その手で引き金を 2

「申し訳ないが、引き受けられない」

 秋野は電話越の向こうの依頼人にそう告げた。

 微かな息遣いの背後から賑やかなBGMと複数の笑い声が聞こえてくる。電話のそばにはマナこと女装した耀司がいて、依頼人を見守っているはずだ。

 耀司から電話があったのは数日前。稲盛古書の三代目稲盛が哲の勤める居酒屋に訪れ、仕入屋に会いたいと言ったらしい。哲から耀司に連絡が入り、稲盛と連れは今日ティアラに現われた。耀司の話だと稲盛の連れてきた青年も同じく大学生で、岡本と名乗ったという。

 岡本の依頼──入手したいものとは、一丁の拳銃だった。

「——あなたは何でも手に入れてくれると稲盛が言ってました」

 生真面目な若者らしい生硬な口吻。岡本に会ったことはないが、緊張しながら受話器を握り締めている様子が目に浮かび、秋野はつい微笑んだ。

「もちろん手に入れられるよ」

「じゃあお願いします。お金はちゃんと払います」

「そういう問題じゃない」

 ティアラの窓を見上げて煙を吐く。秋野は隣のビルの一階に立っていた。ティアラの入っているビルはすべての階にテナントが入っているが、こちらはほとんどがテナント募集中のせいで、人気がない。

 秋野のいる一階も随分長い間借り手がつかずに空いていた。清掃が入らない窓はうっすらと汚れがついて曇っている。フロアの四隅に溜まった埃が暗がりで白っぽく浮いて見えていた。

 道路一本挟んだだけなのにまるで別の世界にいるようだ。秋野の側と、岡本の側。

「俺は真っ当な市民でもないし善人でもない。だからってあんたみたいな子供に拳銃持たせるつもりもないよ。本物が欲しいっていうからには、別に飾って眺めたいってわけじゃないだろう」

 岡本の少し荒くなった息だけが電話の向こうから聞こえてくる。ショーの切れ間なのか音量が絞られたのか、さっきまで聞こえていた音楽やざわめきも遠かった。

「誰を撃ちたいか知らんが、手を貸す気はない。傷つけたい相手がいるなら自分の手で何とかするんだな」

 一方的に通話を切り、秋野はつい溜息を吐いた。

 何をしようとしているにせよ、自分には関係ないことだ。そう思うなら今すぐここを立ち去ってしまえばいいのに、どうしていつまでも突っ立っているんだか。少しだけ自分に呆れながら煙草を吸いきる。携帯灰皿を取り出し吸い殻を突っ込んだところで、向かいのビルから二人組が出てくるのが目に入った。片方は知らない顔だが、連れは間違いなく稲盛だ。

 岡本はごく普通の大学生のようだった。稲盛と並ぶと凡庸な顔立ちで、表情がくるくる変わる稲盛と並ぶと無表情なのがやけに目立つ。

 秋野は暗い部屋を出て、ビルの通用口から表に出た。稲盛と岡本の背と少し距離を置いて、のんびりと後に続いて歩く。まだ人通りは多く、隠れる必要は感じなかった。そもそも二人は背後を気にしているわけでもないし、幸運なことにドイツ人観光客の団体がいるようだ。あちらこちらに長身の小集団がいるせいで秋野の背丈も目立たない。

 稲盛と岡本は三叉路で別れ、岡本は暫く歩いて小さなアパートに入っていった。特徴のない典型的な独身者用の物件で、その界隈には似たような建物がいくつもある。眺めていると暗かった窓がひとつ明るくなり、岡本がカーテンを引くのが見えた。

 岡本が誰にも迷惑をかけないただのマニアならいい。しかし、耀司から聞いた様子からしても、電話の雰囲気からしても、そういう手合いとは明らかに違っていた。

 強盗でも考えているのか。それとも誰かに恨みがあって、それを晴らそうとしているのか。思いつめたような緊張感。電話越しにも伝わってきた何か。

 秋野はもう一度岡本の部屋の窓を見上げ、小さく溜息を吐いて踵を返した。

   

 久しぶりに立ち寄る哲の部屋は、相変わらず散らかっていた。汚れているわけではない。掃除は行き届いているのだが、あちらこちらに色々なものが置きっぱなしになっている。

 なぜかドアの前に鎮座するやかんを跨いで部屋に入ると、哲は右足の爪を切っていた。

「何でここにやかんが?」

「お前に何か不都合があんのか」

「いや、多分ない」

「じゃあ文句言うんじゃねえ」

「別に文句を言ってるわけじゃないんだが」

 腰を下ろして勝手に灰皿を引き寄せ、煙草に火を点ける。爪を切るぱちぱちという音が一定の間隔で響いた。

 秋野は最近見ていなかった哲の顔をぼんやり眺めた。一度もこちらを見ていないのは結構真剣に爪と格闘しているからのようだ。袖を捲くり上げた左腕にはまだ傷痕が残っている。又従姉妹だかの付き合っていたホストの仲間にやられた傷だ。

「何だよ」

 じっと見ていると哲がこちらを向いた。そこで初めて左のこめかみに新しい傷と痣があるのに気がついた。

「どうした、それ」

 秋野が指で自分のこめかみを指すと、哲はああ、と言いながら左足の爪を切り始めた。

「この間、店の客が暴れてビール瓶で殴りやがった」

 秋野の呆れた表情を見てちょっと肩を竦め、口元を歪める。

「向こうの方が痛い目に遭ってるからな、言っとくけど。アバラ二本くらいはいったと思うぜ。まあ、確かめたわけじゃねえから」

 哲は切った爪をティッシュにくるんでゴミ箱に捨て、爪切りを折り畳んで立ち上がった。

「飯でも食いに行くか?」

 哲が秋野の組んだ脚の上を跨いだ瞬間に足首を掴んで引っ張った。さすがに避け切れなかった哲が倒れ込んでくる。下敷きにならないように避けたつもりが、寸前で入れられた肘を食らってしまった。

「何しやがる、この野郎」

 秋野は声を立てて笑いながら咳き込んだ。我ながら忙しない。哲はそんな秋野の脚を転がったまま思い切り蹴りつけた。

「痛いな、蹴るなよ」

「うるせえ、馬鹿」

「見せてみろ」

 息を整えて手を伸ばし、転がった哲の髪を掴んだ。意外に大人しくしているとはいえやっぱり哲だから、秋野も油断はしなかった。覆い被さりながらも距離をとりつつ仔細に眺めると、青黒い痣はすでに縁から黄色くなり始めていた。傷には瘡蓋が盛り上がっている。

「お前は生傷が絶えるってことはないのかね」

「傷の何割かは確実にお前のせいじゃねえか」

「そうか?」

「自覚ねえのかよ」

 哲は面白くもなさそうにそう吐き捨て、どけ、と言って秋野の肩を押した。秋野は答えず、屈み込んで哲の瘡蓋に唇を這わせた。

「おい、剥がしたら殺すぞ」

 今まさにしてやろうかと思っていたのに先回りされ、読まれているなと苦笑する。

「先に言うなよ」

 唇を移動させ、そのまま耳朶を強く噛んだ。

「煙草」

「何?」

「煙草吸いてえ」

「後にしろ」

「顎割られてえのか、このクソ虎が。今吸いてえんだよ」

 抵抗もせずに耳を噛まれながらドスのきいた声を出す哲があまりにも哲らしいから、秋野はそのままの姿勢で肩を震わせ暫し笑った。哲が苛立ったように舌打ちする。

 哲の首筋に食いつきながら、ポケットを探って煙草のパッケージを取り出した。手探りで哲の手に押し付ける。哲は寝転がったまま煙草を銜え、パッケージの中に突っ込んであったライターを取り出し火を点けた。吐き出される紫煙が秋野の耳を掠めて立ちのぼる。

「髪に火をつけるなよ」

「知ったことか。焼けちまえ、お前の頭なんか」

 哲は不機嫌に言って、今度は秋野の顔に思いきり煙を吹きかけた。

  

「拳銃って、拳銃か?」

 戯れにあのまま事に及ぼうとしてみたが、手負いの野生動物のように暴れる哲に散々蹴り上げられた。膝がまともに脇腹に入り、頭に来たのでお返しに腹に一発食らわせた後のおでん屋だった。

 大人しくされるままになる気はない、そういう哲がいいのだから抵抗されるのは構わない。それでも、思い切り蹴られれば腹は立つ。

 秋野は大根を箸で割り、頷いた。

「普通の学生に見えたけどな。何に使うつもりなんだか」

「店にいたときも何考えてんのかわかんねえツラしてたけど」

「だからって拳銃を欲しがるようには見えなかった」

「ああ……まあな」

 哲は箸の先でこんにゃくをつつき、岡本の顔を思い出そうとしているのか、視線を宙に彷徨わせた。

「あー、やっぱ全然思い出せねえわ」

「そんなに印象が薄いのか」

「いや、俺の記憶力がしょぼいんじゃねえ?」

「……そうかな」

 哲はいつも記憶力がないと自身を評するが、実際には少し違う。哲の記憶の仕方は変わっていて、実は目や鼻のようなパーツは細部まで覚えている。だが、それをまとまったひとつの顔として認識していないようなのだ。

 だからといって顔の区別ができないわけではないから、相手に対する興味の──種類はどうあれ──有無が大きく影響しているのかもしれなかった。

「どうでもいいけど、最近妙に銃に縁があんな」

 呟いた哲に目を向けると、哲は自分のこめかみを指でさした。

「この傷つけた客、そいつ密造銃を扱ってるんだってよ。前にお前が脇田の件で会ったヤクザいたろ。あのおっさんが店に来て喋ってった。おっさんの組と取引すんだって」

「何でお前にそんな話をするんだ?」

「知らねえ。向こうが勝手にしてったんだよ、俺は興味ねえつってんのに」

「——あんな子供が拳銃だなんて、物騒な世の中になったもんだな」

「じじくせえ」

 カウンターの下で思い切り脛を蹴ってやったら、哲は「痛え!」と喚いて割り箸を取り落とした。

 


 

「いらっしゃいませ~」

 ドアのベルとともに気の抜けた声が返ってきた。平日の真っ昼間からこんな黴臭い店で油を売っていて、大学生と名乗っていいのだろうか。学費がもったいないんじゃないか──と余計な考えが哲の頭を過った。

「あ、どうも!」

 秋野と哲の姿を認めて、稲盛はふにゃりと顔を崩した。この笑顔が同じ大学の女子から可愛いと騒がれているらしい──と秋野に聞かされたのはついさっきだ。人の好みをどうこういう気はないが、哲にはいまいち理解しがたい。

「この間は大変でしたねー。傷、治りました?」

「まあな」

 哲が答える前に稲盛は秋野に向かって興奮気味に話しかけた。

「聞いてください、すごかったんですよー! お客さんの頭でお茶碗割っちゃったんですよ! お茶碗ですよ、すごくないですか!」

「すごいというより、ひどいな」

「ですねえ、ひどいですよねえ。お客さんもめちゃくちゃ怖かったですけど、あの人はビール瓶カウンターで割りましたもんね。さすがに頭では割ってないですもん! やーもうめちゃくちゃ怖」

 哲が歯を剥いて見せると稲盛はカウンターの後ろで縮こまり、秋野はおかしそうに声を上げて笑った。

「ええと、今日は何かお入用ですか、お二人揃って」

「こいつはおまけで、用があるのは俺だ」

「無理矢理連れてきといてオマケとは何だこの野郎」

 秋野はカウンターに肘をついて稲盛と目線を合わせ、低い声で訊いた。

「この間のあれは、何だ?」

「すみません……俺もまさかあんなこと頼むと思ってなくて」

 稲盛は困ったように眉を下げ、手元の古そうな本を弄った。表紙にかけられた薄紙が乾いた音をたてる。

岡本おかもと敏史としふみっていって同じ学部のヤツなんですけど。付き合ってる友達もみんな普通だし、俺と違ってどこにでもいる大学生っていうか」

 一応自分が変わっている自覚があるらしい稲盛はそう言って首を傾げた。

「この間講義でたまたま隣になったからちょっと話したんです。普段から大学で会えば話しますしね。そしたらどうしても欲しいものがあるんだけど普通の店じゃ買えないし、ネットオークションなんて論外だしとか言うから、知り合いに頼んであげようかって──」

「そりゃ売ってないだろうな、実弾入りの拳銃なんてもんは」

 稲盛はやや芝居がかっていると思える仕種でごくりと唾を飲み、秋野の薄い色の目を見上げた。

「何に使うんでしょう……」

「さあ? ただ、普通っていうには無表情すぎる気がしたな」

「そうですか?」

 稲盛は岡本の顔を思い返すようにを手元の本をじっと見つめた。あまり親しくないというから、そこまで注意深く見ていなかったのかもしれない。

「うーん、確かに元々すっごい明るいってタイプでもないけど──よくわかんないや。すいません」

 秋野はカウンターに屈んでいた身体を起こした。背を伸ばして立つ長身は黴臭い古本屋には場違いなようにも、馴染んでいるようにも見える。哲と違ってどこに立たせても目立つくせに、おかしな男だ。

「俺が断ったって、本気で手に入れようと思えばどうにでもなる。巻き込まれるなよ」

「はーい。了解」

 やや青ざめた稲盛に見送られ、秋野と哲は店を出た。

  

「随分気にしてんな」

 秋野があの学生をここまで気にするのは意外だった。確かに、拳銃はごく平凡な国立大学の学生が欲しがるにしては物騒な代物だが、秋野には関係がないといえばそれまでだ。

「あの子本人を気にしてるわけじゃない」

 秋野は前髪をかき上げ、顔をしかめた。風が一瞬髪を巻き上げ、瞳が陽光に透けて金色になる。

「ただ、あのいかにも思いつめてますって感じが気になってな。商店街とか小学校とかで発砲されたら夢見が悪いだろう、さすがに」

「ああ……まあそうだな」

 世間を騒がすその手のニュースは日を追うごとに増加の一途だ。どちらかといえば裏に属する世界で生活していて三度の飯より喧嘩が好きな哲ではあるが、自分に危害を加えない相手に暴力を振るおうとは思わない。まして無差別殺人なんてものは軽蔑の対象でしかなかった。

 ゲームが悪いだとかテレビや漫画が悪いだとかいう意見もあるが、いまいち納得しかねるものがある。いわゆる暴力的な作品を生み出す作者や、そのファン全員が他人に危害を加えて歩くわけではないのだから当然だろう。

 ちっとも悪そうに見えないやつが悪いことをする。気持ちの悪い世の中になったとは思うものの、哲がいくら頭を捻ったところで原因が分かるはずもなかった。

「そういうんじゃないことを願うよ。まあ、変な感じは——」

 秋野は話しながら、勢いよく角を曲がってきた男をひょいと避けた。秋野の左側を歩いていた哲からは秋野の背しか見えなくなる。他人には愛想よく──哲には面倒くさそうに聞こえる謝罪。どちらかというと心が籠っていなくて棒読みだ。突っ込んできたやつに睨まれでもしたのだろう。

 振り返って見ると、秋野にぶつかりかけたらしき男は背を丸め、足早に遠ざかっていった。今時流行らない太いスラックス、派手なロゴの入ったブルゾンの背中。どこで買ったんだと訊ねたくなる服装だ。頭には怪我をしているのかガーゼとネット。その白さがやけに目についた。

「……あれ、あいつ」

「知り合いか?」

 秋野も男を振り返ったが、その姿はすぐに次の角を曲がって消えた。

「茶碗。この間の」

 秋野は哲のこめかみを一瞥し、口の端を曲げて笑った。

「それでやけに前屈みだったのか。かわいそうに」

「だから言ったじゃねえか、あっちのが痛い目に遭ってるって」

「あの男の肋骨よりお前の頭蓋骨のほうが硬そうだしな」

「頭突きしたわけじゃ──触んなコラ」

 秋野が頭に手を伸ばしてきたから力いっぱい払いのけたが、叩き落された手は性懲りもなく哲の頭上を彷徨っている。長い指から逃れようとしているうちに、哲の頭の中の岡本の顔は一層薄っぺらくなって消えていった。

 


 

 

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