善も悪もない 2

 突風に銀杏の葉が舞った。雨のようにばらばらと黄色い葉が哲の頭上に降りかかる。哲は煩げに右手を振って、舞い落ちた葉を払いのけた。

 哲の着ている黒いパーカーが、黄色の中で奇妙に浮き上がって見える。それはまるで、錠前屋の奇妙な自己主張のようにも見えた。

 哲の喉元の痣は、少し離れた秋野からはほとんど見えないくらい薄くなっていた。あの日観た映画のような黄色の景色に、秋野は薄い色の目を細めた。

「それで、何で俺が必要なんだって?」

 黒い人影はその場に立ち止まり、秋野に鋭い目を向けてきた。哲の険しい目が好きだ、といつも思うことをまた思う。柔らかな表情など決して浮かべないでくれ──と、勝手なことも。また、いつもと同じように。

「その関川かえでって女がつき合ってた男の名前と居所がわかったんだ。そいつの部屋に行ってみて、留守だったらちょっと中を見せてもらう」

「別にいいけど」

「手塚は悪いやつじゃない。まあ、大目に見てやれ」

 ふん、と鼻を鳴らすように返事をすると──恐らく返事だと思う──哲は、落ち葉を踏みながら秋野に近寄ってきた。

 間近で見ると、うっすらとはいえ秋野の噛んだ痕がはっきり見える。秋野は青っぽい紫と黄色に変色している痣を一瞥し、哲の顔に視線を戻した。

 への字に結ばれた口を見る限り錠前屋はご機嫌とはいえないが、さりとて不機嫌というわけでもないらしい。住所を告げ、地図を表示したディスプレイを見せたら、何も言わず一人先に立って歩き出した。

 後について歩きながら、なぜか感じる違和感に首を捻る。よくよく観察してみると、哲が歩道のかなり端を歩いているのが原因だった。どうやら落ち葉が溜まっているところばかり選んで歩いているらしい。

「哲」

「ん?」

「何で葉っぱの上ばかり歩くんだ?」

 不思議に思って訊くと、哲は珍しくちょっと決まり悪げな表情を浮かべた。

「ガキの頃から、何か好きなんだよ」

「……落ち葉が?」

「踏むのが。何か、音がすんだろ、ばりばりって。それが楽しかったんだと思うんだけど」

 思わず苦笑したら思いきり睨まれた。なかなかの迫力だが、秋野は別に痛くも痒くもない。そんなことは分かっているのだろう、哲は忌々しいという顔で舌打ちし、秋野から目を逸らした。

 本当に、懐かないという点を除けば犬のような男だ。昔耀司の実家で飼っていた犬も、散歩に出るとやたらと落ち葉を踏みたがった。犬の弾むような足取りと跳ねる尾が不意に鮮明に甦り、秋野はもう一度喉の奥を鳴らして笑った。

「どうせガキみたいだって言いてえんだろ」

「いや、犬みたいだ」

 哲は不本意だというふうにぐるぐる唸り、少し離れた落ち葉の山の上に飛び乗った。


 関川かえでの男、西岡にしおかりょうの住まいは平均的な水準の低層マンションだった。古くも新しくもなく、市営住宅のように素っ気ない造りになっている。

 長い廊下にいくつもドアが並ぶその建物の一番奥の端が西岡の部屋らしい。

「けどよ」

 哲が秋野の後について階段を上りながら呟く。

「殴られてもう嫌だっつって逃げ出した女が、殴った男のところに戻るもんか?」

「そういうケースが結構多いらしい」

 振り返って言った秋野に哲は納得いかないような顔をしてみせた。哲が女なら、絶対に戻らないだろう。例え男を殴り返すことができなかったとしても、そんな男はさっさと捨ててしまうに違いない。だが、そうできない女もまた、存在する。

「逃げ出すならとっくに逃げ出してるだろう。殴られて辛いのに、それでも男のところに戻る女は一定数いるって」

「それでもあの人が好きなの、ってやつ?」

「さあ。みんながみんなそうとは限らないだろうけどな。かわいそうな話だよ」

「俺には分かんねえな」

「まあ、そうだろうな。お前なら殴り返して窓から捨てるだろ」

「馬鹿野郎、俺は善良な市民だぞ。地域のごみ収集ルールを守って捨てるぜ」

 秋野は廊下を進んで西岡の部屋の前に立った。平日の昼間なので西岡が留守の可能性は高かったが、どちらかといえばそのほうが都合がいい。

 かえでがここにいればついて来てもらうし、いなければまた考えるよりない。誰もいなかったとしても、かえでがここにいるかいないか、判断材料になる生活の痕跡くらいはあるだろう。

 秋野はドアの横のボタンを押した。昔ながらのモニターがないタイプの呼び鈴だ。部屋の中で鳴るチャイム音が微かに聞こえ、かなり待ったが応答はなかった。誰かがドアの向こうで息を潜めている気配もない。何度か同じことを繰り返し、秋野は哲を振り返った。

「悪いな」

 哲はあらかじめ手袋を嵌めてポケットに突っ込んでいた手を出すと、ドアの前に立った。秋野が哲の横に立って身体を隠す。誰かが通りかかっても、自室の鍵を開けようとしている住人とその知人か何かにしか見えないだろう。

 哲の手の中でかちり、と音がし、ドアノブを回して手前に引くとドアが開いた。哲が先に中に滑り込む。秋野は肩越しに哲の動きを見てもう一度廊下に目をやり、誰もいないことを確認してから、後ろ向きのまま玄関に入った。

 背中に哲の背が当たる。極端に狭い玄関に決して小さくない男が二人同時に立つと、狭くて身動きが取れなかった。

「哲、何やってる」

 秋野の背に触れる哲の背骨が微かに動く。二人分の衣服の布地を挟んでいるにも関わらず、硬い骨の感触が伝わってくる。一瞬気が逸れた秋野の背後で、哲のほんの少し掠れた声が低く響く。

「秋野」

「──何だ?」

 哲に名前を呼ばれることはあまりない。秋野は肩越しに振り返ったが、動けるスペースが限られているせいで、哲の髪が鼻先に触れただけで何も見えない。

「俺、じいちゃんの葬式以来見たことねえからよく分かんねえんだけどよ」

「じいちゃん? 何言ってるんだ。訳が分からん」

「……あれ、生きてんのか?」

 ゆっくりと、無理矢理身体を捻ったら、哲が少しだけ脇に避けた。半開きのドアの隙間から、おかしな方向に首を曲げた男の側頭部が見える。

 あの角度はどう考えても首の可動範囲を超えている。頭の半分でそう思い、残りの半分は、今は胸骨で感じる、間近に立つ哲の体温に気を取られていた。




 手塚の診察室は、小さな町のお医者さんと聞いて誰もが想像する診察室そのものだ。古臭い血圧測定器、ぶ厚い学術書が積まれたスチールデスク。患者が荷物や上着を入れる安っぽいプラスチックの籠。触診の時に患者が横たわる黒いビニール張りの診察台。

 手塚は白いバスタオルが敷かれた診察台に腰を落とし、のろのろとした動きで頭を抱えた。

「何で」

 丸めた背を震わせた手塚が、喉の奥からしわがれた声を絞り出す。哲は待合室で待たせてあった。手塚のためには、哲の存在は余計だと思ったからだ。

 あの後、秋野と哲は何も触れず、それ以上部屋に入ることもせず、施錠し直して部屋を離れた。余計なことをして巻き込まれたくはなかったので、例えそこにかえでがいたとしても、当初の予定どおりに連れ帰ったかどうかは分からない。

 だが、哲が最初に見た限りでは玄関に女物の靴はなかったらしい。それに、施錠されていたのだから、あそこにいたということはまずないだろう。

「……彼女が?」

 手塚は顔を上げた。見上げたその顔は血の気を失って真っ青だ。顔色からも、手塚の考えていることはすぐに分かった。

「分からない。その男以外誰もいなかったし、何も見てこなかった」

 手塚は頷き、自分の腿を強く掴んだ。手の甲に筋が浮き出し、握り締められた白衣が細かく皺になる。

 診察室の扉がノックされ、秋野はそちらに視線を向けた。元々暇をもてあましているような個人病院だが、一応今は診察時間内だ。手塚は青い顔を引き攣らせ、ドア越しに声をかけた。

「ごめん、藤森さん、今日の診察——」

 扉を開けたのは、藤森という看護師ではなく哲だった。

「先生、患者さん来てるよ」

 秋野にかける声より穏やかなそれ。特にどんな表情もない哲の後ろから、華奢な女が入って来た。肩より少し長い髪。顔に殴られたと思しき真新しい痣がある。色白で痩せた女は首が細く、なんとなく鷺を思わせた。

「──かえで」

 手塚の声は、ひび割れていた。



 手塚はかえでと二人きり、診察室で向き合っていた。休診の札は自ら下げ、職員は全員帰らせた。

 彼女ら——と言っても受付と合わせて二人しかいないのだが——は、先生の奇行には慣れっこだとばかりに、文句も言わず帰っていく。もっとも、仕事が山積しているわけでなし、給料を差っ引くといわれたわけでもないのだから、却って喜んでいるかもしれない。

 かえではグレーのカーディガンに包まれた腕を所在なげに組んだり、身体に巻き付けてほどいたりしながら患者用の椅子に座っている。手塚は見るともなしにかえでの顔を見た。グレーといっても色々あるのだろうが、灰色というにふさわしい地味な色が、かえでの白い肌を普段以上に不健康に見せていた。

「……先生」

 かえでが呟いた。手塚はかえでの奥二重の目を見つめた。その奥にあるものが何かひとつでも、はっきり見えはしないかと期待して。

「さっきここにいた二人、知り合いなんだけどね。彼らにきみを探してもらっていたんだよ。それで──西岡くんを見つけた」

 手塚は、痞えてしまいしまいそうになる喉の奥から何とか声を押し出した。かえでの唇は微笑みのかたちを作ったが、手塚には泣き顔にしか見えなかった。

「どうしてなのか自分でも分からないの、先生」

 かえでの声はか細い。いつもそうだ。何かに怯え、見つかるまいとするように声を潜める。

「あいつのところに戻るなんてどうかしてるって、自分でも思う。でも戻らなきゃいけない、亮が私を待ってる、そうしなきゃだめだって気持ちになるの。そうやって、ずっと」

 無言の手塚をちらりと見て、また口を開く。

「ここに置いてもらったの、二週間だったでしょう。長く姿を消したって、亮、すごく怒って」

 それでひどく殴られ、咄嗟に手近にあったゴルフクラブで殴り返したのだと、かえでは言った。そのクラブは、西岡が彼女を殴るために部屋に置いておいたものらしい。

「何回も殴ったみたい。覚えてない。気がついたら亮が倒れてて、血が出てて──怖くなって逃げた。先生に、話して……」

 かえでは手塚を見つめて瞬きした。ごくりと唾を飲み込み、一転して決然とした表情になる。

「……警察に行きます」

「行くな」

 手塚が不意に発した強い声に、かえでの肩がびくりと跳ねた。怖がらせたいわけじゃない。俺に怯えてほしくない。手塚はつい握り締めた拳を緩め、息を吐いた。

「ここにいればいい。警察なんか行かなくていい」

 かえでは黙って手塚を見ていた。手塚は恐る恐る手を伸ばし、かえでの両手をそっと掴んだ。一度だけだ。たった一度だけ、手塚の身体に触れた細い指。あのときと変わらない。かえでの手は、白い頬から想像するよりずっと熱い。

「でも先生、私は悪いことをしたんだから──」

「善も悪もない。そんなことはどうでもいい。俺は絶対きみを傷つけたりしないから」

 かえでは瞠った目をゆっくり閉じて俯いた。次に顔を上げたとき、彼女は微かに、だが確かに笑っていた。幸せそうに。

「ここにいてくれ」

 それは手塚が初めて見た、かえでの嬉しそうな笑顔だった。




「気の長い話だよな」

 哲は煙を吐き出した。居酒屋のカウンターにいるのは哲と秋野だけだ。対して小上がりとテーブル席はほとんど埋まっている。日曜の夜だというのに、案外団体客が多いらしい。

 そろそろ飲み会が増えてくる時季だもんなあ、と哲が呟く。大方自分の勤め先の繁忙期のことでも考えているのだろう。

「手塚の希望的観測では、自首したし、長年暴行を受けていたし、正当防衛が成り立つんじゃないか、と。ただ、相手が死んでるからな。過剰防衛になるかも知れない。まあそのへんは専門家じゃないから、俺も手塚もよく分からんよ」

「そうか」

 哲がまた吐き出した煙は、カウンターの向こうに吸い込まれて消えていく。

「しかし殺人は殺人だよな。もし減刑になっても、何年かは待つんだろ? 俺には出来ねえ。あの先生、顔だけじゃなくて気も長えな」

 哲は手塚が聞いたら大笑いしそうなことを言って、洒落たグラスに残っていたビールを呷った。上下する哲の喉仏を何となく眺めながら、秋野はふと思い出した言葉を呟いた。

「善も悪もない」

 哲は空になったグラスをカウンターに置き、ビールのボトルを持ち上げた。ボトルにはまだビールが残っていたらしい。哲は濃い茶色のガラス瓶を弄びながら、横目で秋野を一瞥した。

「──って、手塚が言ってた。あの子が悪いことをしようがしまいが、関係ないんだそうだ」

「そういうもんかな」

「そういうもんなんだろう」

 薄くなった喉の痣。自分がつけた噛み痕だと思うと、何となく不思議な気分になった。哲が秋野の視線に気付き、自分の喉元に手をやり舌打ちする。

「お前もまた別な意味で善も悪もねえって感じだよな」

「噛みついたのが悪いことか?」

「普通はな」

 手酌でビールを注ぐ哲から目を逸らし、煙草に火を点ける。

「捕獲した野生動物の行動観察にはマーキングが必要だ。当たり前だろ?」

「噛み癖じゃなくて標識かよ。どっちも頂けねえ」

 哲はグラスを傾けて面白くもなさそうに笑い、短くなった煙草を揉み消した。

 標識とは違う。

 喉元まで出かけた言葉を飲み込み、代わりに煙を吐き出した。哲が指を伸ばし、秋野の吐いた煙を掻き混ぜる。錠前屋の指先に絡み、纏わりついて薄くなっていく煙。

 煙が消えてなくなるまで、秋野はその行方を黙って目で追っていた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る