18

信じられないほど矛盾している

 珍しく雪が積もった。

 例年、積雪があると例えそれが数センチでもJRや新幹線が止まる。ニュースは交通渋滞の状況やどこの列車が何分遅れという話題ばかりになり、画面は道端で転ぶ年寄りや慣れない雪かきに勤しむ住民、溜息を吐きながら通勤するサラリーマンが多くなる。

 今日は寒いから鍋が出るかも知れねえな。だったら調理が少なくて楽だろう。

 バイト先のメニューを考えて何となくそんなことを思う。どうせなら大雪で休みになればいいとも思うが、休みになったからといって特にしたいことがあるわけでもない。

 哲は窓際を離れ、また布団の上に寝転がった。敷布団を敷いているわけではないのだが、マットレスだけなのでベッドと呼ぶのも違う気がする。転がった拍子に身体が痛んで、哲はつい顔を顰めた。

 普段使わない筋肉を緊張させたせいか、滅多にならない筋肉痛なるものになっている。おまけにケツも痛い──というかまだ何かが入っているような気がするし、ご機嫌とは言いかねた。

 動物並みの回復力を誇る──自分で誇っているわけではないがよく言われる──哲でも、さすがに昨日の今日では治るものも治らない。散々噛みつかれてあちこち青くなっているのも腹が立つ。全身だるいし、何もする気になれなかった。

 誰かを殴ってすっきりしたかったが、進んで殴らせてくれる親切なやつはどこにもいないし、一番殴ってやりたいやつもここにはいない。

 バイトの時間まで一日ぼんやり過ごすことに決め、哲は何もない天井を見つめて小さく息を吐いた。




 珍しく雪が積もった。

 うっすらとアスファルトを覆うその色に、どこかしら暖かさを感じるのはどうしてだろうか。

 雪の多い地方では積雪が多いほうが暖かく感じると聞く。最初は信じられないと思ったが、説明を聞いたら納得はした。だが、科学的な根拠はさておき、木枯らしが吹きすさぶ晩秋より白銀の世界の方が確かにふわりと暖かく見える。例え、実際には晩秋の気温の方が高くても、だ。

 秋野は窓際を離れ、朝から何本目かの煙草に火を点けた。

 尾山には電話をして、多香子のことを伝えた。大丈夫かと訊かれたから大丈夫だと答えたが、正確ではない。辛くてたまらないとかそういうことではないものの、大丈夫とは言えない部分も、まだ自分の奥底には確かにあった。

 それでも。

 怒りと喪失感と、何かよくわからない感情にまかせて目の前にいた哲に手を出した。哲だったからなのか、例えば女でもよかったのかどうかはわからない。哲が力の限り抵抗して、思い切り殴ってくれればいいと思っていたような気もするが、そのときの自分の内心なんてもうはっきりとは思い出せない。

 哲は意外とあっさり抵抗を止めた──というか、ほとんど抵抗しなかった。身体を重ねるということは、哲にとってはどうでもいいことなのだろう。自分本位な行動を申し訳なく思わなかったのはそのせいかもしれない。

 あたたかい身体を抱いて、吐き出せないものを別のものに代えて無理矢理吐き出して。

 随分楽になったのはそのせいかと、秋野は身勝手な自分を嗤って小さく息を吐いた。




 午後、哲は目を覚ました。

 転がった後うつらうつらとしているうちに、本格的に寝てしまったようだ。

 暖房の消えた部屋は冷えていたが、窓から外を見ると積もっていたはずの雪は見当たらず、濡れた路面だけがそれが夢ではなかったことを物語っていた。




 午後、秋野は目を覚ました。

 少しだけと思っていたが、すっかり眠ってしまったらしい。哲の部屋から戻った後も眠れず、一晩中起きていたからだ。

 向かいの建物の屋根から滴り落ちる水滴が、雪が融けたことを物語っていた。白い世界はいつもの色を取り戻し、見慣れた街に戻っていた。




 秋野が噛みついたところは赤い斑点の混じる青紫になっていた。あちらこちらに散る痣は色っぽい痕には到底見えず、喧嘩した後の生傷だらけの身体のようだ。

 殴られてできた痣なら、高校時代から数えきれないほど作ってきた。だが、噛まれて痣になったのは初めてだ。そもそも、人間に噛みつかれたことなんか物心ついて以来経験がない。

 野蛮なのもいい加減にしろと、自分の粗暴さを棚に上げ腹の中で秋野を詰る。このままだと、いつか——あいつが常々言っているように——骨までばりばり噛み砕かれそうだ。

 やってる最中に噛まれて死んだら新聞に載るな、と訳のわからないことを考えた。勿論、自ら進んであの男と寝る気はないのだが。

 唇も、舌も歯も、何もかも。

 すべてを食い尽くすように口づけられて、本当に食われているような気分になる。

 秋野と抱き合うことは確かに哲を昂らせる。だが、頭に血が上り目の前が見えなくなったとしても、そうさせているのは快楽では決してなかった。

 甘ったるく喘ぐ声など出るわけもない。喉を震わせる唸りは威嚇の声。腹を見せているのは服従しているからではない。単にあの男のほうが哲より強いから。それだけだ。

 今はいい。あの男が、自分を圧するほど強く獰猛で、残酷であるうちは。あいつの力がもし弱まれば、突き飛ばして腹を裂いてやる。

 信じられないほど矛盾している、この感覚に眩暈がする。

 いつか八つ裂きにしてやろうと隙を窺いながら、いなけりゃいないで、物足りなくてやつを探す。

 まあ、人生ってのは矛盾だらけだ。

 埒もない思考を断ち切って、哲はゆっくりと腰を上げた。




 哲が噛みついた肩にはまだうっすらと痕が残っていた。初めて抱いたときにつけられた傷だ。右手の親指のつけ根にも、目を凝らせばごく微かな痕跡が見える。

 それにしてもあのときはひどく噛んでくれたものだ。結局、舌の傷が完治するまで秋野はなかなか固形物を摂取できなかった。

 今回はあの野犬みたいな男も一応気を遣ったのか、あそこまでひどいことはされなかった。だがそれでも何箇所かは傷があるし、セックスの最中に軽く噛まれた、なんて言えるものではない。

 あの馬鹿は基本的に手加減を知らないのかもしれない。それとも相手が秋野だからか。

 このままだと、こちらがやる前に逆に首を食いちぎられそうだ。哲が自分の喉に食らいつく絵面は妙に現実的で笑えない。骨まで噛み砕くとかなんとかいう前に、こちらが先にお陀仏しそうだ。

 唇も、舌も歯も、何もかも。

 すべてを食い尽くしたいと口づけて、比喩ではなく本当に歯を立て咀嚼してしまいたくなる。そんな嗜好はまるでないのに不思議でたまらない。

 多香子のことでこみ上げる何かを紛らわせたかっただけだった。だが、途中から完全に多香子を忘れていたことを思い出して苦笑する。本末転倒もいいところだ。

 目の前に敵がいれば打ち倒したくなる。

 哲の唸り声はそう聞こえ、それは秋野も同じだった。身体に夢中になったりはしない。ただ、どちらかが勝つまで争いたいだけ。

 あの目でいい。信じるように、微笑むように、慈しむように見つめる瞳なんか欲しくない。多香子のように秋野を見る人間はもういらない。同じものは手に入らない。多香子の代わりは誰にもできない。

 信じられないほど矛盾している、この感覚に眩暈がする。

 いつか食い殺してやろうと舌なめずりをしながら、誰か他人が傷つければ猛烈に腹が立つ。

 まあ、人生というやつは矛盾だらけだ。

 埒もない思考を断ち切って、秋野はゆっくりと腰を上げた。



***



 哲がバイトを終えて居酒屋の裏口から外に出ると、暗がりに秋野が立っていた。顔は見えないが、シルエットが見て取れるくらいには街路灯の灯りが届いている。

「何してんだ」

「待ってた」

 こちらに踏み出した秋野の顔色は、寒さのせいか血の気が失せていつもより少し白い。秋野は背が高くて顔が小さいし、アジア人なのかどうかわかりにくい容貌をしている。肌色が白く見えたら白人に見えるかと思ったこともあったが、どうもそうでもないらしい。

「──飯でも食うか? 俺は店で食ったけど」

「いや、俺も済ませたよ」

 だったら何の用だと思ったが、秋野がどこで何をしていようが、寒空の下凍えていようがそんなのはどうでもいい。

 秋野は歩き出した哲についてきた。並んだ瞬間、秋野から微かに煙草の匂いがした。待っている間吸っていたのだろう。匂いはあっという間に消え、無言で横を歩く秋野の存在も消えたかのように錯覚する。

 目を向けてみれば確かに長身はそこに存在し、積もった雪のように消えたわけではないのだと確認できた。

「雪積もってたよな、そういや」

「ああ、そういえば朝は白くなってた」

 秋野の声は低く、まるで煙のように語尾が掠れて消えていく。

「やっぱり、あっさり融けちまったな。二、三日もてばいいのに」

「何で」

「別に」

 意味もなく立ち止まった哲の一歩先。秋野も足を止めてこちらに視線を向けた。暗い中で、秋野の薄い色の瞳が炯々と輝いて見える。白っぽく見えるのは肌だけではなく虹彩も同じ。凍りついた酒か何かみたいな色だった。

「——大丈夫か」

「……そういうことを訊くくらいなら最初からするんじゃねえよ。アホらしい」

 秋野は口の端を曲げて笑い、そうだな、と呟き行き過ぎた一歩を詰めた。

 たった十センチ。

 立てた指一本分くらいの僅かな身長差だというのに、その分高い秋野の目線が憎たらしかった。見下ろす視線を捉えて睨みつけると、秋野は目を細めてまた笑った。

 乾いた唇がやさしくついばむように哲に触れる。胸糞悪くて吐きそうになった。

「やめろ」

「誰も見てない」

「そういうこと言ってんじゃねえ」

 吐き捨てた哲ににたりと笑ってみせた秋野の顔は、完全に捕食者のそれだ。広い胸を思い切り押しのけ歩き出す。秋野は、今度はついて来なかった。

 まったく、やってられねえ。

 秋野があんなことをするのは、怒った哲を見たがっているからに他ならない。要するに嫌がらせだ。

 肩越しに振り返ると、暗がりの中にごく小さな赤い光が見えた。遠くて暗いから見えないが、煙草を銜えた秋野は笑っているに違いない。多分、あいつも俺と変わらない。優しくしたいわけでもされたいわけでもない。お互いが笑うより怒ったほうが執着が増すとは、一体なんの冗談か。

 哲は肩を竦めて前を向き、今度こそ振り返らずに歩き出した。背後の秋野が踵を返す気配がして、足音が遠ざかる。


 隣にいたいとは思わない。背中合わせで十分。ただ、あの男がそこにいるだけで。


 哲と秋野のどちらかが

 もしかしたら両方が

 そう思った。

 

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