を揉み消す哲から母親と祖母に視線を移す。

「ママ、ないてるの? どうしたの?」

 潤は母親の手を握り、また哲を見た。

「お兄ちゃん、ママどうしたの? なんで泣いてるの?」

 思わず口ごもった哲の肩を、喜美子の骨ばった手が力強く二度叩いた。

「頼んだよ、てっちゃん」



 秋野は哲の話に大笑いして、その結果蹴られた脇腹を押さえ、なおも笑っていた。

「いつまで笑ってんだよ」

 哲は足を伸ばしてもう一度秋野を蹴り、グラスに酒を注ぎ足した。秋野の部屋は相変わらず物がない。哲が放り出した喪服の上着が、生活環があまりない部屋の中でやけにだらしなく見える。

「いっそ貰っちまえばいいんじゃないか」

 秋野は哲の足を警戒してか、少し離れたところに座り直した。

「勘弁しろよ」

 哲は注いだ酒を一気に呷った。秋野の家にはその時によって違う酒がある。見た目からは洒落たものを好んで飲みそうだが、意外にも節操がない。どういう基準で選んでいるのか訊ねたら、どれも貰い物らしい。

 今日は九州の芋焼酎が出てきた。哲自身もアルコールなら何でもいい質なので別に文句はなかったが。

「大体、そんな男とどうにかなったのもうまく別れられねえのも、自分の責任だとしか思えねえよな」

「まあな」

「知らなかったけど実はヤクザだったとかならともかく、ホストだぜ。自分から出向いて金払って遊んでるのに、切るも切らねえもねえよ」

 秋野は頷いて煙草を銜え、火を点けた。

 結局喜美子と寛子に押し切られて助けてやると約束させられた哲は、深く考えずにここに寄っていた。何となく面白くなかったので、顔を見るなら遠慮なく蹴っ飛ばせる相手がいいと思ったのかもしれない。

「まあ、男女間ってのはそううまく割り切れるものじゃないだろう。誰もがお前みたいに白黒はっきりした性格じゃない」

 薄い色の瞳は素っ気ない蛍光灯の下で見てもやはり美しい。哲は男の美醜には興味がないが、秋野の目は好きだった。線香臭い小さな寺の本堂で、黒い喪服と金色の祭壇を見て真っ先に浮かんだのも、実はこの男の顔だった。

 安っぽい黒とくすんだ金色。同じ黒と金でもどこかのろくでなしとは大違い。そんなふうに思い出すのはなんだか知らないが業腹で、さっさと頭の中から追い出しはしたのだが。

「──どうせ俺は中間がねえよ」

 本当のことを言えば、哲自身は、自分が白黒はっきりさせる性格ではないと思っていた。白も黒もないというか、どちらでもいいというか。何に対してもあまり興味がないし執着もないせいだろう。だが、この男にそんなことを話す義務はないから、適当に答えてごろりと床に転がった。

「嫌いなんだよ、他人の色恋に首突っ込むの。面倒臭えったらねえ」

「まあ、分かるけどな。今回は仕方ないだろう、親戚の頼みなんだから。たまには誰かの役に立て」

 秋野の笑いを含んだ声が上から降ってくる。床に転がった哲から顔は見えないが、適当に見当をつけて足を蹴り出すと、秋野の膝らしきものに踵がぶつかった。

 秋野の小さな悪態と、煙草の煙が漂いまとわりついてきた。昼間嗅いだ線香の匂いをまた思い出して、哲は鼻に皺を寄せた。

 面倒臭いが仕方がない。じいちゃんの可愛い妹、喜美子おばちゃんの頼みだ。寛子のことなど正直言ってどうでもいいが、おばちゃんには世話になった。

 意味もなくもう一度秋野の膝を蹴り飛ばしながら、哲は長く深い溜息を吐いた。

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