屋上の手すり、錆の匂い 2

 耀司が言うには、秋野はヤクザからの依頼を引き受けることは基本的にないらしい。しかし、よく考えてみればそもそもヤクザが彼らに何かを頼んでくること自体ないだろう。脇田もその次の依頼人も、断るために会いに行っただけだった、と耀司は言った。

「だけど、脇田は事情があって──っていうか、別に同情したわけじゃなくて、泣いて騒いで大変だったんだってさ」

「ふうん」

「で、あんまりひどいから最後には秋野ももう分かった分かった、ってなったって。要するに面倒くさくなったからさっさと引き受けて終わらせたかったんじゃない。あいつ意外と投げやりなとこあるから」

 そういうわけで渋々依頼を受けることになり、耀司が脇田の簡単な調査をしたらしい。だから、住所が耀司の手元に残っていたのだ。

 耀司から住所を聞き出した哲が単身訪れた脇田弘樹の住まいは、ごく普通のマンションだった。

 帰り際、哲は関係ないんだから関わらない方がいい、と釘を刺された。確かにそうだ。別に積極的に関わりたいという意欲があるわけではなかったが、知ってしまえば無関心でいるのは難しい。

 いや、それも少し違うたと、足を止めて宙を睨んだ。哲は他人にあまり興味がない。友人は普通にいるし、付き合っていた女の数も多分人並みだ。それでも、人間に対して深く関心を寄せることがあまりない。

 知り合って数ヶ月の秋野の仕事にヤクザが首を突っ込んだからと言って何だというのだ。それ以前に秋野とは、自分にとって一体何なのか。

 哲の中の秋野が立つ位置は、どことは言えない不可解な場所だ。単なる知り合い、仕事の関係者でしかないはずだ。嫌いではないが別に好きでもない。友人でもない。どうしてそんなふうに、自分の中に存在しているのか分からない。

 ぼんやり突っ立っていくら考えてみても分かりそうもなかったから、諦めてマンションに足を向けた。

 脇田の部屋を見たところで何がわかるとも思えなかったが、店は定休日だし、部屋にいてもどうぜすることもない。哲はそう自分に言い訳し、マンションの一階のガラスの扉を押し開けた。

 築年数は結構経っていそうだが、新築当時はそれなりに高級だったのだろう。ロビーはそこそこに広く、自動販売機が何台か置いてある。自動販売機の前に立っていた男がこちらを振り返って哲を見たので、哲はその場で足を止めた。黒っぽいスーツを着込んで、右手にお茶か何かのペットボトルを持っている。

 エントランスの照明は、今時の間接照明とは違って白色が眩しい蛍光灯。すべてが灯っていないのは経費削減で間引かれているのか、単に切れているからなのかは判然としなかった。

 薄暗い中でも目に入ったその人物の特徴は、間違いなく耀司の言っていた依頼人──二人目のヤクザだった。

「脇田の部屋、開けてやろうか」

 何か考える前に口をついて出てきた言葉に、男は細い目を見開いて哲を見た。相手は哲のことなど知りもしない。声をかけなければ、住人だと思って無視されただろうに。

 胸の内で自分自身に悪態を吐いたが、そもそもここまで足を運んだ時点で何かがおかしいのは自覚しているのだから今更だ。

「脇田って人を探してるんじゃねえの」

 男は質問にどんな意図があるのか窺うように哲を眺め、ペットボトルの烏龍茶──近づいてきたからラベルが見えた──の蓋を開けた。

「そういう兄さんは誰で、ここに何しに来たんだい」

「会社の金をポケットした奴だって聞いたけど。そりゃルール違反だよな」

「……兄さんが誰のことを言ってるかはともかく、そういうことはしちゃいけねえな」

「そいつの居所探してるんだろ? それで仕入屋に会ったって聞いたんだけど」

「……」

「あいつ、何か喋った?」

 多分、何も。耀司も同じ意見だったし、秋野をよく知らない哲でもそう思った。ヤクザは脇田の偽名を聞き出そうとして秋野を呼び出したに違いない。しかし、知っていようがいまいが、秋野はそれを教えないだろうという気がした。

「残念ながら、知らないんだとさ」

 男はそう言って物騒な笑みを浮かべた。

「一晩眠ったら思い出すんじゃねえかなと期待してるんだけどねえ、どうだかなあ」

「仕入屋は何も知らねえんじゃねえかなと思うぜ」

 男は烏龍茶を一口飲んで、哲に目を向けた。暗がりから蛍光灯の真下に出てきた男は、耀司が言っていたとおり──もっとも、耀司も実際に会ったわけではないのだが──キツネを彷彿とさせる顔をしていた。

「どうしてそう思うんだい」

「普段の仕事のやり方見てたら何となく。慎重だから何でも面倒くせえくらい手間暇かけるし、手順踏むし。余計な事実は知りたくねえって考えたら何も知らないまま頼まれたものだけ用意しようとするに決まってる」

 ペットボトルの蓋を締め直しながら、男は自分の足元に目を落とし、何か考え込んでいるようだった。

「なあ、俺はあいつにでかい貸しを作りたいんだよ、おっさん」

 哲は男の顔を覗き込むように半歩近づいた。男が哲をじっと見返してくる。ヤクザ以外の何ものにも見えない粘りつくような視線を真正面から受け止めて、哲は片笑みを浮かべて見せた。

「あの胸糞悪い男に首根っこ押さえられてんの、何とかしてえんだよ。だから、俺が脇田って奴を見つけてやる」

「あんたがかい」

「条件は、あんたが仕入屋を忘れること。それで俺はあの男に一生分の恩が売れる。だろ?」

「そうさなあ──」

「あんたを騙して俺に何の得があるか考えてみたらいいじゃねえか」

 男は頷いて踵を返し、中身の残ったペットボトルを自販機の横に備え付けられたごみ箱に放り込んだ。がらがらとボトルが崩れる音がして、男がゆっくりと振り返る。

「まあ、いいだろ。そこまで言うなら必ず見つけてもらうよ、兄さん」

「分かったよ。俺だって貸しを作るどころか、ヘマして山の中に埋められたくねえし」

 男は含み笑いをして一歩踏み出し、今ようやく思いついたという様子で改めて哲を眺めた。

「ところで、兄さんは誰なんだい」

 エレベーターのボタンを押し、キツネ面のヤクザを肩越しに振り返る。哲はポケットに手を突っ込み、男に背を向け呟いた。

「──錠前屋」


 川端の太い眉はまるで二匹の毛虫のように見えた。

 海外の映画俳優でも頭髪が薄い方が髭や腕の毛が濃いことがある。男性ホルモンが多いとそうなりやすいと聞いたことがあるが、頭髪と違って男性ホルモンでは頭を守れまい。人体とは不思議なものだと、哲は場違いな感想に浸った。

 苦虫を噛み潰したような川端の表情は、哲が訪れたときからひとつも変わっていない。

「頼むよ、おっさん。いつまでも黙ってんの止めてくれ」

 哲がもう一度言うと、川端は詰めていた息を吐き出すようにして言った。

「じいさんの教えを忘れちまったとしか思えん」

「仲良くはしてねえだろ。じいちゃんの教えは、警察とヤクザとは仲良くするな、だよ。な、か、よ、く」

 応接セットのソファが川端の体重移動に抗議して軋んだ。この間来た時から──というか、来る度にもう廃棄だろうと思うのだが、昔の物は頑丈にできているからなのか意外に壊れない。

 尻の下でスプリングが切れたような音がしたが気が付かなかったことにして、哲はヤクザの男——ナカジマと名乗った——から預かった脇田の写真と、交友関係のリストを封筒から取り出し川端の前に置いた。川端はまるで哲が虫か何かを取り出したように、嫌そうな顔で書類を見た。

「とっくにそのパスポートで逃げてんじゃないのか」

「俺もそう思ったんだけど」

 ナカジマが言うには、横領が発覚したのは脇田が姿をくらます直前のことだったらしい。彼らもすぐに空港に人を遣り、今は結構な人員を割いて監視させている。脇田はヤクザと言っても映画に出てくるような武闘派とは程遠く、金の扱いには長けているが、小心者だということだった。

 そんな小心者がよく金をくすねて逃げる決心をしたなと思ったが、人間誰しも魔が差すこともあれば、誰にも言えない事情を抱えていることもある。会ったこともない男が何をどう間違って金に手を出したかなんて知らないし、興味もない話だった。

 いずれにしても脇田が組の監視をかいくぐって首尾よく飛行機に乗れたとは思えない、よってまだ近くに潜伏しているはずだ、というのがナカジマの考えだった。

「そこまでして追っかける必要がある大物なのか、そのワキタってのは」

「わりかしでけえ金額くすねたっつってた。あと、そいつが余所の組に売っ払った特殊詐欺の集団ってのが結構稼いだらしいぜ……っていうのは建前で、要するに面子の問題じゃねえの。ヤクザ屋さんもそれなりに大変だよな」

「……分かったよ」

 溜息を吐き、川端は封筒と書類を取り上げた。

「調べておくから、お前はとりあえずおとなしくしてろ、哲。結果が出るまでヤクザには接近禁止、連絡もダメ、夜遊びもダメ」

「最後関係なくねえか?」

 川端がリストを睨んで溜息を吐く。はっきり確認したことはないが、川端はまともな不動産屋にしては顔が広すぎる。何かしらの伝手を使って、遠からず脇田の居所を掴んでくれるに違いなかった。

 前に、哲は実家に寄り付かない息子のようなものだ、と川端が言っていた。十代の頃から知っているとは言っても、父親が哲の祖父と知り合いだったというだけの関係だ。どうしてそこまで哲によくしてくれるのか、本当のところは知らない。だが、裏でどんな商売をしているにせよ、川端自身は紛れもなく善人だった。

 哲自身は自分がどこか壊れていると思っている。何かが欠如しているのは自覚しているが、それが何かは分からない。だが、そんな哲に親身になってくれる川端に何も感じないほど壊れてもいない。

 哲が川端に何か頼んだことはほとんどないから、川端が一層心配していることは理解していた。

 吸殻で山になった灰皿に煙草を無理矢理突っ込んでいると、受付の玉井さんが入ってきた。玉井さんは無表情で応接テーブルの上の灰皿を掻っ攫い、中身を左手にぶら下げていた赤いバケツに放り込んだ。どかん、と音を立てつつ灰皿をテーブルに置く。灰皿は灰で白く曇っていたが、綺麗に拭ったりしても次の瞬間には川端が吸殻を放り込むことを彼女は知っているのだ。

「じゃあ俺、行くわ。バイトだから」

「なあ、玉井さん」

 腰を上げた哲がそこにいるのも構わず、川端は玉井さんに声をかけた。

「哲がなあ、他人のために俺に頼み事してきたんだよ」

 小太り、昔懐かしいパーマのショートヘア。見るからにおばちゃんでしかないが、川端の事務所になくてはならない玉井さんは、眼鏡の奥の鋭い瞳を川端に向けた。

「こいつはそんなに仕入屋が大事なのかねえ」

 玉井さんが首を振るのを横目に見ながら、哲はさっさとその場を後にした。何を言われるにせよ、それがどんなに的外れだろうが違おうが、聞きたくもない。

「じゃあな、おっさん」

 ドアが閉まり切る前に聞こえた玉井さんの低い声。

「あの子は大事でないものには見向きもしないよ」

 聞き間違いかもしれないし、違うかもしれない。他人が言うことなどどうでもいい。聞こえた言葉を投げ捨てるように耳の傍で手を振って、哲は川端の事務所から立ち去った。




 その辺りはいかがわしい街の中でも特に猥雑な地域で、風俗店、飲み屋、雀荘、他にも怪しげな店がひしめいていた。

 一本裏に入れば独身者用のマンションや古ぼけ傾きかけたようなアパートが多い。少なくとも子供のいる若い夫婦が暮らしたいと思うような界隈ではない。怪しげな店に勤める男女が、仕事を終えて寝に帰る場所。昼間は住人同様寝静まっていて、夜になれば空っぽになる。いつでもどこか倦んだような、諦めたような空気が漂っている気がするのは気のせいか、偏見か、それとも事実か、知ったところで得にもならない話だった。

 哲は、その中ではまあまあ上等な部類に入る独身者用の低層マンションに足を踏み入れていた。使い捨ての薄手のゴム手袋を嵌めた両手はパーカーのポケットに突っ込み、廊下の左右を窺う。

 女が家にいるのは確かめてあった。ついさっき、客と思しき男と別れて乗り込んだタクシーから降り、ここに入って行ったのを確認したばかりだ。

 川端が探し出した脇田の女はキャバ嬢で、組にその存在は知られていなかった。うまく隠していたというわけではない。脇田には山ほど女がいて、組の方でもどれが本命なのか見当がつかなかっただけらしい。ばら撒いていた金が組の金だったと知って、尚更歯噛みしているのだろう。

 哲の手に掛かって、ドアはあっけなく開いた。オートロックもついていない安い物件だ。部屋の鍵も昔からあるシリンダー錠で、哲ではなくてもピッキングができる人間にとっては何の障害にもならないくらいの代物だった。

 そっと扉を引き、玄関に滑り込む。女ものの靴が数足ある狭い三和土を跨いで土足のまま踏み込んだ。

 リビングのドアを開けて覗き込む。1LDKの間取りは、事前に川端から見せられた図そのまま、ごく一般的なものだった。もうひとつの部屋から抽斗を開け閉めする音がする。寝室にしていると思しき部屋の戸口から中を見ると、下着にキャミソール姿の女の背が見えた。

 哲は音を立てず、大股で女の背に歩み寄った。女が振り向いたときには、哲の手が彼女の喉に絡み付いていた。首を捩じって背後を見た女の目が恐怖に見開かれ、見る見るうちに目尻に湧き上がった涙が溜まる。首筋から耳が一気に紅潮し、女の口を押さえた哲の左手に、彼女の浅くて速い息がかかった。

 いい気分ではない。それどころかひどく嫌な気分だった。女でなくても自分より弱い者を痛めつけるのは嫌いだ。例え必要でも本当はやりたくない。だが、何のためにここに来たかを考えたら、ここでやっぱり止めたと引くのも馬鹿な話だった。

 哲はうんざりする内心を覆い隠し、せいぜい恐ろしげに見えるよう、表情を消した。ほとんど金髪と呼んでいいくらい明るく染めた髪を大袈裟に巻き、素顔が分からないくらいの厚化粧をしている。仕事用なのだから当然だ。女はその化粧でも隠せないくらい震え上がって真っ青になっていた。

 しかし、実際には首を圧迫する哲の右手にそれ程力は入っていない。痣のひとつも残らないだろう。

 かつて毎日のようにしていた喧嘩で、哲は大抵誰より強かった。身体は特別大きくもないが、それを補って余りあるコツというものがある。力を入れなくてもどこを打てば動けなくなるか、どこを攻めれば本能的に恐怖を感じるのか、そういうことにも鼻が利く。哲は女の耳元に唇を近づけた。

「俺の訊くことに答えてくれ」

 女の頬を涙が伝う。内心で泣かせるつもりはねえんだ、ごめんな、と思ったが、謝ったところで女にとっては同じことだ。

「俺はあんたにどんな種類の興味もない。早く終わらせてえから、さっさと答えてくれると俺も助かる。いいか──」




「ああ、あんた、マナさんかい? あの、仕入屋の。そう、俺だよ。この間あんたに電話しただろう。仕入屋の兄さんに伝えてくれませんかね。まあ、話を聞きなよ。会って話そうかとも思ったんだけどね、あの坊主に約束したもんだから——。

 脇田、脇田弘樹見つけましたよ。え? そう、本人を。あの馬鹿の女が居所知っててね。ああ? いや、ああ、大丈夫、もう仕入屋の兄さんに迷惑かけねえよ。約束しちまったんで。脇田の女を見つけてくれた小坊主にね。え──? いや、名前は知らねえなあ。錠前屋っつってたよ。こう、ぱぱーっと、鍵なんか開けてね。あの坊主にも構わないって約束もしちまったんで。俺はヤクザだけど、約束を守ってくれたらね、きっちり守り返しますよ。じゃあ、そういうわけで。兄さんによろしく伝えてくださいよ──」



 秋野は部屋に戻る前にもう一度周囲を一回りしたが、誰も後を尾けていたりはしていないようだった。日は暮れすでに辺りは暗かったが、気配がしないから多分間違いないだろう。秋野は他人の気配には敏感で、秋野に気づかれずに忍び寄れる人間は滅多にいない。

 銭湯から出た足で女のところへ行き、そのまま三日ほど滞在していた。あれからすぐにヤクザに追い回されても面倒だと思ったからだ。ただ、隠れていても仕方がないのは分かっていたし、女のところにいるのも飽きたので戻ってきた。

 秋野に脇田を庇う理由はひとつもない。あのヤクザがそう納得してくれたら強硬な手段には訴えないかもしれない。だが、ヤクザの粘っこい目つきから楽観はできなかったし、いずれにしても逃げ隠れながら暮らすつもりはまったくなかった。

 部屋のドアを確認してみたが、鍵がこじ開けられた様子はなかった。鍵を開けて中に入る。物が少ない部屋は荒らされた様子もない。秋野の名前と住まいは今の所ヤクザの知るところではないようだった。

 照明を点けないまま窓を開け、三日間締め切ってすっかり灼熱地獄と化した部屋の空気を入れ替える。このままではクーラーをつけたところで焼け石に水だ。部屋中の窓を開けて歩くうちに、熱気にうっすらと汗が滲んできた。

 脇田は上手く逃げただろうか、とふと思った。脇田に同情はしていない。ただ、仕事をする上で自分に課したルールに従っているだけだ。脇田の使った偽名も、あの不用意な男が漏らした女の名前も知っていた。ただ、それを他人に教えるのは秋野の趣味ではないというだけだ。

 開け放った窓から風が入って、ようやく室温が少し下がったようだ。クーラーの運転スイッチを押し、少し考え、窓を閉めるのはもう少し後にすることにして、部屋の真ん中に仰向けになって目を閉じた。哲の指のような微かな感触を残して、風が額の上を通りすぎる。

 触れられたことなどないのに、おかしな連想だ。そう思って唇の端を歪めた秋野のジーンズのポケットで携帯が鳴動し始めた。

「秋野?」

 耀司の声の後ろから色々な音が聞こえる。音楽や話し声が混じり合ったノイズみたいなものだ。

「今どこ?」

「部屋に戻ったところだ」

「そうか。あのさ、今電話が来て──」

 耀司の話が進むうち、秋野の目の前が白く、次いで暗くなり、瞼を閉じたら今度は赤くなった。赤みがかった暗がりの中で腹の底から湧き上がる何かを宥めようと奥歯を噛み締める。これは怒りか、そうではないのか。一体何だ。

「あいつを呼んでくれ」

 低く平板な秋野の声に耀司が黙り込み、背後に流れる音楽の低音ばかりが耳元に鳴り響く。

「──分かった」

 耀司の声の最後の響きが終わる前に通話を切り、暗がりの中、秋野はゆっくりと身体を起こした。



 哲が大谷ビルヂングの耀司と真菜の住まいに辿り着くと、ドアホンを押す前に扉が開き、真菜の顔が覗いた。真菜は何故か目を瞠っていたが、哲の姿に驚いたわけではないらしい。

 それはそうだろう。バイト帰りで遅い時間だから、普通は他人の家を訪問する時間ではない。だが、哲は耀司に呼び出されたのだし、この時間に人を呼ぶのに、真菜に話をしていないわけがない。

 真菜はいつもと違って、囁くような声を出した。

「何かあったの?」

「ああ?」

「秋野が……」

 真菜は言葉が見つからないように黙り込んで哲の顔を眺めていたが、ついに小さく溜息を吐いた。

「健闘を祈る」

「何が」

 真菜は脇に退き、哲が部屋に入ると背後に回って哲の背中を両手でぐいぐい押した。

「何で押すんだよ」

「とりあえず行こう、ねっ」

 華奢な指が背中に当たる感覚に気を取られたせいで無防備にリビングに踏み込んだ哲は、真菜の挙動不審の原因を見た。

 リビングのど真ん中、脚を投げ出すだらしない姿勢でソファに深々と沈んだ猛獣みたいなものが、天井に向かって煙を吐き出していたのだ。

 今まで見ていたのは一体こいつの何だったのか。穏やかで、人当たりのいい男。確かに時折目の奥にちらつく何かは見たことがあった。見かけ通りではないと分かっていた。だが、剥き出しになったそれを突き付けられた衝撃は、ただ想像するのとはわけが違う。

 哲の気配に、秋野が目だけ動かしてこちらを見た。薄い茶色の虹彩はダウンライトを反射して黄色く見える。ひどく緩慢な動きで起き上がった秋野は、灰皿の底に煙草を押し付け揉み消した。その動作に、シャツの袖を捲った腕に浮き上がった血管が微かに動く。前屈みになった秋野は獲物に飛びかかろうとしている肉食獣そのものだ。

 哲はそこから一歩も踏み出せなくなった。真菜がまた哲の背中を軽く押したが、今度は足が動かない。何かに怯えて足が竦むなど、間違いなく人生で初めての経験だった。

 口を開きかけた秋野に、耀司が言った。

「秋野、上でやってくれよ」

 その声に、初めて秋野の隣の耀司の姿が目に入った。化粧は落としているが、仕事帰りなのか、女装のままだ。頷いた秋野は素早く立ち上がり、哲に近づくと腕を掴んだ。振り払う気にもなれなかった。哲は文字通り引き摺られるようにぎくしゃくと歩き出した。


 数えたこともなかったが、大谷ビルヂングは五階建てだったらしい。今まで耀司の部屋より上に行ったことはなかったが、階段には「4」「5」の簡単な表示があった。企業名などを見た覚えがないから、フロア自体は空いているのかも知れない。

 秋野に引っ張られて階段を登りきり、重そうな防火扉をくぐると、屋上に出た。そういえば前に耀司に聞いたような気がする。昔、自殺志願者が出たせいでフェンスで囲った屋上がある、と。

 深夜の風はまだ生温いが、昼間のような熱はなかった。周囲を囲む手すりの外側に、明らかに後付けされた金網が立っている。金網の目は細かく、これでは子供どころか犬や猫、鳥でもすり抜けることは不可能だろう。

 無言で歩く秋野に引き摺られてフェンス際に連れて行かれた。そちら側は何の照明もなく、暗く沈んでいる。

 空は暗いが、漆黒ではない。街の灯りが空を照らし、白っぽく光っている。秋野は空より暗いビルの上で、まるで死神か何かのように暗く物騒なものに見えた。

 秋野が腕を掴んでいた手を放し、哲は本能的に動いてフェンスを背にした。今の秋野に背を見せる気にはとてもなれない。暗さに慣れてきた目には、先程と変わらない秋野が見える。認めるのはまったくもって本意ではないが、怖い、と思った。人ならぬものにはもう見えない。確かに秋野は人だったが、それでも哲は目の前の男が怖かった。

「哲」

 秋野の低い声に、哲の肩がびくりと震えた。くそ忌々しい。腹が立って目が眩む。一体どうして俺が怯えなければならない。そう思ったらひどくしゃがれた声が出た。

「……何だよ」

「なんでお前が?」

 言葉は少なかったが、言いたいことは伝わった。

「さあ。俺もよくわかんねえよ」

 暗い中で、秋野の目は白っぽく浮いて見えた。色が抜けたように見える瞳に見据えられて鳥肌が立つ。

「──別にいいじゃねえか、結果オーライだろ。あんたは損してねえ。大体何で俺が」

 最後まで口に出すことはできなかった。

 胸倉を掴まれ、屋上のフェンスに叩きつけられる。背中に手すりとフェンスが激突して、衝撃に一瞬息が詰まる。派手な音がしたが、気にしている余裕はなかった。ぶつかった拍子に口の中を噛んだせいで血の味がした。詰めた息を吐き出した瞬間に秋野の長身が押し付けられ、息を吸い込もうともがく肺までもが圧迫された。

——噛みつかれる。

 突拍子もないことを思った。秋野はそこらの犬ではない。それは杞憂に終わったが、噛みつかれてもおかしくないくらいまで顔を寄せられ、哲の視界に入るのは秋野の薄茶の目だけになった。

 底光りする双眸は、忌々しいことに哲を心底震え上がらせた。恐ろしい顔ではない。顔立ちは整っていて、表情は静かだ。だからこそ、その向こうに透けて見える獰猛さが際立った。

 秋野は歯の間から低く唸るように声を押し出した。

「──哲」

 その低くざらつく声も、ぎらつく瞳も、身体から立ち昇る気配も、普段の秋野とはまるで違っていた。発散する強烈な熱気の、その気配はなぜか恐ろしいほど冷たく感じる。

 哲の胃袋は恐怖に縮み上がり、膝が笑い始めた。へたり込んでしまえば逃れられるのだと思うのに、秋野の身体に押さえつけられていてはそれも叶わない。

 これが本当の秋野なのだろうか。

 凶暴そうな奴なら何人となく見たことがある。そいつらを前にして、怖いと思ったことなどなかった。

 若さゆえの無鉄砲さもあった。何かが欠如しているゆえの無感覚のせいもあった。だが、秋野の発散するそれは哲の身体を竦ませ、痺れさせ、悪態すら封じ込めた。

「二度と、俺の仕事に首を突っ込むな」

 秋野の右手は金網に突かれ、左手は哲の右腕をきつく掴んでいた。痛みには気付いていたが、腕はまるで自分のものではないかのように、ほんの僅かも動かない。

「もしまた同じことがあったら」

 秋野の低く掠れた声は、これだけ近くで発せられても酷く聞き取りにくい。

「お前が泣こうが喚こうが、指を全部叩き潰して鍵の掛かる部屋に放り込んでやる」

 秋野が身じろぎ、掌で押さえられた金網がぎしりと軋む。秋野の唇が哲の耳元に寄せられ、さっきまでとは違う甘ったるい声が囁いた。

「俺は出来ないことは言わない」

 耳朶に触れる唇の動きが、言葉以上にぞわりと恐怖感を駆り立てる。

「分かったな?」

 一語一語区切ってひどくゆっくりと耳の中に囁かれ、哲は必死で首を縦に振った。実際には、かくり、と骨が外れたようにぎこちなく上下しただけだったが。

 何の前触れもなく押し付けられていた秋野の上体が離れ、膝が抜けた身体はそのまま落下した。したたかに尻の骨をぶつけ、思わず声にならない悲鳴を漏らす。

 痛みに顔を顰めながら見上げると、秋野が哲を見下ろしていた。表情は読めない。いつもの穏やかな顔なのかもしれないが、もう今までと同じようには見えなかった。哲は手すりを掴んで立ち上がると、ふらつく足を無理矢理動かしながら、扉へ向かった。

 口の中に血の味がする。それは錆の匂いがした。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る