20

その手で引き金を 1

「何だってえ?」

 柄の悪い声が厨房まで響いてきて、哲はちょうど洗い終えた手を布巾で軽く拭った。店主が客を宥めようとしているのが聞こえてくる。

「いや、お客さん、そんなカッカしないでさ。他の酒ならありますから——」

「何だとぉ? 俺に飲ませたくないならはっきりそう言やあいいじゃねえか!」

 厨房と表を仕切る暖簾から顔を出して覗いてみると、堅気と極道の中間といった風貌の男が顔を真っ赤にしてカウンター越しに店主の胸倉を掴んでいた。

 酔っているせいか腹を立てているせいか、顔色はやたら赤い。今時私服としてはなかなか見かけないゴルフシャツの襟を立てているのが妙にオヤジっぽいものの、実年齢は若そうだ。

 哲の背後から顔を覗かせた新しいバイト学生の服部はっとりは、すっかり腰が引けていた。

「佐崎さん、あれ、どうしましょう……」

「どうって、親父さんに任せときゃいい。あのくらい慣れてるだろ」

 恐々向こうを窺っている服部を残して厨房に戻ろうとした途端、女の悲鳴が上がった。

 カウンターに当たって割れたのは男が振り回したビール瓶だった。砕けた破片がばらばらと床に散る。男の隣に座っていた会社員の上着に割れた瓶からビールが飛び散り、点々を染みを残した。

「お客さん、困ります──」

 同様した客の声が低く響く。店主と一緒にカウンターの中にいた店員──下川という──が声をかけたが、男は店中を威嚇するように瓶を持った腕を突き出し、大声で吼えた。

「なんだあ、てめえら!」

 男の怒声に下川が身を竦ませ、スーツの上着を回収し腰を上げかけていた会社員は叩き落されたように椅子の上に尻を落とした。

「客商売してんなら客に嫌な思いさせてんじゃねえぞ、こらぁ‼」

 男の手に薙ぎ払われた茶碗や皿が床に飛び散って喧しい音を立てる。男はカウンターの端、一番入り口に近い席に陣取っていた。店から出るには男の横を通らねばならず、客は誰も帰れずにその場で青くなっていた。

 哲は溜息を吐いた。面倒なことは嫌いだ。酔っ払いが店員に絡むことなど珍しくもないし、店主はこの商売が長いのであしらい方も心得ているから本当は首を突っ込みたくない。しかし、この酔客はどう見ても質が悪い。背後から聞こえる服部の上ずった静止に構わず、哲は暖簾を潜って厨房からカウンターに出た。

「お客さん」

「ああ⁉」

「ちょっと外でお話しませんか。気に入らないことがありましたら、お聞きしますので」

 いっそ呑気な哲の態度が気に障ったのか、男は青筋を立てて怒鳴り声のボリュームを一段上げた。

「何で外に出なきゃなんねえんだよ! 俺は客だ、ここにいてえんだ」

「まあそう言わず。とりあえず——」

 男はカウンターに置いてあった湯呑茶碗を空いている手で掴み、哲に向かって思い切り投げつけた。茶碗が哲の胸に当たる。割れる前に受け止めようと頭を下げた瞬間、店主の声が飛んできた。

「佐崎っ!」

 左のこめかみに硬いものがぶち当たった。本能的に直撃は避けたらしい。倒れるほどの衝撃はなかったものの、一瞬視界が霞んで見えた。

「うるせえって言ってんだろぉあ、ああ!」

 男が叫び、顔を上げた哲の顔の横を割れたビール瓶が飛んでいく。

「痛えっ」

 飛んできた瓶を払いのけた店主の腕がすっぱり切れていた。血が滲んだ傷を抱え、驚いたように目を瞠った店主はどうしていいか分からないのか、男と哲を交互に見た。

「……まったく」

 哲は男の投げつけた茶碗を右手に持ったままカウンターの外側に出た。男は荒い息を吐きながら哲を睨みつけている。

 馬鹿じゃねえのか。

 内心そう思いながら男の顔に視線を当てた。威嚇の声も、物をぶん投げる見境なさも、派手だが結局馬鹿丸出しだ。

 大股で男に歩み寄り、無言でゴルフシャツの襟を引っ掴んだ。哲は身構え口を開きかけた男の頭に思い切り茶碗を叩きつけた。鈍い音と共に陶器が割れて男の足元に欠片が降り注ぐ。男が甲高い悲鳴を上げ、それに被さって複数の客の悲鳴が上がる。

「外出ろ」

「出ないって言って……」

「出ろっつってんだ‼」

 腹の底から怒鳴りつけたら男が口を開けたまま固まった。客の声もぴたりと止まって音が消える。空調と、外から聞こえてくるざわめき。客が身じろぎしたのか微かに衣擦れの音がした。

「親父さん、椅子一脚ください」

 店主は腕の傷を掌で押さえたまま、呆然と呟いた。下川は店主の傷をなんとかしようとしたらしい。店主の横でタオルを手に持ったまま突っ立っている。

「椅子……?」

「給料から引いてもらえますか」

 哲はカウンターから背凭れのない椅子を一脚掴み出した。

「出ろ、コラ」

 椅子を引きずりながら男の脛を蹴っ飛ばす。後ろから蹴られた男は、つんのめりながらも歩を進め、おとなしく引き戸に手をかけた。




 哲が壊れた椅子──というか椅子だった木材──を抱えて店に戻ると店主はいなかった。下川に付き添われて近くの救急病院へ行ったらしい。あの傷の深さなら何針か縫うことになるだろう。

 さっきまでいた客はほとんど怯えて帰ってしまったらしいが、端のテーブルに一組だけ残っていた。哲を見てぶんぶん手を振り始めたのはそのうちの一人だった。

「大丈夫ですかあ?」

 このぼんやりとした話し方には覚えがあった。しかし名前が出てこない。

「よう、本屋の。えーと。何だっけ」

「イナモリですよ。お米のイネに、サカリがついたモリ」

「盛りってお前な──何でここにいる?」

「一時間くらい前からいましたよー」

「マジでか」

 まったく覚えがなかったが、稲盛がずっと厨房にいたんですよね? と続けたからああそうだったかと気が付いた。

「やっと出てきたから声かけようと思ったら、人の頭でお茶碗割るんだもんなあ。あのお客さんよりよっぽど怖かったですよ」

「あいつの頭が固かったんだろ」

 哲が抱えている椅子の残骸に嫌そうな目を向けてから、稲盛は連れのほうを向いて哲を指した。

「この人がキャベツ係の」

「そういう紹介……?」

 思わず脱力した哲を見て稲盛は目をぱちくりさせた。やや面長な顔に切れ長の目。顔のつくりと子供のような表情が合っていない。

「スライサー導入許可が下りたんで、俺はもうキャベツ係じゃねえんだよ」

 哲はカウンター内を片付けているバイトの服部を顎で指した。

「今はあれがキャベツ係だ」

 稲盛は大口をあけて笑ったが、連れの男はぴくりとも表情を動かさなかった。

  

「彼、仕入屋さんに会いたいらしいんです」

 稲盛は連れを見て「ねっ」と首を傾げた。見た目にそぐわない仕種には慣れているのか、男は特に驚く様子もない。

「俺の大学の友達、っていうかそんなに親しくないんだけど、とにかく知り合いなんです」

「親しくねえのかよ」

「仲は悪くないですよ⁉」

「ああ、そう」

「岡本です」

 カウンターの椅子を引き寄せて尻を載せる。稲盛の連れは無表情のまま哲に会釈した。これといって特徴のない顔は次に会っても分からないかもしれないと思わせる。多分それは造作のせいというより、表情がないせいだ。

「どうも。でもな、仕入屋に会いたいなら俺じゃなくて窓口通してくんねえかな」

「そんな人いるんですか?」

「知らねえのか」

 稲盛は蛸の唐揚げを箸でつつきながら頷いた。

「俺、仕事は頼まれるけど頼んだことないですもん。連絡も仕入屋さんのほうから来るだけだし。連絡してくる番号も毎回違うし……いや、あれ? 連絡先持ってましたっけ、俺? この着信履歴のどれかかな」

「知らねえよ」

 古書店の三代目稲盛は現役の大学生で、学業の傍らほぼ捨て置かれた状態の稲盛古書の面倒を見ている。稀購本や特殊な書籍の収集をするのが趣味で、論文の資料収集も兼ねているとか。大方の想像どおりというかなんというか、興味の対象にはのめり込むくせにそれ以外のことにはあまり注意が向かないという男だ。

 ちなみに稲盛の父親は小説や漫画を扱う一般向けの古本屋も営んでおり、そちらは店舗も複数あって中々の規模らしい。

「あっ!」

「あったのか」

「いや、やっぱり分かんないですね!」

「……六丁目にティアラってゲイバーがあって、そこにマナってオカマがいるから」

 耀司が聞いたら俺はオカマじゃないと怒るだろうが、面倒臭いのでそう言っておいた。稲盛と岡本は面食らったらしく顔を見合わせている。

「おかまさん……オネエ──さん……あの、なんて呼べば失礼にならないんでしょうねえ」

「それこそ知らんわ。本人に訊けよ」

「ええーっ!」

「電話しておいてやるからそっちに行ってくれ」

「そうですか。はい、じゃあ、行ってみます! すみません、色々」

「いや。悪いと思うならもっと食ってけよ」

「了解でーす」

 哲は尻を上げ、壊れた椅子を持ってカウンターの内側に入った。服部が目を見開いて哲の顔をじっと見る。哲も見返したが、服部も目を逸らさない。

「……何だよ?」

「大丈夫ですか、佐崎さん」

「見りゃ分かるだろうが。大丈夫だよ、椅子以外は」

「でも——血が……」

 服部が指したのは哲のこめかみだった。指で擦ってみたらべったり血がついてきた。痛みはそれほどないから気付かなかったが、ビール瓶で殴られた時に切れたか擦れたかしたのだろう。

 哲は肩越しにテーブル席を振り返り、無表情な友人相手にひとりで何か喋っている稲盛に目をやった。怖い怖いと言いながら、血のことには触れもしなかった。やはり秋野が使うだけあって、どこかいかれているに違いない。

 哲は椅子を服部に引き渡し、顔を洗いにその場を離れた。

 


 数日後のシフト、哲のバイト先にはまたしても思いがけない客が来た。

「お、やっぱりお前さんだったか」

 焼き魚の皿を両手にカウンターに入ったら、端っこに座っていた客が哲に声をかけてきた。

 痩せて尖った顎にキツネのように吊り上がった細い目。趣味の悪いネクタイと黒いワイシャツは今時ドラマの中でしか見かけないようなスタンダードなヤクザスタイル。どこからどう見てもヤクザにしか見えないヤクザ、ナカジマだった。

「おっさん。こんなとこで何やってんだよ」

 店主に皿を渡して戻った哲にナカジマが笑顔を見せる。どう見ても小動物を前にしたキツネみたいな物騒な顔だが、まあ、多分笑顔なのだろう。

「飯食いに来たんだよ。居酒屋に来る理由なんてそれ以外ねえだろう」

 客はみなナカジマのほうを見ないようにしているらしい。視線は感じないのだが、なんとなく緊張感が漂っている。店員もナカジマと普通に口をきく哲を怯えたように見つめていた。

「お前さん、仕事のあがりは何時だい」

「何で」

「一杯やろうや、その辺の赤提灯でも寄って」

「別にいいけど」

 やりとりを聞いていた店主がすっ飛んできて哲を引っ張った。

「佐崎! ちょっといいかキャベツのことで! すみませんねお客さん、お話し中に」

 ナカジマは笑顔で店主に頷いて見せ、手元の刺身をつつき始めた。もっとも極道の笑顔は逆効果で、店主は益々青くなったが。暖簾を潜り、厨房まで来て店主はようやく口を開いた。

「佐崎、お前あれ、知り合いか」

「キャベツのことじゃないんですか」

「何言ってんだよ、そんなわけないだろ」

 責められているわけではないのは分かっていた。若くして店を持ち、今までずっとやってきたのだ。店主自身色々な経験をしただろうし、飲食店の常でヤクザ者と揉めたこともあったのだろう。

「いや──すみません。知り合いってわけじゃないです。ヤクザと親しくしたくもないし」

「そうかい。いや、面倒に巻き込まれてなきゃいいんだけど」

「何もないですよ」

 笑ってみせたら、店主は複雑そうな顔をした。

「佐崎……」

「本当ですって」

「……分かった。じゃあ、今日はあがっていいぞ。あの人がいると客が寄りつかねえや」

「でも、今抜けて大丈夫ですか?」

「今日はそんなに混んでねえから平気だって。服部もよく働くし」

「ご迷惑おかけします」

「お前のせいじゃないさ」

 どしん、と音がするほど強く背を叩かれ、思わずつんのめる。店主は笑いながら暖簾の向こうに戻って行き、哲は溜息を吐きながら前掛けの腰紐に手をやった。



 ナカジマが選んだ店は赤提灯など下がっていなかった。新しくてきれいだが目立たないビルの一階にある、これまた目立たない焼き鳥屋の店内は煙で薄く曇って見える。外からだと焼き鳥屋だと分かりにくいせいか客はまばらで、数少ない客は誰もナカジマに目を留めていなかった。

 常連なのか、ナカジマは店の親父に目顔で挨拶すると、奥のテーブル席に着く。愛想のかけらもない女がビール瓶と小さなグラス、突き出しを盆に載せてやってきた。ナカジマは何を注文するでもなく、哲のグラスにビールを注いだ。

「ま、飲みなよ」

「まさか杯とか言わねえだろうな」

 ナカジマはおかしそうに口元を歪めた。

「口の減らねえ小僧だなあ、お前さんは。ただのビールだよ、ビール」

 ナカジマは手酌で自分のグラスにビールを注ぎ、一息に飲み干した。哲のバイト先でも、茶碗からすると日本酒を飲んでいたはずだ。顔色はまったく変わっていないから弱くはないのだろう。

「……この間のゴルフウェア、あれ、あんたの身内なのか」

 ナカジマとは以前二度ほど顔を合わせたが、名前も勤め先も教えてはいなかった。ヤクザがその気になれば探し出すことなど簡単なのだろうが、そもそも哲は隠れてもいないし、ナカジマと揉めたわけでもない。

 ナカジマは哲と秋野にはかかわらないと言っていた。ヤクザのいうことをすべて信じるわけではないにせよ、ナカジマにとっては哲も秋野も気にかける価値すらない小物だろう。だとしたらわざわざ哲を探すとも思えず、あのチンピラの一件くらいしか思い当たることはなかった。

「おお、まあな。身内っつーか知り合いだ」

「あんな下っ端の喧嘩に何であんたが首突っ込むんだよ」

 ナカジマは恐らく四十代前半から半ば。年齢と階級が連動する業界ではないかもしれないが、少なくとも末端の構成員とは思えない。

「まあ、首突っ込むっていうか、なあ。いやちょっと人から話を聞いたら、人相風体がお前さんっぽくってなあ」

 哲は特に目立つ外見をしているわけではない。こんな男だった、という描写だけで哲個人が特定できるものなのだろうか。

「俺っぽいってどんなんだよ」

「うまく説明できねえからお前さんっぽいって言ってんじゃねえか」

「全然分かんねえ……で、どうしろっての」

「いやいや、どうもこうもねえよ。お前さんは俺の知り合いだから構うなって言うさね」

 ナカジマはにっと笑って突き出しの小鉢を手に取った。先ほどの女が焼き物の載った皿を運んできて、またしても笑顔ひとつないまま置いていく。並べられた串を見てナカジマが嬉しそうに頬を緩めた。

「お前さんも食いなよ。ここの焼き鳥は結構いける」

「どうも、いただきます。そういや詐欺のほうは、持ち直したのか?」

「ああ? ああ、あれな。あれはもうそろそろ打ち止めだ。こっちが新しいネタ考える度にニュースになるし、最近じゃ爺婆も滅多にひっかからねえ」

「そうかあ? 結構被害に遭ったとかなんとかニュース聞くけど」

「まあ星の数ほどシナリオがあるからよ。小道具使うとか、警官役、役人役、親族役とかって人数使えばアレだけど、まあそれも結構な手間ってもんでな。あの男な、銃を扱ってんだ」

 突然話題が変わった。ナカジマは表情を変えず、自分に向けられた哲の視線には構わず豚串を手にビールを呷った。

「密造銃ってやつだ。うちの組の商売も色々あってこれが主流ってのはねえんだが、わりと大きい扱いになりそうではあるな。あの男はまあ確かに小者なんだが、中国に知り合いがいるってんで、田舎の工場で密造させてんのさ。それをうちの組に売りたいって言ってる。今後も仲良くしたいってな」

 ナカジマは、豚串を指揮棒のように振りながら続けた。

「へえ」

「しかし銃の質が悪くてねえ。やっぱりメイドインジャパンだろ、何でも。しかも今時洋物もわんさと流れ込んでる時代にだ。中国産だっていい物はいいって言うが、あれはそんなレベルじゃねえやな。ま、それでも簡単に手に入るもんじゃねえから、使えるなら使うつもりではいるが」

 まったく違う世界の話に、意味は分かってもついていけなかった。錠前屋という結局は法に触れることをしていても、銃など見たこともないという意味では哲も一般人だった。

「べらべら喋っていいのかよ、そんなこと」

 ネギを噛みながら訊くと、ナカジマはにやりと笑って言った。

「お前さんだって脛に傷持つ身だろうが。それに、触れて回って死にたかねえだろう」

「そりゃそうだけどよ」

 哲は頷いてネギを飲み下した。

「酒の肴に、こんな話もたまにはいいさ」

「胸焼けがしそうだけどな」

 渋面を作った哲に目を向けて、ナカジマは小さく笑った。

  

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