12

善も悪もない 1

「こういうのは、フツーに業者呼べばいいんじゃねえの」

 哲の憮然とした声に、秋野と耀司は真面目な顔でかぶりを振ってみせた。

「いやいや、そんなことないよ、哲。恥ずかしいじゃない」

「何が」

「お医者さんが大事なカルテの入ったロッカーの鍵を失くすなんて、ホラ、信用問題だよ?」

「電子カルテにすればいいじゃねえか」

「こんな時代だからアナログのあたたかみっていうものが必要なんだよ多分! きっとそうに違いない!」

 下手くそな台本を読んでいる下手くそな役者のようだ。横に立って力説する耀司を横目で睨みながら、哲はガタガタとスチールロッカーの抽斗を引っ張った。

「つーか、これ」

 そう言いながら力を入れてもう一度引く。耀司が哲の手元を見て眉を寄せた。

「哲、錠前屋なんだからこじ開けないでよ」

「違うって——おら!」

 我ながら威勢がいいというか、下品なというか──とにかく掛け声とともに抽斗が音を立てて手前に飛び出してくる。開きかけたそれを押し戻しながら、哲は耀司と、隣に立つ秋野を交互に見た。

「引っかかってるだけじゃねえか、大事な信用が」



「いや、すみません、本当に」

 手塚という男は、へらへらと笑った。あまりすみませんと思っていなさそうな顔に眉を寄せ、哲は銜えた煙草をぶらぶらさせて秋野と耀司の横顔を睨みつけた。別に手塚と名乗る見知らぬ男に腹を立てているわけではない。

 耀司はさりげなく哲から目を逸らしたが、秋野はどこ吹く風で微笑みを浮かべて見せ、それがまた哲の目つきを悪くさせた。

 手塚はその様子を見ておかしそうに笑っている。

「いやー、まさか引っかかってただけとはねえ!」

 ねえ? と言いながら耀司と秋野を見て、また哲に視線を戻して秋野を見る。

「何なんだ、一体」

「ごめん、哲!」

 哲の呟きについに黙っていられなくなったのか、耀司がいきなりでかい声を出した。

「何がだよ」

「最初から失くしてないんだよね、ロッカーの鍵! でもまさか鍵掛けてない引き出しを開けさせようとするとは俺も思ってなかったし!」

「……ああ?」

 低い声で語尾を跳ね上げる言い方がチンピラ風だったからか、耀司が少し怯んだ売様子で一歩下がった。

「えーと、だから」

「ごめん、佐崎くん。耀司くんを責めないでよ」

 手塚がなぜかやたらと嬉しそうな笑顔で割って入る。

「あのね、秋野の掌中の珠が見たくてさあ、俺が無理言ったの」

「誰が珠だ」

 秋野が低く呟いたから、哲は秋野を見ずに言ってやった。

「俺だろ、俺」

「珠というより手榴弾だと思うけどな」

「うるせえな、俺なんかせいぜい音響手榴弾だろ。てめえはナパーム弾みてえじゃねえか」

「ナパーム弾は丸くないよ、馬鹿だね」

「せんせー、放っといたら終わんないよ、この二人。普段から夫婦漫才なんだから」

 哲と秋野が同時に睨みつけたら耀司は眉尻を下げて「何だよう」と哀れっぽい声を上げ、手塚は朗らかに声を上げた。

「仲がよくて何よりだね!」

「誰が──」

「じゃあ改めて自己紹介します。はじめまして、佐崎くん。手塚てづか和範かずのりです」

 のほほん、という言葉を音にしたような緊張感のない声で、手塚はそう言ってにっこり笑った。


 手塚はひょろりとした体型の男だった。身長は丁度秋野と哲の中間くらい。痩せた身体に面長の顔が乗っている。

 年齢は四十代半ばくらいだろうか。いまいち年齢が分からない顔だ。若い頃は老けて見えたかもしれないが、年齢を重ねるほうが若々しく見える類の顔貌といえばいいか。

 適当に整えられた短髪に銀縁の眼鏡をかけて白衣を着ているが、医師というよりは大学の職員とか研究者といわれたほうが似合う気がする。

「まあ、うだつの上がらない開業医ですねえ」

 手塚は自分のことをそう称してまたもや笑う。とにかく笑顔を絶やさないが、愛想笑いという感じはまったくしなかった。

「専門は内科なんですよ。だからホラ、風邪引いたらうちおいで」

 そう言ってにこにこする手塚の後ろを、肥った女の看護師がのしのしと通り過ぎる。ちらりと見える顔は絵に描いたような鬼婦長だ。今は婦長という役職はないのかもしれないが、それはこの際どうでもいい。

 あの看護師にでっかい注射器を持って追いかけられたら泣くかもしれない。哲は心の中で遠慮します、と宣言した。

 昔懐かしい構えの玄関まで三人を送ってきた手塚は、室内履きのスリッパのまま外に出て、「またね~」とこちらの気が抜けるような間延びした挨拶を投げて寄越した。

「なんだ、あれは」

 哲の台詞に耀司が笑う。

「手塚先生、秋野の知り合いなんだよ。一応普通の開業医なんだけど、秋野も診てくれる」

 秋野は戸籍がないらしいから、健康保険証を持っていないのだろう。そういえばついこの間秋野が風邪で熱を出したときにも、寝ていても治らないような病気になったらどうするのかと疑問に思った。

「なんかどうしても哲に会ってみたいってさ。普通に会えばいいじゃん、って言ったんだけどね」

 弁解する耀司の向こうで涼しい顔をしている秋野を一瞥し、哲は耀司に視線を戻した。

「けど、ああ見えて性格よくねえよな。あれ、わざとなんじゃねえの、抽斗」

 哲はつい顔を顰めた。悪意がないのは分かっていても、試すような真似をされるのは気分がよくない。

「うん、ごめんな」

 無言の秋野に代わって、というつもりなのか。耀司は秋野にちらりと目をくれた後、哲に向かって頭を下げた。



 風が冷たい。ビル風に落ち葉が舞い上がり、足元でかさかさと音を立てる。哲は落ち葉が溜まった場所を見つけては、わざとそこを踏んで歩を進めた。

 子供の頃から落ち葉を踏むのが好きだった。足元で鳴るぱりぱりという乾いた音や、濡れた落ち葉の匂いはなぜか哲の心を浮き立たせるのだ。

 駅前の大通りには両脇にずらりと街路樹が植えてある。自治体で清掃するらしいが、先日の雨で予想外に早く落葉したせいもあり、歩道の隅は乾いたのとそうでないのとを取り混ぜて色づいた葉で埋まっていた。

 そうやって道の端を歩いていたら、秋野が見えた。路上にではなく店の中に、だ。歩道に面した壁がほぼ全面ガラス張りになったカフェの窓際の席に座っている。何気なく見ると、先日会った手塚という男と向かいあっていた。

 哲は店に歩み寄ってガラスを軽く蹴飛ばした。スニーカーだからガラスがどうにかなる心配はない。秋野が哲に気づいて僅かに目を細める。哲は手を上げ手塚に会釈して、落ち葉を踏みながらその場を後にした。


「佐崎くんじゃない。呼べばいいのに」

 手塚はカフェクレームに浮かんだクリームの、最後のひとくちをスプーンで掬いながら言った。甘党で酒飲み、運動なんかほとんどしないくせに針金のように痩せているのだから、自然の摂理は理解しがたいといつも思う。

「いいんだよ」

「遠慮したのかな」

「まさか。興味ないだけだろう」

 秋野がコーヒーに口をつけると、手塚はスプーンを指揮棒のように振って笑った。

「面白い子だよね」

 カップの縁から手塚を見ると、手塚は秋野の目を見つめ、僅かに首を傾げた。

「耀司くんに聞いたよ。前にヤクザと揉めたりチンピラと立ち回りして見せたりしたそうじゃないか、お前のために」

「俺のためなんだかどうだか……どっちにしても、頼んでないことばかりするんだよ」

「まあそう苛つくなよ。カルシウムでも処方するか?」

「間に合ってる」

 手塚はまた笑い、細長い身体を洒落ているが座りにくい椅子の背に凭せ掛けた。

「俺はいいことだと思うよ。お前、多香子さんのこと以来、誰にも興味なかっただろう」

「女ならいる」

 秋野が浮かべた笑みをどう取ったのか、手塚は眉を寄せて首を振った。

「そういうことじゃないのはわかってるだろうにねえ」

 秋野は煙草を取り出して火を点け、手塚に向けて煙を吐いてやった。手塚は煙を手で払い、わざとらしく大袈裟に咳き込んだ。

「俺の清らかな肺になんてことを」

「お裾分けだよ」

「分かった、分かった。もう佐崎くんの話はしないって」

「そりゃあどうも」

「一回会ってみたかっただけだから気が済んだよ。まったく、何で彼のことになるとそう抑えが利かなくなるんだろうねえ」

 秋野はにっこり笑い、さっきより盛大に煙を吐き出した。

「わー! 分かったって! せっかくの休診日なんだから、うちの看護師みたいにいじめないでくれよ」

「俺をからかいたくてわざわざ呼び出したのか」

 今度は手塚を避けるように顔を上向けて煙を吐く。ビルの中に入っている店舗だが、今時のものらしく天井は高くて開放感がある。煙は遠くまでたゆたって、空調のせいか途中で押し戻されてどこかに流れて行った。

 手塚は秋野と同じように煙の行方を目で追いながら「いやぁ」と気の抜けた声を出した。

「俺だって、休日にわざわざお前の物騒な顔なんか見くたなかったんだけどねえ」

 手塚はクリームがなくなったコーヒーを口に運んだ。

「それはどうも、申し訳ないな」

「いやいや。あのね、実は仕事、頼みたいんだよね」

「あんたが俺に?」

 手塚は頷いて秋野に目を向けた。手塚と秋野のつき合いは、秋野が二十歳そこそこの頃からだから、もう十年になる。その間、風邪からちょっとした外傷まで何かと面倒を見てもらったが、仕事を頼まれたことは一度もない。

 煙草を揉み消す秋野を見つめる手塚の顔は真剣だった。手塚とは、手塚自身が言うとおりそれなりに長いつき合いだ。手塚は秋野の商売も来歴もすべて知っているが、手塚自身はごく普通の医者だった。

 健康保険証のない患者を診てくれるなんて言ったらモグリの医者のようだが、手塚医院は決してそういう類の病院ではない。

「女を一人」

 秋野は思わず眉を寄せた。見ず知らずの依頼人ならともかく、よりによって手塚がそんなことを言うとは思わなかった。

「俺が人間と薬を扱わないのは知ってるだろう」

「ああ、ごめん。勿論分かってる」

 手塚は慌てたように、なぜかまだ握り締めていたスプーンをソーサーの上に置いた。

「お前がそういうの嫌いなのは知ってるよ。長いつき合いだろ。そうじゃなくて、見つけて欲しいんだ。居所を知りたい」 

「人探しは専門じゃない」

「うん──知ってるけど」

 探偵事務所だとか、そういうところに頼みたくない理由でもあるのだろう。秋野は、カップの縁を撫でている手塚の微かに震える指先から視線を外した。

「……分かったよ。あんたには世話になってるから」

「すまない。恩に着るよ」

「そんなのはいいから、哲のことは放っといてくれ」

 溜息を吐きながら言ったら、手塚は頷いて小さく笑った。


 カフェを出た秋野と手塚がその足で向かった先には、ごく普通の集合住宅だった。

 外側に剥き出しの階段がついた四角い建物は、どこからどう見てもよくある独身者向けのアパート。築年数は十年かそこらだろうか、安っぽい外壁のサイディングが傷んでいるのがやけに目についた。なんとかマンションという名前がつけられているようだが、どうみても木造に見える。

「彼女、ここに住んでるはずなんだけど」

 秋野は手塚と連れ立って、帰り道の途上にあるという女の住まいを見に来ていた。手塚が訪れた限りでは、彼女は戻っていないということだった。

 女の名前は関川せきかわかえで、ごく普通の女らしい。もちろん保険証は持っているが、医者にかかり、DVの被害者と知れれば通報されるかもしれない。警察沙汰にはしたくないというので相談した知人がたまたま尾山と知り合いで、そこから手塚のところにやってきた。入院するほどの怪我ではなかったが、かえでは二週間ほど手塚医院にいた、と手塚は説明した。

「ひどいもんだよ、身体中痣とか切り傷とか、骨折の痕もあったし……。女相手にあんなことをするなんて理解できない」

 バツイチの手塚は首を振った。

「別れた女房にいくら腹を立てたって、殴ったことなんかなかったけどねえ」

「誰もがあんたと同じ常識人とは限らない」

 秋野は関川かえでの部屋の窓を見上げた。この時間だと照明も点いていないし、ここから見るだけでは不在かどうか分からない。だが、何度か訪れてみた手塚がいないというならいないのだろう。

「で? あんたはその女をどうするつもりなんだ」

 手塚は弱々しい微笑を浮かべただけで何も言わず踵を返した。ゆっくりと歩いていく手塚にはすぐに追いつく。数歩後を歩いてくる秋野を振り返らず、手塚は僅かに俯いたまま呟いた。

「寂しくて、心細くて、怖かったんだろうな」

 横に並んで手塚の横顔に目を向ける。どこか焦点が定まらないまま足元を見つめる手塚は、今ここにはいない女の顔を見ているようだった。

「だから、一番近くにいた俺に縋りついたんだろうね。分かってるんだ、俺も子供じゃない。いい年したおっさんなんだから」

 手塚は一瞬眼鏡の奥の目を伏せた。

「でも俺は、彼女を守ってやりたい。彼女を傷つけるばかりが男じゃないって、言ってやりたいんだよ」

 関川かえではまだ二十代後半、ごく普通の会社員で、地場の小さな企業の庶務課に勤めているという。かえでは、つき合い始めて三年が経つという恋人が何かにつけて殴るのだ、と言って泣いたそうだ。手塚が警察に行くことを勧めても、かえでは頑として首を縦に振ろうとしなかった。

 もう限界です、と呟いたかえでに手塚に対する媚はなかった、そう手塚は言った。勿論手塚の主観だから、確かにそうだったかどうかは分からない。だが、例え媚があったとしても、なかったとしても、手塚がよければいい。彼女の真実は、秋野にとってはどうでもいいことだ。

「彼女の片目の上がさ、ぶす色の痣になってて。右の足首も捻挫してぱんぱんに腫れてたよ。で、手を差し伸べていいのかって悩んじゃってね」

「嫌がられることはないんじゃないのか。助けてくれるっていうのに」

「……ああ、そうじゃなくて、物理的に触れてしまっていいのかって」

 そのときを思い出したのだろう。伸ばしかけて思い止まり、行き場のなくなった手を彷徨わせるように眼鏡の縁に触れながら、手塚はそっと囁いた。

「入院していけばいいよ、って言ったんだ」

 手塚の声は聞き取りにくいほど低かった。

「彼女が顔を上げて俺を見て……泣いて充血した目を見てたら、胸を抉られるような気がして」

──きみの好きなだけ、ここにいなさい

 俺はそう伝えたんだ、と続けた手塚の声が流れていく。秋野は頷き、小さな溜息を漏らした手塚の横顔から目を逸らした。




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