10

喜ばせたい。

 川端の背広はくたびれきっていた。

 オールシーズン椅子の背にかけているそのジャケットは、砂色をベースに様々な茶色が混じったツイードだ。よたよたの上着が実はディオールなんだと教えたときの哲の驚いた顔といったらなかった。もしかしたら川端がタグだけ縫いつけたんじゃないかと疑われたが、針仕事なんかできないし、こんなにきれいに縫えるわけがないと言ったらようやく納得してくれた。

 だが、その上着はそれほどにみすぼらしい。そんなことは分かっている。

 哲に伴われた仕入屋が約束どおりの時間に訪れたとき、川端は件のディオールを着込んでいるところだった。一体何年前に手に入れたのかは思い出したくない。あの頃はこんなに腹が出ていなかった。ボタンがはまらず暫し悪戦苦闘した川端は、ついにその戦いを放棄した。格好をつけたって仕方がない。

 おとなしく哲の後ろに控えている仕入屋に向かって「さあ、どうぞ」と声をかける。人に会うのにサングラスもないだろうと内心思ったが、真っ当な商売の人間でもなし、礼儀知らずなやつだったとしても不思議はなかった。

 仕入屋は安っぽいソファに、慎重に──多分哲に何か言われているのだ──腰を下ろす。哲も当然ソファに座ると思ったら、踵を返してこちらに戻ってきた。

「じゃあおっさん、俺、行くわ」

「なんだ、逃げ出すのか、お前」

 眉を寄せて睨んでやったが、哲は素知らぬふうだった。

「逃げる理由なんかねえだろ。そうじゃねえけど、苦手なんだよ。こういうの」

「こういうのって、何がだ」

「三人でテーブル囲んでよ……」

 ソファとテーブルに目を向け、哲は心底嫌そうな顔をした。

「学生んときの三者面談を思い出すんだっつーの。ああ、胸糞悪ぃ」

 低い笑い声がした。哲は肩越しに仕入屋を睨みつけたが、それ以上何も言わずに出て行った。



 川端はソファに腰を下ろし、仕入屋に頭を下げた。口元に薄く笑みを浮かべた仕入屋は同じように会釈を返して寄越し、サングラスをゆっくり外した。

「どうも、お時間を取って頂きまして」

 色付きのレンズを取っ払って現れた瞳は、ほとんどの日本人が持つ色とは違っていた。薄い、ウィスキーの水割りか何かのような色の虹彩。哲はそんなことはひとつも言っていなかった。あいつめ、と心の中で哲を詰る。驚かせて後で笑おうってんだろう。

「まったく、困ったやつだ」

 最後はうっかり声に出してしまった。仕入屋が問いかけるように形のいい眉を上げる。

「いや、あんたの目がね」

「ああ──」

 仕入屋は手元のサングラスに視線をやって笑い、無造作にジャケットの内ポケットに突っ込んだ。仕入屋の身なりは派手ではない。だが、いいものを着ているのはすぐに分かった。俺のディオールとは大違いだ、と言わずもがなのことを考えてみる。

「哲がかけていけってうるさく言ったものですから。失礼しました」

「だと思いましたよ」

 川端は受付の玉井さんに久しぶりに拭ってもらった灰皿を仕入屋のほうへ少し押しやった。

「どうぞ、もし吸われるんでしたら」

「ああ、すみません」

 仕入屋はそう答えたが煙草を取り出そうとはせず、姿勢よく座っている。川端は煙草に火を点け、目の前の男を観察した。

 哲が、仕入屋が川端に会いたがっていると言ってきたのは昨日の昼間だ。どんな用事があって会いたいのか訊ねてみたが、哲は興味がないのか「理由なんか知らねえ」としか言わなかった。

 灰皿の縁で僅かな灰を落とし、改めて仕入屋に目を向ける。

「で、ご用向きは」

「以前、哲に金庫を開けてもらいました。八重樫広告の」

 仕入屋は低く柔らかな声をしていた。耳に心地いい声に促されるように無意識に頷く。八重樫広告の件については哲から話を聞いていたし、哲は知らないことだが、実のところ川端も無関係というわけではなかった。

「彼女から連絡がありました」

 目を上げ、仕入屋——確かアキノ、という名前——の顔を正面から見つめる。顔のつくりは端正だが、美しい顔という印象を受けないのはなぜだろう。口の端を曲げるような笑い方にどこか不穏なものを感じるからかもしれない。

「八重樫広告は資金繰りのほうでかなり苦労しているようですね。彼女は八重樫に何らかの援助を申し出るつもりだそうです。勿論、個人的に。公にはせずに」

「そうかい」

 仕入屋の薄茶の目を覗き込みながら煙を吐き出す。そこに何かが見えないかと思ったが、一体何を探しているのか、川端自身にもよく分からなかった。

「……それが、何か関係あるのかな」

「彼女に川端さんに会ってほしいと言われたからです」

 仕入屋はようやく煙草のパッケージを取り出し、一本銜えて川端を見た。

「それが、お会いしたかったひとつめの理由です」



「なつさんが市村いちむらと出会ったのは、何だっけな、誰かの結婚式だったかな」

 川端はジャケットを脱いで隣の椅子に放り投げた。

「すまんね、どうにもこうにも窮屈で」

 おどけて腹を叩いて見せたら、仕入屋は僅かに笑った。何となく黙り込んだまま煙草を一本灰にした頃、玉井さんが煎茶を運んできた。仕入屋の顔を見てほんの僅かに表情が動いたが、見慣れた川端でなければ分からない程度だっただろう。無愛想を絵に描いたらこうなる、という見本みたいな顔をして茶を置くと、玉井さんはさっさと自分の席に戻って行った。

 滅多に使わない上等なほうの客用茶碗は、少なくとも哲には出されたことがない。川端は思わず浮かびそうになる笑みを堪えながら煎茶を啜った。

「紹介された時は俺もたまげたよ。あの井坂いさかなつ恵が、俺の悪友の彼女だなんてあんた、ひっくり返りそうになったね」

 井坂なつ恵は劇団出身の女優で、その頃は映画に多く出演していた。売れっ子だったが横柄なところも高慢なところもなく、おっとりしていて、お嬢さん然とした女性だった。実際に良家の子女というやつで、芸能界でもすれることはなかったらしい。

「彼女から何か、昔の手紙を取り戻したいとか聞いたときは、何の話かと思ったね──で、小耳に挟んでたあんたのことをさ。感謝してるよ」

「なぜ手紙が必要か、川端さんには話さなかったそうですね」

「ああ、とても大事なものだとは聞いたが、それだけだ。詮索はしなかったし」

 川端は肩を竦めた。誰に宛てたのか、そうではなくて受け取ったものか。知りたかったが、訊ねることはできなかった。

「その理由を、僕から川端さんに話してほしいと」

 仕入屋の長い睫毛が瞬きし、薄い色の瞳が束の間見えなくなる。光に透ける液体のように煌めく虹彩。眩しいわけではないのに眺めているのが辛くて手元の茶碗に視線を落とす。

 川端は揺れる煎茶の水面から目を上げずに、静かに訊いた。

「……どうして、あんたからなんだい」

 彼女自身の口からではなく。




 なつ恵は美しかった。川端はひと目で恋に落ちた。多分誰もがそうだっただろう。恐らく、市村も。

 銀幕で見るなつ恵と実物はまるで違った。妖艶な女にも、純粋な少女にも、隣の若奥さんにもなれる井坂なつ恵。彼女はごく平凡で、優しくて朗らかだった。

 そして、二人といない女性だった。

 友人と想い合う女性に言い寄ろうなどという気持ちは微塵もなかった。だから、恋は生まれた瞬間に破れ、消えた。だが、川端は何くれとなく二人の世話を焼いた。大切な友人である市村も、その恋人も、彼にはどちらといえない大切な人間だったのだ。

 いつも心の片隅でなつ恵を想いながら親切な友人であり続けることは、時に身を切られるような痛みも伴ったが、後悔したことは一度もない。

「──そうか」

 仕入屋の話に頷き、小さく溜息を吐く。八重樫優一との恋は川端も与り知らぬことだった。

 市村の恋人になる前のなつ恵のことは、誰でも知っているようなことしか知らない。八重樫との噂も聞いたことはあったが、八重樫絡みのスキャンダルは真偽取り混ぜて膨大な数に上ったので、いちいち本気にしたこともなかった。

「やはり、ご自分では言いにくかったんでしょう。ですが、援助のことは川端さんもご主人からお聞きになるでしょうから」

「市村は知ってるのかね」

「お話したそうですよ」

 川端は安いソファの座面に沈み込んだ。当然のことだ。市村は夫で、川端はただの友人──しかも、夫の友人だ。せめて彼女の口から聞きたかったなどと思う権利はない。

 いかれたソファのスプリングが川端の重みに耐えかねて悲鳴を上げた。ぎしぎしと、まるで自分の心臓が軋む音に聞こえる。陳腐な発想だと分かっていたが、笑えなくて目を閉じた。

 なつ恵を喜ばせたかった。例え、自分のものにならなくてもよかった。ほんの僅かな間でもあの笑顔が自分に向けられるのなら、彼女の頼みは何だってきけた。市村と同じくらい──正直に言えば、それ以上に彼女が大事だったのだ。

 川端がゆっくり目を開けると、仕入屋が穏やかな目をして川端を見つめていた。さっきは液体に見えたその茶色は、今は少し白っぽく褪せて見える。光の加減で色味を変える瞳のように、男の印象もまた変わる。

「もうひとつの理由は、何だい」

 川端が口を開くと、仕入屋は眉を上げ、僅かに首を傾けた。何でもない仕種でまたくるりと雰囲気が変化した。威嚇されているわけでもなんでもないのに、ちらりと獰猛さが覗いてまた消える。

「……あんたさっき言ったろ、ひとつめって」

「ああ──」

 仕入屋は身じろぎしたが、声は落ち着いていて、感情は窺えなかった。

「哲の身近な人にお会いしてみたかったので」

「——哲はあんたが大事なんだってよ」

 確か玉井さんが、哲はこいつが大事なんだと言っていた。思いついて口に出してみると、仕入屋は面食らったような顔をした。

「はい?」

「玉井さん……って、さっきお茶汲んできた受付のおばちゃんがいたろ。彼女が言ってた」

「……」

「あんた、哲が大事かい」

 何気なく訊くと、仕入屋はひどく困惑した顔をした。そんなことを訊かれるとは思わなかったのだろう。川端にしても質問する気があったわけではない。茶托から茶碗を取り上げた仕入屋は、低い声で呟いた。

「そうですね──多分」

「多分って何だよ」

 冷静そうな仕入屋の考え込むような顔に、重ねて訊ねる。

「あんた、哲を喜ばせたいと思うかい」

 なつ恵が大事だった。今も変わらず大事に思う。市村となつ恵が喜んでくれればそれでいいと思っている。当然仕入屋からは同じ答えが返ってくると思っていたし、さして意味のある質問だったわけではない。

 しかし、仕入屋の顔から潮が引くように穏やかさが消えて行き、いつの間にか川端は、彼の底光りのする金色と向き合っていた。

「どうすりゃいいんだか俺にも分からないんですよ、川端さん」

 仕入屋の低い声は、響きだけは変わらずもの柔らかだ。目は川端から離さず、煎茶の茶碗を掌の上で弄りながら淡々と言う。

「あいつの笑う顔なんか別に見たくないんです」

 その双眸から目が離せない。蛇に睨まれた蛙の気持ちが痛いほどわかる。

「俺を大事にする哲も、俺のことが好きな哲も、俺のものになる哲も、欲しくない」

 そう言って、仕入屋は不意ににっこりと笑った。

「──あんた、救われないね」

「俺はそれでいいんです」

 ぽつりと呟いた川端に、仕入屋はひどく静かな目をして頷いた。



 仕入屋が立ち去ったのがいつか、はっきり分からないくらいぼんやりしていた。挨拶はされたはず、そして答えたはずだったが、夢の中にいたような気分だった。茶碗を下げに来た玉井さんの丸っこい手を見て我に返る。

「ああ、どうも、ありがとうさん」

 玉井さんはいつもの愛想のない顔のまま無言で頷き、手早く布巾でテーブルを拭く。川端は玉井さんをぼんやりと見つめながら半ば上の空で呟いた。

「あいつは何だってあんな厄介なのを拾ったんだかなあ」

 玉井さんが怪訝そうにこちらを見るので、川端はにっと笑顔を作って見せた。

「いやあ、それにしても」

「男前だったね」

 玉井さんがまた面白くもなさそうな表情で言ったから、思わず繰り返す。

「男前?」

 玉井さんが来客について感想を述べるなんて初めて聞いた。

 仕入屋は入ってきたとき、サングラスをかけていたからそれほどしっかり観察できたとは思えない。確かにお茶を出しに来た玉井さんの表情が動いたのは見たものの、それは目の色に反応したのだと思っていた。

 それに、仕入屋は別に誰もが振り返るような美男子というわけでもない──そう考えて、いや、そういえばひどく端正な顔だった、と思い直す。脳裏に浮かべてみた顔は、美しいといっていいくらいだ。

 多分、あの目のせいだろう。目と、その奥に見え隠れするものの印象が強すぎて顔の造作に意識が向かない。

 女が見ると違うのかもしれないが──と思いながら横目で玉井さんを窺うと、玉井さんは何と、ちょっとむっとした。これまた、奇跡的な出来事だ。

「何も顔のことじゃないですよ」

 そう言いながら、玉井さんは川端の脱ぎ捨てたジャケットを一瞥してわざとらしく、鹿爪らしい顔で頷いて見せた。

「でもまあ、顔も含めてね──男はやっぱり見た目だよ、川端さん」


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