その手で引き金を 3

 敏史は狭いアパートの部屋で膝を抱えていた。

 同じ学部の稲盛浩介が教えてくれた男──色々なものを手に入れてくれるという男は、低い声で、敏史の頼んだ仕事は断ると告げた。電話越しに聞く男の声は穏やかで、優しげですらあった。ろくでもない商売をしているオトナなんだから、もっとろくでもない人間だったら楽だったのに、とひとり呟く。

 もしかすると、あの男も兄の伸一しんいちと同じような人種なのかもしれない。

 ひとに胸を張って言えない商売をしながら、伸一はどこまでもお人好しで常識人だった。年の離れた弟にまでそう思われていたのだから、ろくでもない仕事仲間たちが兄をどう見ていたのかは推して知るべしだ。

 明るく陽気なお調子者。そのくせ小心者の兄は、父の連れ子だった。敏史の母は初婚で、父とは社内恋愛。父は当時すでに最初の妻と離婚していたから不倫ではなかったそうだ。

 母と伸一はそこそこうまく行っていた。母はおっとりした性格で伸一をかわいがり、兄もまた母に懐いた。しばらくして産まれた弟も可愛がった伸一だったが、やはり子供心にも屈託があったのかもしれない。高校に入る頃には素行がいいとはいえなくなっていた。

 どうしてあんなことになってしまったのか。

 最近急激に老けた父はそうこぼすようになった。明るくて、優しくて、お人好しの伸一。父によく似た笑顔を持つ優しい兄は、もう戻らない。

 ドアホンを鳴らすまでやや暫く時間が必要だった。敏史は安っぽい合板のドアの前で、何度も足を踏み変えながら指を持ち上げたり下ろしたりしてみた。幸い隣近所の住民は一人も通りかからず、不審者として通報されたりすることは免れた。とはいえ、いつ誰かが通りかからないとも限らない。

 大きく息を吸い込んで、力をこめてボタンを押し込む。音が廊下中に鳴り響いた気がしてつい仰け反ったが、よく考えたらそんなに大きい音のはずがない。自分の情けなさに泣きたくなる。

 暫く反応のないドアの前で突っ立って、諦め踵を返しかけた瞬間に、ものすごい勢いでドアが外側に開かれた。

「としっ、敏史くんっ⁉」

 慌てたせいなのか怪しげな発音になっていた。転がるようにドアから飛び出してきた女は記憶にあるとおり小柄でぽっちゃりしている。薄いピンクのスエットの上下。茶色く染めた髪が傷んで、毛先が黄色くなっていた。

「……こんにちは」

 頭を下げると、女──真理恵まりえの顔が泣きそうに歪んだ。真理恵は黙って目元を擦り、子供のように鼻をすすり上げた。

  

「こんなカッコでごめんねえ。仕事の時はもう少しちゃんとしてるんだよ」

 真理恵はスエット姿の自分を見下ろして、無理にはしゃいだような声を上げた。部屋の中は少女漫画に出てくる女子中学生の勉強部屋のようだった。さすがにアイドルグループのポスターは貼られてないが、あっても驚かなかっただろう。可愛らしい花柄のカーテン、白とピンクでまとめられた室内。男兄弟しかいないからか、なんだか眩暈がした。

 真理恵本人は可愛らしいとはいえない。顔立ちの問題ではなく、いつも泣き出す一歩手前のような表情が頼りなさばかりを際立たせるせいだ。本来は長所のはずの抜けるように白い肌も、不幸そうな雰囲気を助長していた。

 真理恵は何かの景品らしい──これまた花柄──グラスにペットボトルの緑茶を注ぎ敏史の前に置いた。

「はい。お茶でいいよね?」

 元は小さな店のホステス、最近は深夜営業のファミレスで店員をしている真理恵は、飲み物を置く仕草だけは普段の彼女からは想像できないほど優雅だった。

「どうしたの、敏史くんが顔見せてくれるなんて?」

 真理恵は敏史の顔を覗き込んだ。真理恵は顔も平凡だし、スタイルもよくないし、多分学力だって並以下だと思う。だが、底抜けに優しい。相手を包み込むような独特の雰囲気は恋人に対してだけではない。真理恵は老人だろうが犬猫だろうが、頓着せずに慈しむ女だった。伸一が真理恵を心から大事にしていたのは、きっとそのせいだと思う。敏史は真理恵の化粧をしていない顔を見上げた。

「真理恵さんなら誰か知ってるんじゃないかと思って……」

「ええ? 誰のこと?」

「銃が欲しいんだ」

 敏史の囁きを聞いた真理恵は目を瞠り、数度瞬きしてぽかんと口をあけた。

「……何言ってるの、敏史くん──」

「どうしても欲しいんだ。真理恵さんなら知ってるよね、兄貴の友達の名前とか」

「そりゃ、シンちゃんの友達は何人か知ってるけど……」

 真理恵は助けを求めるように左右を見回したが、部屋の中には当然ながら他に誰もいない。

「頼むよ、真理恵さん」

「だめだよ!」

 真理恵の丸顔がくしゃりと歪み、目尻に涙が盛り上がった。

「敏史くんまでシンちゃんみたいなことになったら困るよう」

 子供のようにしゃくりあげる真理恵を見つめながら、敏史はひと月ほど前に執り行われた兄の葬儀を思い出していた。

  

 兄は深夜に道路を斜め横断しようとして車に撥ねられて死んだ。人通りの少ない場所で起きた目撃者のいないひき逃げ事件。多分、全国各地でそれこそ掃いて捨てるほど発生しているのだろう。警察は警察の義務を果たしてくれたと思うが、犯人は結局捕まらなかった。

 心のどこかでただのひき逃げではないように感じていた。両親とそのことについて話し合ったことはないけれど、多分同じようなことを考えたと思う。伸一は結局人生を踏み外したのだ、と。

 両親は、通夜に現われて号泣した真理恵を追い払いこそしなかったが、ほとんど見ることもしなかった。伸一とつきあっていたという言葉を信じなかったのか、信じたくなかったのか、敏史にはわからない。

 喪服ではなく手持ちの黒いスーツを着た真理恵はいかにも水商売に見えた。短すぎるスカート、必要以上にボディラインを強調するようなジャケット、褪色した茶髪。今時、一見水商売に縁がない大学生や会社員だってアルバイトをしている。そんな世の中で、まるでふた昔前のドラマや映画から抜け出してきたような格好の女を参列者は静かに無視した。

 焼香が済んだ後、真理恵に声をかけられた。以前伸一に紹介されて面識があったから無視することはできなくて、両親から隠れるようにして二人で会場の外に出た。

「シンちゃん、ジュウを売ってたの」

「ジュウって……銃? 鉄砲のこと?」

「うん、そう。モデルガンじゃないよ。ほんもののやつ」

 真理恵は涙でぐしゃぐしゃになった顔をハンカチで拭いながら何度も頷いた。

「シンちゃんは、やりたくなかったみたい。でも友達のヤマシロって人に誘われて、断れないってこぼしてたの。でもこんなことしたくないから、何とかして抜けるんだって」

 決して行動的でもなく、人を欺くのに長けてもいなかった伸一。そんな兄の笑った顔が敏史の脳裏に浮かんで消える。一般的なサラリーマンにでもなって、真理恵のような奥さんとささやかに暮らしたほうが性に合っていただろう。

「決めたんだ」

 あの葬儀の日のように涙で濡れた真理恵の頬を睨みつけるように見ながら、敏史は食いしばった歯の間から押し出すように言った。

「ヤマシロって奴と話をするって、俺は決めたんだ。真理恵さん」

 真理恵は真っ赤になった目で敏史の顔を長い間見つめた後、悲しそうにそっと溜息を吐いた。



 耀司からの電話は、背後から聞こえるけたたましい笑い声のせいでひどく聞き取りにくかった。裏返した男声と甲高い女声の四重奏だか五重奏だかにショーの音楽が重なって、冗談のような騒ぎだ。

「お前、電話してくるなら店出ろ、店! 聞こえねえぞ!」

 音楽に負けじと怒鳴ると、電話の向こうで色々な音——ドアの開閉とか、ママを呼ぶ声とか——がして、ようやく耀司の声が聞こえてきた。

「いやー、ごめんごめん。今日何かすんごい混んじゃっててさ」

 急いで階段を上がったか下りたかしたらしい耀司の声は息が上がっている。

「哲、今お店?」

「ああ、休憩中」

 哲はバイト先の裏口にいた。俗にいうヤンキー座りで煙草をふかしながら、携帯を肩と顎の間に挟む。こめかみの瘡蓋が痒くなってきたので、剥がさないよう指先で軽く掻いた。

「今さ、店にヤクザのナカジマさんから電話かかってきた」

「はあ?」

「あの人ってアレだろ、あのパスポートの」

 耀司は以前ナカジマからの電話を秋野に取り次いだことがあり、顔も知っている。

「哲と話したいって」

「俺の勤め先知ってんのに何回りくどいことしてんだ、あのおっさんは……」

「そのへんは知らないけどさ。連絡先聞いたけど、どうする?」

「どうするもこうするもねえだろ。ヤーさん無視して怒らせても仕方ねえ」

 耀司が読み上げる番号を暗記しながら、哲は煙を吐き出した。向かいの店の裏口も閉まったまま、薄暗い路地には誰もいない。煙は酔っ払いのようにふらふら流れ、暗がりに消えていく。

「つーか、お前——言うなって言っても言うんだろ」

「秋野に? 当然でしょ。同じ間違いはしないよ、俺だって」

 哲の溜息が聞こえたのかどうか、耀司はあっさり通話を切った。

 

「すまねえな、手間かけさせて」

 ナカジマはちっとも悪いと思っていない口ぶりで電話に出た。

「何だよ、おっさん。話したきゃ寄ればいいだろうが」

「いや、ヤクザもんが頻繁に顔を出すっていうのも商売には良くねえかなと思ってな」

 本当か嘘か知らないが、ナカジマは殊勝なことを言って小さく笑った。哲は二本目の煙草に火を点け、立ち上がって腰を伸ばした。今日はティアラと逆にこちらは客の入りが悪かった。哲が多少余計に休憩しても誰も困らないだろう。

「この間の、お前さんがアバラ折った男な、あれからそっち行ったかい?」

 想像もしていなかった質問に、煙草をつまみかけた指が途中で止まる。あの話はとっくに済んだことだと思って忘れていた。

「──いや、別に。この間たまたますれ違ったけど、あっちは気づいてなかったみてえだし」

「そうかい。そんならいいや」

「何で今頃そんなこと気にすんだ。おっさんとこと取引がある相手なんだろ?」

 哲は煙草を銜えながら考えをめぐらせた。あのゴルフウェアは、ナカジマの所属する組と密造銃を取引する予定だったはずだ。取引先でもある男の居場所をナカジマが哲に訊ねるというのはおかしな話ではないか。

「まあ、そうさねえ」

「何だよ、なんか揉めてんの」

「お前さんには関係ねえ、と言いたいところだけど……まあ、そういうことだわな」

 ナカジマは僅かに沈んだ声を出した。

「あの男、品物の中にカスみてえなのを半分混ぜてやがったのよ。見た目にはわからねえんだが、撃っても暴発するしか能のない不良品をな」

「そりゃお気の毒様」

 所詮自分には関係のない話だと思うと、哲の返事も素っ気なくなる。

「野郎、特別面子気にするって質でもなさそうだし」

「……粗悪品掴まされたやくざの面子云々に思い至らねえくらいだもんな」

「そうそう、そういうことよ。まあ、そんなんだから今更お前さんのとこにお礼参りに行くとも思えねえけど、もし見かけたら連絡くれねえか」

「見かけたらな」

「頼むよ。どうも仲間も一人殺ってるみてえで、結構真剣に身を隠しちまいそうな雰囲気なんで」

 哲はすでに話に興味を失っていた。ナカジマは独り言のようにまだぶつぶつ言っていたが、面倒になって携帯を耳から離そうとした。その瞬間耳に入った言葉がひっかかり、慌てて携帯を耳に当てる。

「おっさん!」

「おお? だから俺はおっさんじゃなくてナカジマだってえのに」

「ナカジマさん」

「おお! 気色悪ぃな、やっぱりおっさんでいいよ」

「どっちでもいいけどよ、今誰って言った?」

「は?」

 なんとなく耳の遠い老人と話している気分になってくる。

「今、なんとかって名前言ったろ」

「ああ、あいつに殺された仲間の名前な。オカモトシンイチって奴らしいって」

 オカモト。

 どうやっても思い出せなかった学生の強張った顔が、目の前にはっきりと浮かび上がった。




 男はだらしなく歪んだ口元に下品な笑みを貼り付けたまま、敏史に包みを差し出した。

 真理恵から名前を聞いて訪ねた男は、安くて質の悪い銃を仕入れては二束三文で売り捌いているらしかった。しかし、敏史に銃の良し悪しがわかるわけではなかったし、引き金を引いて弾が飛び出さえすれば何でもいいと思っていた。

 素人がそう簡単に狙った的を撃てるものだろうか、という疑問はある。映画やドラマでは誰でも簡単に銃を撃つけれど、あんなふうにやれるものなのか、正直なところ敏史には自信がない。

 今手にしているものがどの程度の品質のものかも謎だった。男の様子を見る限り最上級品でないのは確かだが、わかるのはそれだけだ。

「ちゃんと持って帰ってよ。その辺で出したりしないでね、危ないから」

 まったく心が籠っていない忠告をのんびりと口に出して、男はへらへらと笑った。完全に見下されている。金持ちの学生の遊びだとでも思っているのだろう。男にどう思われても構わないけれど、少なくともこの銃はちゃんと動きますようにと、敏史は腹の底で何かに祈った。

 笑いそうになる膝を必死で抑え込み、男のどんよりとした目を見上げる。

「あの……あと、山城さんに会いたいんだけど」

 男は「やましろー?」と間延びした声を上げて首を傾げ、自分の腕を掻いた。

「なんでぇ? 山城は大口しか扱わないよ、最近。一丁二丁だったら鼻も引っかけてもらえないよ、ボク」

「違うんです、知り合いなんです。俺、山城さんに憧れてて──俺もそういうことしてみたいです」

「そういうこと?」

「でっかい……取り引き、とか、してみたくて」

 何とも説得力のない話だったが、男は特に突っ込まなかった。黙って敏史を眺めていたと思ったら、唐突に携帯を取り出し画面をいじりだした。

「今どこにいるかな──あ、山城? 俺。うん、そう」

 敏史の言葉を信じたわけではないだろう。面倒くさかったのか、面白そうだと思ったのか。男は話しながら唇の端を吊り上げた。

「お前今どこにいんのぉ? え? 隠れてるってナニー、オンナから? え? 違うの。あっそう。なんかさ、今俺んとこにお前にアコガレテるっていう男の子が来てるんだけど。はあ? 男の子だってば」

 男は敏史を横目で見た。

「いや、フツーの子──なまえは? ボク」

「……オカモトです。岡本敏史」

 抱えた包みが急に重たくなったように感じられて、敏史はぎゅっと目を閉じた。

 重たい。冷たい。これは何だ。

 今すぐ投げ捨ててしまいたいと思いながら、敏史はまるで縋るように手の中の銃を握り締めた。

 

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