静まれ心臓 2

「ごめんね、てっちゃん」

 寛子はベージュのワンピースを着ていた。取り立てて地味でも派手でもないシンプルなデザインだ。手には白いコートを持っている。

 いい女ではあるのだが、人の顔色を窺うような上目遣いが気になるところだ。ただ──それほど知らないとはいえ──昔からこんな表情をする女ではなかったような気がするから、夫の浮気や、今つき合っている男のせいなのかも知れなかった。

「謝るなら頼むな」

 哲の素っ気ない口調に一瞬寛子の顔が泣きそうに歪んだが、すぐに困ったように笑った。

「……そうだよねえ。ごめんね」

 もう一度謝った寛子の眉は八の字になっていて、困っているのか泣きたいのか、それとも私の苦労なんかあんたが知るわけないと怒りたいのか、自分でも混乱しているような顔だった。

 寛子の現状に哲は無関係で何の責任もないけれど、詰りたければ詰ればいいのにと思う。それで少しは何かが吐き出せるなら、哲は別に構わない。寛子に何を言われたところで傷つきもしないのだから、壁か地面の穴だとでも考えればいいのだ。

 そう思いはしたものの、わざわざ口に出して言ってやるほど親切でもないから、結局哲は黙ったままでいた。

 やたらと白い蛍光灯が寛子の後について入った店の隅から隅までを照らしている。旬の果物を使ったタルトが売りだというそのカフェは、女の子の集団やカップルだらけだ。普段なら死んでも足を向けないような店の中で、哲は萎えていく気持ちを何とかしようと懸命に努力していた。と言っても、具体的な方策は一向に思いつかなかった。

 花瓶と呼んでいいかどうかも怪しいくらい小さな花瓶に挿された申し訳程度の生花を指先で弄りながら、寛子がぽつぽつと話しだした。

「てっちゃんに会ってほしいのはね、ハヤミレイジっていう人なの」

 いまいちなセンスの源氏名に思わず吹き出しそうになり、何とか堪えた。さすがにそこまで無神経ではない。というか、もしかしたら世の中にはハヤミレイジさんがいるかもしれない。

「すごく素敵なの……っていうか、素敵に見えるの、お店にいるときは」

 それはそうだろ、商売なんだから。店の中で素敵に見えなきゃホストじゃねえ。胸の中で相槌を打ち、表面上は黙って頷いた。

「でもやっぱり、うまくお金せびられたりとかして、そりゃそうよねーって自分でも思うんだけどね。バカみたいだよね」

 それだけ寂しかったのだろう。そう思えば、無神経にそうだなとは言えず、哲は寛子の握り締めた手に目をやった。

「俺はどうすりゃいいんだ」

「てっちゃんはここにいてくれればいいよ。レイジとは私が話すし。彼、お金にはだらしないけど別にヤクザとかじゃないし、危なくはないから」

「そうか」

 寛子が腕時計をちらりと見て入り口に目を向け、小さく声を上げた。

「レイジ」



 ハヤミレイジというその男はさすがにある程度見栄えがよかったが、どこからどう見ても水商売だった。身体にぴったりと合っている黒いスーツも、抱えたコートも高価そうだし、ノーネクタイの胸元を飾るマフラーも上品な色合いで上質そうだ。それでも、滲み出る何かが私はごく普通の社会人ではありませんと声を大にして主張している。

 ごく普通、にはホストも含まれる。要するに職業だけの話ではなくて何かが僅かにずれていた。

 背は哲と同じくらい──百七十センチ代半ば。筋肉はなさそうでかなり細身で中性的な顔立ちだった。レイジが通ってきた道筋の女の視線が一様にレイジを追いかけたけれど、その色合いは決して単一ではない。

 うっとりと眺める女もいれば眉を顰める女もいる。女なら全員がレイジを素敵と思わないことは哲にも分かる。しかし、何にせよ注目を引く容姿であるのは間違いなかった。

 レイジは寛子ににっこりと笑いかけた。

「寛子さん、こんにちは」

 囁くような、甘えるような声音に哲の腕に鳥肌が立つ。長袖の下で誰にも見えない腕を長袖の上からそっとさすった。寛子はこの期に及んでとろんとした眼でレイジを見つめていたが、哲の存在を思い出してはっとしたようだった。

「急にごめんなさいね、レイジくん。今日は、お話があって」

「うん。はじめまして、座っていいですか?」

 レイジは哲にも愛想のいい笑顔を向けた。哲の頬が引き攣っていることには当然気づいているだろう。しかし、男からは好意的な視線を向けられないことも多いのか気にした様子はまったくない。

「どうぞ」

 哲が短く言うと、レイジは椅子を引いて腰を下ろした。飛んできた店員にコーヒーを注文して優しく微笑む。学生アルバイトらしき若い店員は顔を真っ赤にして戻っていった。

「寛子さん、こちらは?」

 レイジが哲の顔をまじまじと見つめるから、哲も遠慮なくレイジを観察した。

 綺麗に描かれた眉や流行の色合いに染め丹念にセットされた髪は、容姿に金と時間を掛けていることを物語っていた。年齢は哲の二つ三つ下くらいに見える。

「ええと、彼は佐崎さん」

 寛子の母喜美子の旧姓は佐崎、結婚して牧原姓になっている。当然離婚し出戻った寛子も牧原寛子で、佐崎という苗字ではない。因みに、哲も佐崎姓ではあるが祖父とは別の佐崎になる。祖母が祖父と離婚後に新しく作った戸籍なのだ。

「実は、婚約したの、私……私たち」

 寛子はテーブルの上のカフェオレのカップを両手で握り締めて言った。俯いたまま、レイジの顔を見もせずに。

 見ていたら、もっと簡単に諦められただろうに。

 いや、寛子が顔を上げていたら、レイジもそんな顔はしないだろう。上手に取り繕うに違いない。そう考えれば結局同じだ。

 レイジはさっきまでのように微笑んでもいなかったし、ショックを受けた様子でもなく、白けた表情を浮かべていた。言葉にするとしたら、きっとこうだ。

──あ、そう。残念、俺の金づるが一人いなくなっちゃうのか。まあ、それほどの女でもないし、いいけどね。

 寛子がおずおずと顔を上げたときには、レイジはすでに寂しげな笑顔を仮面のように被っていた。さすが、それで飯を食っているだけのことはある。哲はその空恐ろしいほどの変化を目の当たりにしていたが、レイジは哲に見られることは何とも思っていないようだった。

「仕方ないね──俺、諦めるよ。寛子さん」

「レイジくん……」

「だって、俺はホストだもんね。どうやっても寛子さんの旦那様になる人には勝てないよ。すごく——寂しいし、辛いけど」

 さも傷ついたように呟くレイジに、寛子は両手で顔を覆った。

「ごめんなさい……私」

 哲は余りの滑稽さに失神寸前だった。レイジとかいうこの見た目だけの男も、レイジの本質を知っていて見ようとしない寛子も、どちらも哲には理解できない。

 勿論お互いそれでいいなら好きにすればいい。哲は他人を非難できるほど真っ当な人間ではない。だが、巻き込まれるのはごめんだった。

 喜美子は「彼を諦めさせて」と言っていた。しかし哲が見る限り諦めるのは寛子のほうだ。ホストのほうは寛子に執着している気配もない。敢えて言うなら、レイジは寛子を馬鹿にしている。それだけだ。

 レイジは店員が運んできたコーヒーを脇に押しやり、寛子の肩に手を置いた。

「寛子さん、幸せになってね。前の旦那さんのことなんか忘れて、絶対幸せにならなきゃだめなんだからね? 俺の最後のお願いだよ?」

「うん、うん……」

 哲は眉間に皺が寄っていることを自覚しながら、冷めたコーヒーを飲み下した。そうでもしていないと、今すぐにでもレイジの脳天に踵落としを食らわせそうな気分だ。まるで忍耐力を試す試験を受けているような気がしてくる。

 レイジが哲に向き直り、真摯なつもりであろう眼差しで哲の目を見据えた。女には効くかもしれないが、哲には残念ながら効果がない。

「ササキさん、寛子さんを幸せにして下さい。寛子さんは、すごく辛い思いをしてきたんです。だから——」

 つい、隠すのを忘れてしまった。

 しかし、予告なく暴力を振るうよりはマシだったと思う。

 レイジの視線を捉えた哲は、カップの縁から、本気でレイジを睨みつけてしまった。婚約者の嫉妬とか、そういう類の目つきをしなければならなかったのだろう。分かっていてもできないことはたくさんある。哲はホストでもなければ役者でもない。

 レイジの口が開いたまま固まった。

 顎が震え、唇の色が見る間に抜けていく。レイジは飛び上がるように席を立ち、そのまま足早に店を出て行った。呆気に取られた寛子がレイジの背中を目で追い、哲を見て、またレイジの消えたほうに目を向けた。

 仕方がない。殴りつけなかっただけ、自分にも忍耐力があったということだ。


 寛子は、表面上はふっきれたような顔をしていた。本心は哲には窺い知れないが、逃げるようにして突然消えたレイジに何か思うところはあったのだろう。

「ありがとうねー、てっちゃん」

 白い息を吐きながら笑う寛子は、子供の頃と同じ顔をしていた。

「何がなんだかわかんなかったけど、レイジくん、てっちゃんに怯えちゃったみたいだね」

 顔をしかめた哲に目を向け、寛子がまた笑う。

「嘘だって、わかってるんだ」

 寛子は、足を止めて哲を見上げた。

「レイジくんの言ってることはさ、ぜーんぶ嘘なんだよね。わかってても、認められないの。彼は私に優しい、きっと私が好きなんだって思い込んで、それで幸せな振りしたいんだもん。自分がただのカモだってこと、自分であっさり認めるわけないよね。そんなに賢かったら、そもそもこんなことになってないし」

「……仕方ねえよな」

「優しいね、てっちゃん」

 寛子は声を立てて笑うと、哲のほうを向いた。いつの間にか駅の入り口まで来ていたのだ。寛子は哲に手を振りながら階段を降りていく。

「ありがとうね、おやすみ!」

「ああ」

 寛子の足取りは軽やかだった。それこそが振りなのか、違うのかは分からない。

 哲は遠ざかる白いコートを見送って溜息を吐いた。女ってやつはどうにもこうにも難解だ。今まで付き合った女も、多かれ少なかれ男には理解できない部分を持っていた。

 あんな見え透いた嘘、見え透いた演技に自ら進んで騙されて、泣いて、笑って。

 哀れでもあり、愛しくもある。それが女ってもんなんだろう。寛子が見えなくなるまで待って踵を返したら、ぶつかりそうなくらい近くに男が立っていた。

「また会っちゃいましたね」

「何してんだ、お前」

「えー、何って、別に。偶然お二人を見かけたので」

 レイジは輝かんばかりの笑みを貼り付けて立っていた。寛子がここにいたらまだ心を揺さぶられたりしたのだろうか。哲にしてみれば胡散臭いという以外に何の感想も持てない顔だったが。

「ちょっと二人でお話しませんか?」

 レイジは、さっきは手に持っていた黒いロングコートを着ていた。風になびく裾が女を騒がせるのだろう。この寒いのにやたらとボタンを外したシャツの胸元から、薄い胸板とシルバーの鎖が見える。

「何も話すことなんかねえけどな、俺は」

「そう言わないでくださいよ」

 レイジは哲の前に立ち、小首を傾げた。ガキのような仕草も特定の女には受けるのかもしれないが、哲には却ってレイジの馬鹿さ加減が際立つように見える。面倒臭くなって頷くと、レイジはやったー、と言い先に立って歩き出した。

「ね、ササキさんてさ、本当に寛子さんの婚約者なの?」

 レイジは振り返りながら哲の顔を覗き込むようにして言った。段々と人気のないほうへ向かっているようだ。どうせろくなことを考えていないのは分かりきっていると思いつつも、敢えて気付かない振りをした。

「いいや」

「やっぱり! そうだよね、そんな雰囲気なかったもん。何、俺と別れさせてくれって頼まれた? あんなことしなくてもすぐ別れたのにさあ」

 レイジは弾むような足取りで哲の前を行く。

「大して美人ってわけでもないし、子持ちじゃん? お金だってそんな持ってないし、そのうちうまく捨てようと思ってたのに、無駄なことしたよねー」

 いつの間にかビルの間を抜け、建設中の垂れ幕がかかった建物に入り込む。

「ここさ、会社が潰れて建設中のまま中断してんだよね。だから誰にも邪魔されない」

「何の話がしてえんだ」

「べっつにぃ」

 レイジはにっこり笑った。

「俺をビビらせてくれた仕返しをしたいだけだよ」

 レイジはさっと手を伸ばして哲の腕を掴み、逆の手で真っ赤な携帯を取り出した。ついたよー、と能天気な声で誰かと話しながら建物の奥へ入っていく。

 哲が本気で振り払えば、レイジの腕などすぐに外せる。それを分かっていないところがこいつの頭が足りないところだと思いながら、哲は促されるままに中へ入った。

 逃げようと思えば今からでも勿論間に合う。だが、逃げ出す気はまるでなかった。せっかく訪れた機会をどうして捨てる必要がある?

「お前、寛子に恨みはあんの」

「ええ? ないよ、別に。何言ってんの? さっきも言ったじゃん。あんな女どうでもいいの。俺はあんたにムカついただけ」

 哲は内心ほくそ笑んだ。寛子に対して悪意がないなら問題はない。黙り込んだ哲の態度をどう取ったか、レイジは哲を引っ張り意気揚々と進んでいく。

 昼間から散々忍耐を試された。くだらない三文芝居につき合わされ、こっちだってそろそろ限界だ。何か褒美があったっていいだろう。哲は俯き、微かに頬を歪めて笑った。


 恐らく企業のメインフロアになる予定だったのだろう。たどり着いた広く仕切りのないスペースは何も置かれておらず、必要以上にだだっ広く見える。

 床の上には何人かの男たちが思い思いの格好でだらしなく座っていた。レイジを入れて五人。見たところレイジは何の戦力にもならないだろうから、正味四人。ヤクザではないだろう。坊主頭にオーバーサイズのパーカーとデニムの男、ホスト風のスーツの男二人、ロッカー崩れのようなのが一人。

 腕に覚えのあるホスト仲間かスカウトの連中か、単なる友人か。言ってみればレイジと愉快な仲間たちだ。

「たった四人かよ」

 ぼそりと呟いた哲の声は、レイジには届かなかったようだ。レイジはにこにこしながら哲を押し出し、四人に言った。

「こいつ、俺のこと馬鹿にしてムカつくからさあ、ちょっとボコってやって」

「マジでやっていいのぉ?」

「いいんじゃない? 別にー」

 妙に間延びした語尾を上げる喋り方に、哲は思わず頬を緩めた。話し方で人格が決まるわけでは決してないが。それでもいくらかの目安にはなる。少なくとも、殴り倒して心が痛むことはないだろう。

「何笑ってんだよ、コラ」

「オマエ、ジブンの立場わかってんのかあ?」

 顎を上げて威嚇する四人に、哲はより一層大きな笑みを向けた。

 そうだ。

 結局、これだから俺はじいちゃんが望むような、頼れる町の鍵師になんかなれないのだ。

 鍵を失くしたご近所の主婦を助けに飛んで行ったりはできない。いや、行くことはできる。ただ、そちらを最優先に生きていくことができないだけだ。野蛮だと、いかれてると言われようと、こうでなくては生きている気がしない。

 前に二度秋野と寝た時の興奮を思い出した。結局、秋野と肌を合わせながら感じるものもこれなのだと、今更ながら実感する。

 血が滾るような感覚、腹の底から湧き上がり顎の骨を軋ませる獰猛な本能。溶鉱炉の中で融けるどろりとした金属のような熱が身体内を巡るあの感覚を、何と表現すればいいのだろう。

 感情はその熱に融け、混じり合い、確かなかたちすら保てない。あの男をどう思うのか、自分にとってあいつは一体何なのか。そんなことは重要ではない。

 セックスがもたらす心地よい快楽は、相手に、せめて相手の身体に溺れなければ訪れないのではないのだろうか。

 殴りつけ、蹴りつけ、噛み千切って征服したい。その本能の赴くままに行う行為で溺れることなど多分有り得ない。そんな行為が悦楽であるはずはない。しかし、単なる快楽の何倍も強く、それは哲を突き動かす。

 暴力的な重く昏い興奮が今、同じように血管を流れ始めた。心臓がいつもより早く、強く打ち始める。

 静まれ、心臓。そんなに騒がなくても、思う存分血を送らせてやる。全身を駆け巡る凶暴な感覚に、哲は陶然と目を細めた。

「何ぼさっと突っ立ってんだ、さっさと始めようじゃねえか」

 哲の歪んだ口元と目つきに怯えたようにレイジが後ずさる。後の四人も、どこか躊躇して踏み出してこない。

「四対一でびびってんじゃねえぞ、ガキが」

 哲の低い声に、坊主頭がポケットに手を突っ込んだ。バタフライナイフだ。開くのは、何度も練習したのだろう、結構サマになっている。

 大声と共に突っ込んできた男に、横に立つレイジの身体を掴んで投げつけた。筋肉が少なくて軽いレイジは、哲の片手に引き摺られるまま、坊主頭の方へ飛んでいった。

「わっ、あぶなっ」

 坊主頭がナイフを取り落としてレイジを受け止める。哲は滑りながら足元に飛んできたナイフを遠くへ蹴り飛ばした。

「刃物はつまんねえからナシな」

「てめえ──」

「素手でやろうぜ、素手でよ」

 にやりと笑った哲に、四人が一斉に駆け寄った。




「何をやってんだよ、哲は」

 耀司は思わずそう吐き出したが、真菜に消毒液をこれでもかと吹き付けられて抵抗する哲は、耀司の言ったことなんか聞いていなかった。

 哲はもういいとか大丈夫だとか言ってなんとか真菜の手を止めようとしていて、どこからどうみてもご機嫌な様子だ。

 最近哲の顔を見ていないなと思い立ち、久しぶりにお茶でも飲みにおいでよと電話をしたら血だらけの左手をぶら下げた哲が現われた。

 そういうわけで、耀司と真菜の愛の巣は一時騒然とした。勿論騒いだのはこちらだけ。怪我をしている本人は普段とひとつも変わらぬ顔で、床に血が垂れるからティッシュくれとかなんとか言っていた。床の心配している場合じゃないと真菜にがみがみ言われていたが、秋野といい哲といい、痛覚がおかしいんじゃないかと耀司は常々怪しんでいる。

 顔に傷はほとんどない。何箇所か擦ったように赤くなっているが、傷のうちには入らないだろう。左手には結構な深さの傷がいくつかあり、血はそこから垂れていた。哲によればナイフで切られたのだそうだ。

「で、相手はどうなったの。生きてんの?」

 耀司が諦め半分に訊くと、哲はにっと笑って見せた。

「勿論。あんなつまんねえことで殺人者になりたかねえよ」

「まあ……そうだね」

 真菜が救急箱を片付け、お茶を淹れたマグカップを持って戻ってきた。真菜は危ないことをする男たちにすっかり慣れてしまったようで、心配はするものの、起こったこと自体については何も言わない。

「それにしても哲、ほんとに楽しそうだね」

「殴り合うの好きなんだよ、俺は」

「また秋野にどやされるから! 私は知らないよ」

「何で」

 心底不思議そうな哲に真菜は眉尻を下げて見せ、耀司はつい首を振った。

「前だってそうだっただろ。哲が喧嘩で怪我したら怒って……」

「ああ──」

 哲は赤くなってはいるものの無傷の右手でマグカップを持ち上げた。

「あれはあいつの回してきた仕事が原因だったからだろうが」

「それはそうかもしれないけど。じゃあ哲が勝手に喧嘩してきて怪我すんのは怒んないわけ?」

「知るかよ。大体、いちいち目くじら立てる権利があの野郎にあんのかよ。俺の母親でもあるまいし」

「まあねえ……」

「それに、あいつにやられた後の方がよっぽどひでえことにな」

 電池が切れたように哲の言葉が途切れ、静寂が訪れた。

 哲は黙ってマグカップに口をつけ、無言でゆっくりとお茶を啜る。耀司と真菜は暗黙の了解で、哲の台詞はこの世に存在しなかったことにしようと決めた。

 何を「やられた」のか、深く考えられなかったからだ。この場合、二人は完全に以心伝心していたと後に判明する。

 耀司は冷や汗をかいた心臓に語りかけた。静まれ、心臓。大丈夫大丈夫。怖くない。多分、怖くない。



 殴り合いですっかり発散した哲は、足取りも軽く耀司の部屋を後にした。

 じいちゃん、やっぱり俺、普通の世界できちんとやっていく鍵師は無理だったわ。頭の中で祖父にそう話しかける。こうでなきゃ、楽しくねえもんな。

 祖父と暮らしている間は抑え続けた衝動。

 視界と脳が真っ赤に染まるほどの興奮と、血管が破裂しそうなほどの拍動と。

 それを与えてくれるのは、恋でも愛でもなければ、金でもない。複雑に入り組んだ鍵穴。それから、単純な暴力の行使。

 そして、あの獣の目を持つ男。

 

 夜風が吹き、哲の髪をくしゃりと乱す。

 仕方ないな、という祖父の声が聞こえる気がする。そんなわけはないけれど。

 髪を乱していく風は、祖父の無骨な手の感触に少し似ていたような、そんな気がした。

  

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