21

言うなれば、自由

 どれも大したものではない。

 他人が見ればゴミと区別がつかないだろう。デスクの抽斗の中に詰め込まれていた雑多な私物。

 今は社名が変わってしまった生命保険会社のロゴ入りメモ帳。いつのものか分からないミントのケース。シャチハタの訂正印。誰かの土産のお守りや、スマホが普及して使わなくなった携帯ストラップ。インクが出なくなったボールペン。書きかけの履歴書。つまらない小さなものたちは、どれも捨てたはずの生活へ戻るための切符に思えた。

 いや、そうではない。思えたのではなくて、思いたかった。

 自分でも信じていないから信じたかったのだ。同時に、錯覚でしかないと分かっていてそんなものに縋りつく自分の弱さにうんざりした。

 うんざりして、呆れ果てて、それでも捨ててしまうことはできなかった。挙句の果てにこんな箱に仕舞い込んで、出すこともできないまま。自分はいったい何をやっているのか。求めたのは、自由ではなかったのか──。


「おっさん、何やってんの」

 普段なら声をかけたりしない。哲は基本的に他人とかかわりあうことに積極的ではなかった。だからと言って消極的な性格でも人嫌いでもないが、要するに自分から動くのは面倒くさい質なのだ。

 目の前で年寄りが転べば手ぐらい貸すものの、横断歩道を渡ってまで助け起こしに行こうとは思わない。そんな自分が人でなしなのかそれとも標準なのかは知らないが、今回は考える前に口が動いていた。

 何となく「おっさん」と呼びはしたが、その人物の年齢はよく分からなかった。可能性を上げたらきりがないけれど、単純に見た目で判断するなら男。三十代から六十代くらいまでの幅で年齢が判然としないのは、伸びた髭と汚れた顔のせいだろうか。覆道の放置自転車の陰に蹲った姿は、恐らくホームレスだ。

 しかし、目を引いたのは男の格好ではなく、手に持ったものだった。

「……開かないんだよ」

 男は意外にしっかりとした口調で呟いた。哲を一瞥し、白い息を吐きながら、指先を切った汚い軍手に包まれた指先をまた戻す。

 男の腕に抱えられていたのは、黒板のような濃い緑色の手提げ金庫だった。男は手探りするような手つきでダイヤルを回しては、蓋に付いた取っ手を引く。何度か同じことを繰り返しては小さな溜息を吐く、その繰り返しだった。

 ゆっくりと歩み寄る哲に気付いた男は、警戒したのか、座ったまま後ずさった。金庫を胸に抱き締めるようにして、上目遣いで睨んでくる。哲は男の数歩手前で足を止めた。

 男は不意に哲から目を逸らし、口のなかで何かぼそぼそと呟いた。よく聞こえないが、多分謝罪だ。何ひとつ謝る必要なんかないのだから、一種の処世術人違いない。

「……なあ、あんたは何もしてねえんだから謝ることねえだろ」

 驚かせないように、ゆっくりとした動きでその場にしゃがみ、座り込んでいる男と視線の高さを合わせてみた。男が哲に向けた眼差しは弱々しい。怯え、羞恥、後悔、その他諸々。その大半は多分、哲が声をかけたこととは無関係だ。

「──盗ったりしねえよ」

「いや、別にそんなことは──」

「開けてやるから、貸してみな」

 男は哲を見つめて数度瞬きし、抱えた金庫に目を落とした。


 男と並んで歩道の縁石に腰を下ろす。隣に座った男は汚れた服や髪のせいで臭ったが、別に一緒に暮らすわけではないから構わなかった。

 アスファルトはデニム生地を通しても感じるくらい冷たかった。男が穿いているのは、汚れ、傷んだごく普通のスラックスだ。ウールだろうが、恐らく元はスーツだろう。裾を厚手の靴下の中にたくし込んでいるものの、それだけで尻が冷えるのを防ぐことはできない。

 男は不信感を拭いきれないながらも渋々、という様子で哲に金庫を差し出してきた。手を伸ばしたせいで、コートの袖口から袖がはみ出す。擦り切れ、汚れているけれど、元は薄いブルーのワイシャツだ。きっと、それなりにいい生地。少しだけ切なくなって、哲はいまだきれいに形を保っているカフスから目を逸らした。

「いいか、おっさん。このダイヤルは、右と左にそれぞれ合わせないと開かないようになってる」

 金庫の前面についたダイヤルを指すと、男は目を瞠った。

「数字を合わせるのは一回だと思ってた」

「だろ? 例えば右に十、左に九十、って合わせねえと駄目なんだよ。その後開閉レバーを回さねえと」

 哲はダイヤルを適当に左右に動かした。この手提げ金庫は長い間使われていたと見え、型も古かったし随分とガタが来ていた。多少手提げ金庫を扱い慣れた人間なら、その辺の事務員でも開けられるかも知れない。目指すダイヤルに合わせると、素人でも分かるくらいはっきりとした手応えがある。

「まず右に回して二十に合わせて、そこから左に回して七十だな。ほら、やってみな」

 男に金庫を渡すと、爪の間が黒くなった指がダイヤルを回した。笑ってしまいそうになるくらい慎重に、哲に言われたとおりの動きをする。

「これでいいのか?」

「そう。今ちょっと手応えあったろ? それでこの左側のレバーを回すんだよ」

 男がレバーを回すと、金庫の蓋が勢いよく飛び上がって、男が素っ頓狂な声を上げた。その顔がおかしくて、哲は思わず声を上げて笑った。

「すごいな、あんた」

「別にすごくねえよ」

 ちょっと肩を竦めた哲に笑いかけ、男は金庫を地面に置いた。哲からも中身が見える。このタイプの手提げ金庫の場合、大抵上段に載っている札と小銭を分別するためのトレイはない。ぱっと見たところ、大したものは入っていないようだった。

「この金庫はさ、拾ったんだ。中身は入ってなかった」

 男は中身をひとつひとつ確かめるように触りながら、地面を向いたまま口にした。声と、間近で見る顔つきから判断するに、男はどうやら四十代か五十代らしい。小じわはあるものの、肌にはまだ張りがある。

「企業ビルのゴミ捨て場でね。ダイヤルは回さないようにしてたんだけど、なんかの弾みで回っちゃったんだな。どうもありがとう」

 哲に向けられたのは、色々なことを諦めたような、どこか力ない笑顔だった。

 


「いつもの住所に送っておいたよ」

 電話の声はどこかつくりものめいた陽気さを発散していた。

「ああ、ありがとう」

 秋野は電話の相手──センという男と一度も会ったことがない。特に会いたくないと思っているわけではないが、機会がなかった。連絡は電話で、できあがった品物は耀司の住む大谷ビルヂングに送られてくる。住居スペースでないフロアにはいくつか企業の事務所があり、そのうちのひとつが荷物や書類の受け取り用の、いわゆるペーパーカンパニーだ。

 もちろん、耀司が住んでいる建物なので、信用している業者にしか教えていない。センの人柄は知らないが、仕事上は何の問題もない相手だった。

「実物確認したら連絡ちょうだい。代金よろしくねー」

「もちろん。連絡する」

 実際はすでに目の前に物があったが、どうせ後で連絡しなおすつもりなのでそれには触れず、通話を切った。薄っぺらい茶封筒に手を突っ込むと、硬めの紙が手に触れる。引き出した紙はB4版程度のものだ。ご丁寧に丸めたあとまでつけている。横から覗き込んできた耀司が、紙を眺めて首を傾げた。

「俺は自分の学校の以外はわかんないけど、どう?」

「俺だって分かるわけがない。まあ、センの腕は確かだし、問題ないだろう。関係者に確認はするけどな」

 金色の縁飾りのような模様に、筆字で書かれた大仰な文面。学校名の角判もきちんと押してある。依頼人の事情は詮索しないし興味もない。しかし、すべての依頼人を好きなわけでも肯定しているわけでもない。

「偽造の卒業証書を欲しがるなんて、ろくでもない」

「本当だよな。それにさ、そんなの学校に照会されたらすぐばれるのにね」

「実際には照会まではしないってことなんだろうな」

 封筒に入っていた定形サイズの封筒をひっくり返し、秋野は小さく溜息を吐いた。窓付き、大学名の印字付き。封緘もきちんとされた偽造の成績証明書。

 何だって本物とほとんど変わらない偽物が簡単に作れる世の中だ。何ものにも代え難いものなんて、ほとんどないと言ってよかった。



 男が取り出す品物は、どれも取るに足りない物ばかりだった。メモ帳や古くさい携帯ストラップに何の意味があるのか、哲にはまったく分からない。金庫にしまい込むくらいだから男にとっては大切なものなのだろうけれど、少なくとも金銭的な価値はないだろう。

 立ち去ろうとする哲を引き止めた男は、汚いリュックの中から缶コーヒーを二本取り出した。一ヶ月前に賞味期限が切れていたが、缶コーヒーで腹を壊すことはないだろうと考え、プルタブを引いた。男は哲と並んで腰を下ろし、金庫の中身を眺めながら口を開いた。

「お兄さん、仕事してるの?」

「……まあ」

 居酒屋のバイトは本業ではないし、錠前屋も厳密には仕事とは言えないかもしれない。しかし、他人にいちいち説明するのも面倒だから頷いた。

「そうかあ。偉いね。俺なんかさあ、リストラされてからもう二年こんな生活だよ。一流企業って言われる会社にいたんだけどねえ。今はこれでもさ」

 男は金庫の中に手を突っ込んだ。次々と取り出され、路上に並べられていくガラクタの数々は、よく見れば事務用品が多い。もしかしたら会社員時代の持ち物だろうか。そう訊ねると、男は笑って頷いた。

「そうそう、そうなんだ。こんなもの今でも大事にしてるなんてさ、どうかと思うよねえ」

「別にそんなことねえけど」

「俺さ、会社員の頃はホームレスって凄いなあって思ってたんだよ」

 男は金庫の底、一番最後に残った白い封筒を手に取った。何度もそうしたのだろう、手垢のついた部分はうっすらと変色している。封筒を裏返しては眺め、右手から左手に移し変える。中には手紙か書類か何かが入っているようだったが、それを出してみようとはしなかった。

「会社員やってるときは、とにかく自由になりたかった」

 哲が興味なさげにしているのに気付いているのかいないのか、男は封筒をひらひらと振りながら続けた。

「社畜とかって言葉を得意げに振りかざしてたよ」

 封筒をふりかざして笑う。

「口うるさいだけの女房から。遊んでばかりで勉強しない娘から。俺を馬鹿にする部下から。認めてくれない会社から。そんなものと綺麗さっぱりお別れして、何にも縛られないホームレスになってみたかった。そう、彼らは言うなれば、自由そのもの」

「自由そのもの?」

「──そう思ってたよ」

 風が男の持つ白い封筒をはたはたと揺らす。力の抜けた指先から飛びそうになった封筒を握り締めて俯く男の唇にはまだ笑みがあった。皮肉っぽいと表現するには弱々しすぎる微かな笑み。

 何が自由なのか知らないけれど、少なくとも男の笑顔は、自由を謳歌する人間のものには見えなかった。



 秋野は居酒屋の壁にかかった調理師免許の免状をぼんやりと眺めていた。名前はもちろん秋野の知らない誰かのもの。深く考えずとも店主の名前に違いない。その店主はカウンターに座った常連客に話しかけられ、包丁を動かしながら盛んに頷いていた。

 厨房に続く暖簾を潜って哲が出てきた。哲は壁の額と秋野を見た後店主にちらりと目を向けてからカウンターに歩み寄ってきた。黙って秋野の前にビール瓶を置く。もちろん、お客様向けの笑顔もない。店主がこちらを見てないのを確かめたのはそういうわけだ。すぐに引っ込められそうになった哲の右手首を捕まえたら、哲は愛想笑いを浮かべるどころか、眉間に深い皺を刻んで秋野を睨んだ。

「お客さん、仕事中ですから邪魔しないでもらえますかね」

「お前のそういう口調は気持ち悪いな」

「余計なお世話ですよ」

 口ぶりだけは店員風だが目つきは普段の錠前屋そのものだ。秋野は哲を見上げて笑った。

「お酌のサービスはないのかな、店員さん」

「ねえよ、馬鹿」

 テーブル席はほぼ満席だが、カウンターは空いていて、秋野の左右には客がいなかった。哲の声は低く抑えられているものの、秋野の手を振り払いながら呟いた台詞はいつもの調子だ。

「店員さんのテイクアウトは?」

「何だよ、用事でもあんのか」

「別に。久し振りに飲んでもいいかと思っただけだ」

 哲は多分断ろうとして口を開き、どうしてか思い直したらしい。小さく舌打ちした後、なぜか溜息を吐いた。

「……適当に待ってろ。あがる時間は知ってんだろ」

 秋野の返事も待たずさっさと厨房に戻る哲の背中を見送って、秋野は突き出しの小鉢に箸をつけた。


 つい先頃の新聞に、卒業大学を偽り、無免許にも関わらず開業医として患者の治療に当たっていた男の記事が載っていた。患者たちは男を信じていた。あんなに親身になってくれる医師は他にいなかった、何かの間違いに違いない、という声が多く上がったらしい。

 新聞の記事を読んだだけだから、実際どれだけの治療をしてどれだけの効果があったのかは知らない。大きな間違いが起こらなかったのはただの幸運だったのだろう。免許というものには意味がある。例え多少の勉強で誰でも取得できるものだとしてもそうなのだ。しかも、医師免許は誰もが簡単に取得できるものではない。

 先日秋野が依頼された偽造の卒業証書は経済学部のものだったから、直接人命に関わることはないだろう。しかし、間接的にはどうだろう。無知による誤った判断が、何かを奪わないとは言い切れない。

 いずれにせよあまり気分のいいものではないが、仕事だからと思えば忘れるのは簡単だ。ただ、居酒屋の壁の額に入った調理師免許を見ていたら何となく思い出しただけだった。いちいち良心の呵責を感じるようではこんな仕事はしていけないし、秋野はそれほど真面目でも常識的でもない。

 なぜあの額を眺めていたのか訊かれてそういうことを答えたら、哲はグラスを呷りながら呟いた。

「学歴だのキャリアだの、何でそんなもんが欲しいんだか」

 秋野の知り合いが営む小さくて目立たないバーは、以前夜中に借りたときと同じように客がいなかった。今日だけではなく、普段から繁盛しているとは言い難い。潰れるのではないかといつも心配になるのだが、どんな裏技を使っているのか、一向に店じまいする気配はなかった。

 今日はオーナーでありバーテンダーである知人が一人、カウンターを磨いている。半白髪になった髪を短く刈った姿は、バーテンダーと言うよりは寿司屋の板前のようだ。知っている人間は数少ないが、実は日本で一番有名な大学卒のバーテンダーから哲に視線を戻した。

「……そういう世の中だからな」

「そんなもん、あってもなくても結局最後は変わらねえと思うけど」

「あるに越したことはないんだろう、今は」

 哲の傾けるグラスの透明な液体の中で、氷がからりと音を立てた。

「この間ホームレスのおっさんが言ってた。一流企業のサラリーマンだったけど、ホームレスに憧れてたんだと」

「変わってるな」

 秋野が眉を上げると、哲はグラスをカウンターに置いて頬杖をついた。

「自由になりたくて、リストラをきっかけに夢のホームレスに転職したらしいぜ」

「それは転職っていうのか? 夢が叶って幸せだな」

「どっからどう見ても幸せそうには見えなかったけど」

 それはそうだろう。自分を顧みても、どうやっても真っ当な人生とは言えない。後ろ暗いことも山ほどやってきたし、人様に胸を張れる人生ではない。だから他人の職業に偏見はないが、余程の事情がある場合でなければ、ホームレスは苦手だった。あの無気力さにはどうにも共感しかねるものがある。幸せそうに見えるホームレスは──少なくとも秋野が知る限りでは──唯の一人もいなかった。

「俺にはよく分かんねえけど、言うなれば自由そのものなんだってよ、ホームレスってのは」

 秋野は思わず顔をしかめたが、哲はこちらを見ていなかった。

「会社員のように責任を負うことがないって意味では自由かもな。だけど、俺にはただ色々なことを放棄してるだけのように思える」

「——自由だとか自由でないとか、考えたこともねえ」

 哲は氷だけになったグラスをゆっくり回しながら呟いた。本当に考えたこともないのだろう。哲らしい感想に秋野は苦笑した。

「お前みたいなのが、本当に自由だって言うんじゃないのかね」

「さあ。わかんねえ。つーか、知らねえし、どうでもいいし」

 哲はグラスを持ち上げて口に運びかけ、中身が入っていないのに気付いたらしい。舌打ちしてグラスを置くと、勝手に秋野の前のグラスに手を伸ばした。最初は単に気を利かせていたのが今や掃除に熱中しているバーテンダーは、哲の酒がないことに気付いていなかった。哲は残っていた酒を飲み干し、氷を一つ口に入れて秋野の前にグラスを戻した。頑丈な奥歯ががりがりと音を立てて氷を噛み砕く。

「どうだっていいよな、そんなこと。自由だとか自由じゃねえとか。そんなもんに振り回されて、馬鹿みてえな話」

「皆が皆お前みたいだったら、世の中もっとうまく回るんじゃないかと思うよ」

 しかし、世の中哲だらけだったら、物騒なことこの上ないが。

「皆同じだったら気持ち悪ぃじゃねえか」

 哲は秋野を横目で一瞥して呟き、煙草を銜えて火を点けた。煙を吐き出す哲の横顔を眺めながら、氷だけになったグラスを指の先で弄ぶ。水滴で曇ったグラスの表面に指のあとがつき、氷が崩れて澄んだ音を立てた。

 自由であるために必要なものは何か。自由であるために捨てなければならないもの物は何か。そもそも、自由とは何か。それを知っている者など誰一人としていないのではないかと、そんな考えが頭をよぎる。

 大学の卒業証書、キャリアで飾られた履歴書、燦然と輝く資格の数々。印籠のようにそれらを振りかざしてみても、必ずしも幸福になれるとは限らない。だからといって、何も手にしていなくても同じこと。経歴など問題ではないと叫んでみても、実際は大いに問題があるのが現実だ。

「他人のことはどうでもいい」

 秋野が呟くと、哲はゆっくりと秋野に目を向けた。

「まあな」

「俺が気になるのは自分と自分に関係ある人間だけだ。誰が自由でも自由でなくても、知らんよ」

 哲が片笑みを浮かべたが、どういう意味だったのか、それは一瞬で消えた。

「お前のそういうところ、時々怖えよな」

「そうか?」

 少なくとも、哲がそばにいる間、自分は間違っても自由ではない。およそ何の感情も込めずに秋野を見つめる哲を眺めながら、今の自分は自由とは縁遠いと思い知る。しかし、そのホームレスと決定的に違うのは、それならそれでいいと言いきれることだろう。囚われていても構わない。何もかも捨てたいとは思わない。自由になんかならなくていいから、手に入れたい。

「もう一杯飲むか?」

「そうだな」

 秋野が声をかけると、バーテンダーは余程熱中していたらしく、文字通り飛び上がった。カウンターの端から全速力で飛んできてオーダーを大声で復唱する。普段からは想像もつかない慌てっぷりで酒を用意し始めた男を眺め、哲はおかしそうに──今度は疑いようもない笑顔を浮かべて煙を吐き出した。

 どちらからともなく、何の意味もなく合わせたグラスが、かちりと小さな音を立てた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

仕入屋錠前屋 平田明 @akeh

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ