13

愛を騙る手足

 哲は隣に横たわる身体をまじまじと眺めた。閉じられた瞼、薄く開いた柔らかそうな唇。意外に睫毛が長い。何度会っても一度で名前を思い出せたためしがない。何だっけ。

 ミホ? いや──ミキ。そう、ミキだ。

 哲が身動きすると、ミキがゆっくりと寝返りを打つ。触れていた腕が離れたので、起こさないようにベッドから這い出した。哲もミキも痩せ型だが、それでもさすがにシングルベットに二人は狭い。無意識に縮こまっていたのか、身体のあちこちが凝り固まって痛かった。

 外はまだ陽が昇りきっておらず、薄暗い。普段ならまだ眠っている時間だが、もう一度眠れる気はしなかった。



「ねえ、お茶ちょうだい、ササキくん」

 あれは夏の終わり頃だっただろうか。バイト先の居酒屋で突然声をかけられ、テーブル席を布巾で拭いていた哲はカウンターを振り返った。無邪気な少女のように真っ直ぐ手を挙げているのは、哲より少し若い女だ。しかし、その顔には見覚えがない。

 哲は自分の格好を頭の中で点検してみた。紺色の無地のTシャツ——揃いではないから制服ではないのだが、黒か紺のTシャツ着用と決まっている——これも紺色の腰から下の前掛け。それからジーンズ、頭に巻いたタオル。ちなみに、タオルも衣装みたいなものだ。それはどうでもいいが、とにかくどこにも名前は書いていないはずだった。

 首を傾げながらも茶を汲んで女の前に置く。彼女は「ありがとー」と言いながら両手で茶碗を持ち上げた。哲の不審そうな表情に気づき、一瞬置いて爆笑した。

「やだぁ! ミキだよー! スッピンだからわかんないかなあ」

 そう言われて穴の開くほど見てみたら、やっと女が誰か哲にも分かった。彼女は近くのわりに高級なクラブのホステスで、この居酒屋の常連、ミキだった。

 普段のミキは露出度の高い格好で濃い化粧をしている。若い女特有の濃すぎるアイメイク。元の顔立ちが分からないくらいきれいに塗られた化粧は、逆に印象に残らない。

 哲からしてみれば虫の足か何のように見える睫毛と黒いラインで囲まれた目は、実際はこんな形だったのかと単純に驚いた。

 普段は巻いている髪を真っ直ぐに下ろしたミキは、ジーンズにTシャツという軽装だった。化粧は薄くしかしておらず、案外と地味な顔立ちだったことが知れた。

 ミキはけらけらと笑って哲を見上げた。

「あれは仕事着だよ、メイクも合わせてね。メイクするのは大好きだけど、時間かかるから休みの日はしないんだぁ」

「……そのほうがいい。あの化粧怖えよ」

 哲が頷くと、ミキはガハハと大口を開けて笑った。



 あれから数ヶ月、時たまこうやってミキの家に泊まる。お互い恋人だとは思っていない。秋野に女はそんなもんじゃないなどと言ったことがあるが、ミキ個人に限って言えば、当てはまらないように思う。ミキは至って単純明快な女だ。それともこの年頃は皆そうなのか。

 秋野ほどではないだろうが、哲も女に不自由したことはない。ただ、いつでもそれなりに相手はいたが、恋愛していたかといわれると多分違う。だから、偉そうに言ったものの、実際のところ女心というやつはよく分からない。

「ササキくんの見た目、好みなんだよねー」

 初めて寝た日、ミキはあっけらかんと言った。

「ねえ、たまにしようよ。ミキ、まだまだ遊びたいし、ササキくんのカノジョにはなれないけどいいかなあ?」

 病気さえ持ってなければ別にいい、と哲が答えると、ミキはまたげらげら笑った。

「はっきり言うー。ミキもそのほうがいいけど」

 大体において、自分自身を名前で呼ぶ女は好みではない。職業で差別するつもりはまったくないが、水商売の物慣れた女も好みとは言えない。ミキには好意を持っているが、それは女友達全般に抱く好意の域を僅かも出てはいなかった。だが、哲も健康な二十代成人男性だからミキの存在はありがたかった。

 哲はミキの寝顔を一瞥して、床に落ちていたジーンズに足を突っ込んだ。



 このところ朝晩の冷え込みが厳しくなってきた。そろそろ冬も本番だ。哲は寒さにも暑さにも強いほうで、冬は常に人より薄着だ。それでもさすがに今着ている薄手の上着では寒くなってきた。

 ミキの住んでいる安っぽい木造アパートの入り口で煙草を取り出す。高級クラブに勤めているくせに、住めればどこでもいいらしい。

 建物の中なので吹いていないが、風を遮るように手で火を囲うと掌が温まる。煙を吐きながら屋外に出ると、吐き出す息と煙で顔の前が真っ白くなった。

 早朝の薄青い空気に、まだ点いたままの街路灯の黄色い光が転々と浮かび上がっている。連なる光がここにはいない誰かの目に見えて、哲はつい顔をしかめた。

 何だって朝っぱらからあんな男のことを思い出さねばならないのか。特に思い出したい顔でもないというのに。

 しかし、考えてみれば、手塚のごたごたがあってから二、三週間会っていなかった。特別な理由はなくて、用事がなかったというだけだ。秋野に会いたいと思ったことは一度もない。だが、会わなければ会わないで何か物足りない日常になるのも否定できいのがどうにも腹立たしい。

 久しぶりにあの物騒なツラでも拝むか。そう思い直して、哲は自宅とは逆の方向に歩きだした。



 秋野は最悪に不機嫌だった。

 この時間だから寝てるだろうなと思いながら一応ドアホンを鳴らしてみると、暫くして誰何の声もなくドアが開いた。その場で回れ右をした肩が後ろから掴まれる。

「何だ、一体」

 勿論、掴んだのは秋野の手だ。指は細いが、長くて手がでかい。そして、見た目からは想像できないくらい力が強い。

「お前、すげえ機嫌悪そうだから帰る。とばっちりを食うのはごめんだ」

 秋野は苛々とフィルターに歯を立てながら哲を睨んだ。

「呼びつけといて帰るな」

 呼びつけたって言ったって玄関までじゃねえか。そう思ったが、この状況でわざわざ口に出すほど馬鹿ではない。哲は諦めて溜息を吐き、肩を掴まれた手を振り払い、秋野を押しのけて部屋に上がった。

 秋野は黙って背後からついてくるが、圧迫感で朝から気が重くなった。やっぱり来るんじゃなかったと、自分の気紛れを心底後悔する。

 秋野の部屋は今日もきれいに片付いていた。何度か来たが、散らかっているのは見たことがない。というか、生活感が希薄なのだ。

 必要最低限のものはあるが、住人の個性を感じさせるものはまったくない。哲の部屋もいい加減質素だが、適当に投げ出した服やら何やらが、一応哲という個性の発露でもあった。

 秋野の場合は、そもそもこういうありきたりの部屋に住んでいること自体に違和感がある。ブランド名が書いてあることもないし、シンプルなものばかりだが、それでも秋野の着ているものにはいつも金がかかっている。野暮ったさとは無縁な男だから洒落た部屋に住んでいそうなものなのに、ここはそこそこ広いだけで、どこからどう見ても普通、としか言いようがない。

 室内は相変わらず物がなく、乾ききったシンクが何日か部屋を空けていたような印象を与えた。広さはあるからソファがあるが、それ以外に大きな家具はほとんどない。秋野はいつものように床に座ってソファに頭を預けた。長身なので、そうするとほとんど仰向けに寝たような格好になる。

 特に話したいこともないので、秋野の斜め向かいに腰を下ろして灰皿を引き寄せた。薄茶の目が哲の手の動きを追いかける。無意識なのだろう。視線は動いているが、焦点が微妙に合っていない。哲は黙って煙草に火を点けた。


 哲が三本目の煙草を吸い終わった頃、秋野がようやく身体を起こした。既に太陽は昇って、室内は明るくなっている。朝日に照らされた秋野の瞳は黄色っぽく見え、肉の削げたような顔は相変わらず表情がなかった。

「何か、飲むか」

 長い間黙っていた秋野の声は僅かに掠れ、途中で一度ひっかかった。哲が首を振ると、秋野は床の上に投げ捨てられていた煙草のパッケージに手を伸ばした。

「こんな朝っぱらから珍しいな」

 哲は普段、用事がなければ大抵昼少し前まで眠っている。夜明け直後に秋野を訪ねるなんて、今までしたことがない。

「女のとこにいたんだけど、何か眠れねえから」

 そう言って思わず欠伸をする。女、と聞いて秋野の表情がちょっと動いた。そういえば、前に今の女が面倒だとか何とか言っていたような気がする。たまに身体を重ねるだけの女が、優しくしないと拗ねるとか。

 哲に言わせれば女なんてみんなそうだ。男とは違うのだから仕方がない。

 秋野を窺うと、心なしか苦い表情が浮かんだような気がする。もしかしてこいつも女のところにいたのかと、乾いたシンクに目をやって思う。もし女と揉めて不機嫌なのだとしたら、それこそ触らぬ神に祟りなし、だ。

「愛してる」

 いきなり秋野が吐き捨てた言葉があまりにも予想外だったので、哲は間抜けな声で訊き返した。

「はぁ?」

「——そう言われた」

 秋野は煙草を乱暴に揉み消して片手で髪を掻き回した。

「あれだけ言ったのにな」

 だから言っただろ、と声に出さずに呟く。

 ミキみたいな女もいる。しかし、たとえ遊びであっても秋野がミキのようなタイプを相手にするとは思えない。利香の母親の話を聞いた上では尚更そうだ。

 相手が余程割り切った女か、それとも他に心に決めた男でもいるか。そうでなければ、いずれ秋野に独占欲をもつのは想像に難くない。

 秋野は優しげに見えて冷たいところがある。真っ当なことを言っていても、どこか壊れているところもある。それは欠点でもあり、秋野が秋野である所以でもあると哲は思う。そして多分、女はそこに惹かれるのだろう。

 身体だけだとしても、秋野が選んだ女だ。そんな女が、どれだけ短い時間でも、秋野に笑顔を向けられ抱きしめられて平気でいられるわけがない。もっとも、その感情が本当の愛とは限らないが。

「……本当に女は面倒だよ」

「きれいな女か?」

 秋野は横目で哲を見て頷いた。訊くまでもないだろう、というような顔が癪に障るが、まあそこはどうでもいい。

「まあな」

 煙草のパッケージに伸びた秋野の手が、先程吸ったばかりなのを思い出したのか、寸前で止まる。行き場をなくした指は暫し彷徨い、床を叩いた。

「顔もそうだが、綺麗な身体をしてる」

「女の手足は簡単に愛を騙るよな」

 哲は秋野の手を見るともなしに見ながら言った。秋野の指の動きが止まる。秋野の指も長くてきれいだ。女の指のようではないが、もののかたちとして美しい。

「きれいなら、尚更」

 目を上げると、秋野の底光りのする薄茶の瞳が哲を見ていた。

「女自身だって、本当かどうかわかんねえんだろ」

「……」

「愛してるなんて女に言われて、心底信じるわけじゃねえけど。俺は騙されるのも嫌いじゃねえけどな」

 秋野は哲を見据えたまま、ひどく低い声で呟いた。

「だったらお前が騙ってみせろ」

 眇められた目に見据えられ、喉が詰まって呼吸ができない。秋野のしゃがれた声が部屋のなかにやたらと響く。

「お前が騙るなら騙されてもいい──哲」

 秋野は身動きひとつしないのに、首を絞められているような気がした。喉をせり上がる吐き気にも似た恐怖に胃が締めつけられて冷や汗が滲む。

 一体何を恐れて──怯えているのか、自分でも分からなかった。



 秋野は突然勢いよく立ち上がると上着を引っ掴み、足音も荒く出て行った。

 哲は呆然と座り込んだままドアが乱暴に閉まる音を聞いた。圧力の元が消え、冷えた指先が徐々に体温を取り戻す。

 指の痺れと同時に腹が立ってきて、哲は目の前のテーブルを蹴りつけた。灰皿が音を立てて動き、テーブルとその上に置きっぱなしの秋野の携帯に細かな灰が散る。

「……あの馬鹿、思ってもいねえこと言いやがって」

 哲は奥歯を噛み締めながら独り言ちた。騙されてもいいなんて微塵も思っていないくせに、よく言いやがる。言われるがまま騙ってやろうなんて気持ちは微塵もないが、そんなことをしてみろ、八つ裂きにされて捨てられるのが落ちだった。

 それとも、そうしてでも、俺の喉笛に喰らいつこうという魂胆か。哲はようやく痣の消えた喉元に手をやった。躾の悪い猛獣には手を焼きっぱなしだ。

 溜息を吐いて床に転がる。あの様子だと秋野はしばらく戻ってこないだろう。哲はミキの肢体を思い浮かべながら目を閉じた。ミキは口にする言葉も身体も正直だ。俺はそんな女でいい。

 寝不足なせいですぐに眠りに引き込まれそうになる。朦朧とした哲の脳裏に、細いミキの手足と、秋野の薄い色の瞳が同時に浮かぶ。

 それはゆらゆら揺れて混じり合い、哲の意識が感知する前に、泡沫のように静かに消えた。


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