13.5
この声は届かない
秋野は叩きつけるように部屋のドアを閉めると、大股で外へ出た。
この季節にこの上着では寒すぎる。今更ながらそう気付いたが、部屋に戻る気にはなれなかった。
哲がいるから。
今目の前に哲がいたら、殴るか蹴るか、とにかく何をするか自分でも分からなかった。
初めて会ってから、あと数ヶ月で一年が経つ。たった一年。それだけの短い時間で、あの男は秋野をナイロンザイルで縛り上げるかのように、がんじがらめにしてしまった。
どうやってでも手に入れたいと願いながら、決して手に入れたくないと願う。相反する望みに、どうしたらいいのかまるで分からなかった。
ポケットに手をやり、煙草を忘れたことに気付いた。舌打ちして白い息を吐く。煙草の煙を吐くように。
抵抗する哲の動脈に、歯を立ててみたかった。
ぎちり、と音を立ててあの首を喰いちぎってやりたい。
決して殺人願望ではないし、嗜虐趣味とも違う。実際に哲を手にかけたいということではない。相手を痛めつけて快感を得る性癖もない。
そうではなくて、もっと、原始的な何か。
動物が威嚇しあうようなものかもしれない。背中の毛を逆立て、唸りながらお互いを見つめたままぐるぐる回る獣。自分と哲の行動にひどく似ていると思う。
以前哲に言ったことは嘘ではなかった。哲を見ていると興奮する。しかしそれは縄張りを荒らされた動物のような昂りで、性的なものではない。
いや、それともその二つは遠いようで近いのか。秋野は自嘲気味に口元を歪め、足元に視線を落とした。
愛なんてものは欠片もない。だからこそ、興奮が直接性欲に変わるのか。
噛み殺す代わりに抱くのか。
実行するのは呆気ないほど簡単だろう。しかし、それで何が変わるのかと自分に問うてみても、何の答えも出はしなかった。恋愛なら、好きだというならそれで済む。それで済めば、どれだけ簡単だっただろう。
そして、どれだけ退屈だっただろう?
秋野はまた口元を歪めて笑い、何を嗤っているのかと、自分自身に問いかけた。
かじかんだ手でドアノブを捻ると、鍵は開いたままだった。リビングのドアを開けてみたら床には哲が転がっている。寝不足だと言っていたからあのまま眠ったのだろう。
寝ていてもまったくかわいらしくない男だ。仏頂面と表現してもいいくらいの寝顔が妙におかしくて、秋野は思わず声を出して笑った。哲を跨ぎ、哲の頭の横に腰を下ろす。どうしても吸いたくて外で買った煙草をポケットから引っ張り出し、火を点けた。
灰皿がテーブルの端までずれ、天板に灰が飛び散っている。出ていく前はきれいだったから、哲が蹴飛ばしでもしたのだろう。やれやれ、と呟き、容疑者を見下ろした。
哲はぐっすり眠り込んでいた。この寒いのに暖房もつけず、布団にも入らず、こいつの身体はどうなっているんだか。
秋野はテーブルの上に置きっぱなしにしていたこれまた灰まみれの携帯を手繰り寄せ、さっと払ってから携帯の番号を打ち込んだ。呼び出し音が何度か鳴って相手が出る。
もしもし、と小さな声がした。
「俺だ」
低く呟いた声に、相手が黙り込む。
「なあ、もうやめよう」
泣かれては堪らないと思ったが、泣き声は聞こえてこなかった。ただ、女の発する沈黙だけがそこにある。
切れた電話を見つめて暫しの間ぼんやりする。誰とも繋がっていないなら、こんなものはプラスチックと金属の塊でしかない。秋野は携帯を弄びながら、静かに煙を吐き出した。
傍らで無防備に横たわる刺々しい気配の男に目を向けてみた。自分の瞳に優しさも、愛しさも浮かんでいないことは分かっている。
滲み出しているのは多分、獲物を見つめる動物のような熱っぽさと、飢餓感と。
「……俺が欲しいのはお前だけだ、哲」
この声は哲には届かない。届かなくていい。
俺のものになんかならないでくれればいい。そう、さっきのは嘘っぱちだ。
愛を騙る——語るお前なんか見たくない。
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