6

これ以上触れない

「これ以上触れないで」

 夢の中で女が囁く。

「これ以上触れないよ。お前がそう望むなら」

 女は悲しそうな顔をした。ひどく辛そうに眉を寄せ、じっと見つめ返してくる。

 だが、その瞳はどこか遠くを見ているようにも感じられた。心はもう、ここにはないのだというように。

「ごめんなさい。私……」

「いいよ、わかったから」

「ごめんなさい、秋野」

 どんなに手を伸ばしても、届かない。

 指先にも、唇にも届くのに。

 心の中には届かない。

「本当に、ごめんね」




「あらぁ、あれ、何でしたっけね、ホラ」

「秋野です。あきの」

「ああ、オギノさん、オギノさんねえ、そうそう」

 哲は笑うのを堪え肩を震わせて俯いたが、やっぱり堪えきれずに小さく吹き出した。秋野はばあさんが向こうを向いた隙に哲の向こう脛を蹴っ飛ばした。

「痛えな!」

「はい?」

 哲の怒声にばあさんが振り返り、哲は仕方なく上げた足を下ろした。

「いえ、別に」

 しわしわの顔を意味もなく──多分──上下に振りながら、ばあさんは「すみませんねえ、わざわざ」と手招いた。

 この銭湯が営業していることを哲が知ったのはついさっきだ。何度か前を通ったことがあるからまつ乃湯という名前は知っていたが、客の出入りを見たことはない。

 窓が湯気で曇っていたり灯りが漏れていることもあったが、銭湯に行く習慣がないので、あまり気にしたことはなかった。

 それなのにどうしてここにいるかというと、秋野がまつ乃湯の常連だったからだ。

「昨日久し振りに寄ったらばあさんが妙に落ち込んでてな」

 相変わらず施錠されていない哲の部屋に早朝から上がりこんできた秋野は、哲の枕元に腰を下ろした。身体を起こして煙草を探す。秋野が床の上からパッケージとライターを拾って寄越したので一本銜えて吸い込んだら、ようやく頭が少し動き始めた。

「あんまり元気がないんで気になったから聞いてみたら、大事な抽斗の鍵をなくしたそうだ」

「どっかのばあさんの抽斗くらいあんたががぶっ壊して開けてやりゃあいいじゃねえか」

「それがな、その抽斗っていうのは古い鏡台の一部なんだそだ。傷のひとつもつけたくないくらい大事にしてるらしい」

 哲は寝起きの頭を振った。普段ならまだ寝ている時間なので、一服したくらいではまったく頭が働かない。

「──古い鏡台だったらたいした難しいもんじゃねえし、俺じゃなくてもいいだろ」

「俺はお前がいいんだよ」

「あんたの抽斗かよ」

「違います」

「知らねえよ。シャワー浴びてくる」

 寝起きで呆けた頭に秋野の相手は酷だ。哲はのろのろと立ち上がって風呂場に向かった。秋野が諦めて──もしくは飽きて──いなくなっていたらいいなと思いながら出てきたが、願いむなしく、秋野は同じ場所で煙草を吸っていた。

「あんた……」

「待たされても気にしない」

 女ならうっとりしそうな笑顔に歯を剥いて唸って見せ、哲は小さく溜息を吐いた。

 そんなわけで拉致か連行かいまいち判断がつかないながら、とにかく秋野にここまで引きずられ、そうして結局今に至る。

 嫁入り道具だという鏡台は、年季が入っている割には状態がよく、大事にされているのがわかった。抽斗には亡くなったじいさんの形見が入っているらしい。

 内心鍵と同じで失くしちまうからそのまま大事にとっとけよと思ったが、さすがにそれを口に出すほど常識がなくもないし、ばあさんが憎くもない。憎いのは秋野であって、あの野郎は呪ってやることにする。まだ覚めきっていない頭でぼんやり考えながらも、指は勝手に動き、抽斗はするりと前に滑り出た。

「開いたけど」

 銭湯のばあさんは「あらあら」とか「おやおや」とか言いながら哲の傍に寄ってきた。細い指が哲の肩を握る。手加減ができないのか、指先は思い切り肩に食い込んだ。

「まあまあ、ありがとうねえ」

「いや……」

「えーと、何だっけね、そう、タカギさん!」

 背後で吹き出した秋野の声に、哲は思わず額を押さえた。



 ばあさんに持たされたお礼の梨を抱えて、哲と秋野は耀司の家へ向かった。出始めの梨の値段は結構するのだろう。大きくて色つやもよく、いかにもうまそうではあった。だが、一人暮らしの男二人に果物を持たせてもどうせ駄目にするのがオチだ。秋野が真菜にやれば喜ぶだろう、と言うので、大谷ビルヂング行きが決まった。

 早い時間に起こされて、部屋に戻ってもどうせ洗濯と掃除くらいしかすることもない。特別行きたいわけでもなかったが、誘われるままついていくことにした。

 三階まで上がり、梨の袋を持つ秋野より先に扉に手を掛ける。レバーを捻る前にドアが外側に向けて大きく開き、哲は思わず仰け反った。

「あきのー‼︎」

 声とともに何かが哲の足元を駆け抜けた。物体に激突されたらしき秋野の呻き声が廊下に響く。振り返って見ると、壁と子供の間に挟まった長身が、身動きも取れずに突っ立っていた。

「こら、利香りか! 秋野がつぶれちゃうだろー。あ、哲。ごめん、ぶつからなかった?」

「よう」

 部屋から出てきた耀司が笑いながら哲の前で立ち止まった。

「俺には目もくれないで突っ込んでったから平気」

「あーあ、子供のエネルギーったらもう……」

 耀司は哲の横をすり抜け秋野にしがみつく子供に近寄った。秋野の脚にコアラよろしくしがみついているのは、長い髪からして女の子に見えた。

「ほらほら、利香、秋野にくっつくのは中に入ってからだよ」

「はぁい」

 耀司に引き剥がされ、渋々秋野から離れた子供はやはり女の子のようだった。哲に子供の歳はよくわからないが、幼稚園児くらいではないかと思う。特に可愛い顔立ちというわけでもないが、子供に興味がない哲から見ても雰囲気が愛らしい。

 秋野が哲に梨の袋を差し出す。黙って受け取ると、秋野は代わりに少女を抱え上げた。利香、と呼ばれた少女ははしゃいで笑い声を上げ、秋野の首筋に抱き着いた。

 秋野が蕩けそうな笑みを浮かべ、初めて見る秋野の甘ったるい表情に、哲は思わずぽかんと口を開けた。


「今たまたま窓から外見てたら秋野と哲が来るの見えてさ」

 哲と並んでソファに腰かけた耀司は梨の皮に手こずり、自分の手元を凝視したまま呟いた。真菜は真っ当なお勤めをしているので、平日真っ昼間の今はここにはいない。そういえば耀司がティアラで女装して接客している以外に何をしているのかは相変わらず知らないが、特別興味がないから訊ねたこともなかった。

 耀司の危なっかしい手つきを見ていたら苛ついてきた。黙って手を差し出すと、耀司は少し考えて梨と包丁を哲に手渡した。するすると皮を剥き始めた哲の手元を眺めほっとした顔をした耀司は、ティッシュを取って手を拭った。

 梨の皮を剥きながら顔を上げて室内を見回した。秋野は利香という少女を抱えたまま、彼女の言う通りに部屋の中をうろうろしている。傍目には娘にメロメロな親馬鹿パパ、と言うところだ。顔立ちこそ似てはいないものの、年齢的には秋野の子供だと言ってもおかしくない。哲は耀司が出してきた皿の上に剥いた梨を置きながら訊ねた。

「お前ら、子供いたっけ」

 真菜と耀司は一緒に住んでいるが、同棲しているだけで結婚はしていないらしい。まだ若いし、そういう話になるのはもっと先なのだろう。

「いないよ。まだ結婚もしてないし」

「だよな。じゃああの子は?」

「俺の妹」

 梨を剥く手が思わず止まる。哲は手を止めたまま、耀司と秋野の肩にしがみついて笑っている少女を代わる代わる見た。

「──妹? いくつ違いだよ、一体」

「いや、血繋がってないから。養女なんだよね、利香」

「あー、そうなのか」

 包丁に梨を刺して口に運ぶと、耀司が危ないなあ、と眉を寄せた。

 耀司の父親は所謂夜の街で見かけるあらゆる合法的な商売、それから貸しビルと、手広くやっているらしい。子供一人くらい増えても問題ないのかも知れないが、やはり耀司の親だけあって得体が知れない。

 耀司と年が近いなら単に二人目を授からなかったということだろうが、あまりにも年齢に差がありすぎる。ということは、何か訳ありに違いないのだ。

 秋野は利香に何か言われ、微笑み返した。女ならあの顔だけでイチコロだな、と思いながら眺める。秋野の笑みは普段とはまるで種類が違う、甘く優しいものだった。まるで、恋人に向ける微笑みのお手本みたいだ。

「あいつ、変な趣味ねえだろうなあ……」

 思わず口から出てしまった哲の独り言を聞きつけ、耀司が笑う。

「ないない、大丈夫」

「マジか? だってよ、あの顔」

「仕方ないよ、秋野にとっては娘みたいなもんだから」

「娘?」

 腹を抱えて笑っていた耀司が一瞬厳しい目をして、そうしてすぐに元に戻る。

「……本当の娘じゃないけどね。そうだったらよかったんだけど」

 秋野は利香の小さな掌に頬をたたかれて笑っている。

「あきの、おりるー!」

 なんとなく無言になった耀司と哲のところへ、転がるようにして利香が走ってきた。哲がこの年頃の子供と接することはほとんどないが、それにしても子供というのはエネルギーの塊のようだ。

 骨や肉はやわらかくて脆いくせに、容れ物に収まりきらないなにかがいっぱいに詰まっていて、まるで今にも弾けてしまいそうだった。

「てーつー!」

 哲の脚にまとわりつく利香の様子は子犬のようで、ボールでも投げてやりたくなった。

「元気だな、おい」

「うん、りかげんきだよ! てつは?」

「元気ですよ」

 なにがおかしいのか、利香は声を上げて笑う。耀司が横から手を出して利香の髪をくしゃくしゃにして撫でると、笑い声は更に大きくなった。

「やぁだー! だめだよ!」

「利香はいくつなんだ」

「りかねえ、ごさい!」

 なんとなく訊ねた哲に満面の笑みを向けた利香は、ちいさな掌をいっぱいに開き、数字の五を表現した。子供が好きなわけではないが、その愛らしさにさすがに哲も頬が緩む。

「そうか、五歳か」

「てつはおよめさんいる?」

 話が繋がらないのは子供ならではだ。

「いないよ。どうして?」

「うんとね、ようじおにいちゃんにはまなおねえちゃんがいるんだよ」

「そうだな」

「りかはね、おおきくなったらあきののおよめさんになるの」

「そうか、それはいいな」

 つまりこれが、お父さんと結婚する、というやつだ。利香の子供らしい発言に笑いながら秋野を見たら、秋野の顔はなぜかひどく強張っていた。表情を隠すことに長けているように見えるのに、珍しい。怪訝に思って秋野を見つめると、哲の視線に気づいた秋野の顔は素早く普段の穏やかなものに戻り、そうしてさりげなく目を逸らされた。

「だからねーえ、てつはおよめさんどうしようか」

──本当の娘じゃないけどね。そうだったらよかったんだけど

 喋り続ける利香に注意を戻しながらも、哲は胸の内で耀司の言葉を反芻していた。



「しかし耀司は慣れてんな」

「たまに耀司が相手してやるんだ。あいつの親も忙しいから」

 哲は嫌がる利香を何とか宥めすかし、最後はかくれんぼだとかなんとか言って姿を隠し、何とか耀司の家を逃げ出してきた。

 別に急ぎの用はなかったが、五歳児のエネルギーにはついていけないし、そもそも扱い方も分からない。丁度昼の時間になったのを口実に出てきたが、意外なことに秋野もついてきた。あの様子だと秋野のほうが利香を離さないのではと思っていただけに意外だった。

「あの分だったら、自分たちの子供できても何の心配もねえ感じだな」

「そうだな」

 秋野はそれ以上何も言わず、黙って哲の半歩先を歩いている。利香のことには触れようとしなかったが、どうもでれでれしていた自分が照れ臭いというわけではないらしい。

 秋野の部屋と哲の部屋は方向が違う。たどり着いたその分かれ道で、秋野はいつも通りの顔で「またな」と言い、哲に背を向けた。

 秋野はいつもそうだ。哲の内側はその薄茶の瞳でどこまでも無遠慮に覗き込んでおきながら、自分は見せていいものしか見せようとしない。

 すこし前、屋上で脅されたのが最初で最後の何もかも剥がれ落ちた秋野だった。あれ以前のように常に穏やかでいようとするのは止めたようで、今は時に不機嫌にもなるし、黙り込んで哲を遠ざけることもある。それでも、哲に言わせればまだまだでかくて厚い猫の皮を被っているという感じだった。

 何も、いつも楽しく仲良くしていたくて秋野といるわけではない。哲が興味を持っているのは本当の秋野であって、優しい顔をした、いい友人の秋野ではなかった。こいつの中身を見てみたい。最近とみに強く感じる衝動のまま、黙って後についていく。数歩先で秋野が肩越しに振り返った。

「……哲?」

「暇なんだよな、どっかの誰かに無理矢理早起きさせられてやることねえし」

「……」

「聞かせろよ」

 秋野は身体ごと振り返って哲を見つめた。薄い色の目に昼間の光が当たって、黄色っぽい金色に見える。濃くて長い睫毛が一瞬秋野の瞳を覆って金色が見えなくなった。

「──別に面白い話じゃないけどな」

 そう言ってまた哲に背を向けると、秋野はゆっくりと歩き始めた。




 秋野が多香子たかこに出会ったのは、今の哲より少し若い頃だった。当時、秋野は耀司の父尾山の抱える店をあちこちまわって仕事をしていた。

 今、耀司がゲイバーで女装をして働いているのも同じようなもので、色々な店で色々な仕事を覚えさせるというのが尾山の目的だった。

 事務所に詰めてパソコンを前に資料を作ったりすることこそしなかったものの、ありとあらゆることをやらされた。

 そのうちの店の一軒で、カスミという名前でホステスをしていたのが多香子だった。本業ではなくバイトだという彼女はどこをどうやってもホステスには見えず、せいぜい喫茶店の店員といった風情だった。

 初々しいとか幼いというわけではまったくなかったが、どこか浮世離れしていると言ったらいいか。話してみればしっかりした大人の女なのに、ふと消えてしまいそうな何とも言えない儚さがあった。

 その店は単なるスナックだったし、アルバイトばかりだったので誰も気にしてはいなかったが、多香子はどことなく店からも客からも浮いていた。

 どうしてそうなったか、細かいことは忘れた。なんとなく話をするようになり、いつのまにか親しくなって、付き合い始めた。

 ビールの缶を弄び、指先に触れるその冷たさに多香子の肌の温度を思い出した。ひんやりとした頬。勿論体温は人並みで、冷たかったわけではない。だが、なぜかいつも最初に思い出すのはその身体のあたたかさではなかった。

「線の細い、どこかふわーっとした女で……大事にしたんだけどな」

 仕事が忙しく、一人にすることが多かった。それでも秋野は彼女を心底大事にしていたし、彼女も不満を口にしたことはなかった。

 気持ちは伝わっていると思っていた。何も言わなくてもお互い分かり合えるなんてありえない。そんな当たり前のことに思い至らないくらい、若かったし、馬鹿だった。

 多香子はある日突然秋野の前から姿を消した。何の意思表示もないまま、関係が終わったのだと秋野が理解できないくらい、唐突に。

 多香子を見つめる度、いつかふと消えてしまいそうだと感じた、その感覚そのままに。

 次に多香子が秋野の前に姿を見せたときには、彼女は女の子を連れていた。秋野の前から消えてすで二年近くが経っていて、一歳だというその子は何をどう間違っても秋野の子供ではありえなかった。

「──ごめんなさい」

 多香子は涙は零さず、しかし泣きそうな声で秋野に言った。

「秋野は忙しかった。だから、寂しくて。お客さんに付き合ってほしい、って言われて——利香ができちゃって」

 秋野と別れた後に子供が出来て結婚したものの、すぐに離婚した。多香子は指の関節が白くなるほど手を握り締めて俯いたままそう言った。

 浮気して出て行った女だ。どうして捨てられたかもはっきりとは分からなかったし、多香子が戻ってきても分からないままだ。寂しかった、と多香子は言ったが、一度だって言わなかったし、匂わせることさえしなかった。

 自分の神経を疑わないでもなかったが、事実から目を背けたって仕方がない。そんな多香子と、彼女の抱えたちいさな子供が愛しくてならなかった。

 女と子供に頼られた以上、放ってはおけない。そう自分に言い訳して手を伸ばし、多香子の頬に触れた。

 記憶にあるとおりのひんやりと滑らかな多香子の頬。多香子は秋野の指先の動きに、微かに身を震わせ、秋野を見つめて微笑んだ。

「秋野の目が好きだった。すごくきれいだものね」

 引き寄せ、そっと唇を合わせたら多香子は泣きそうな顔をした。

「これ以上触れないで」

 秋野の胸に多香子の掌がそっと添えられる。頬と違って暖かい感触が、拒絶ではないが明確な意思を持って秋野を自分から遠ざけた。

 二年という時間が経った。多香子が消えた当時はひどく荒れたが、秋野も立ち直った。多香子だけを想い続け、泣き暮らしたわけではないのだ。関係を持った女も当然いたし、そういう意味では彼女への差し迫った欲望は既になかった。

 今ここにあるのは、欲望より根が深い、泣き出してしまいそうな愛しさだけ。

「これ以上触れないよ」

 秋野はもう一度多香子に口付けし、そう言った。

「お前がそう望むなら」


 結局、多香子はまた去って行った。

 しかも、今度はただいなくなっただけではなく、利香を置いて姿を消した。最初からそのつもりだったのか、それとも違ったのか、秋野にも他の誰にもわからなかった。

 秋野は部屋に残された利香を抱いて途方に暮れた。幼児ならともかく、まだ一歳の赤ん坊を育てることなどできるわけがない。かといって、施設か何かに放り込むなど論外だった。

 知り合いならいくらでもいたし、可愛がって育ててくれそうな人間も思いついたが、結局は尾山を頼った。

 尾山が利香を養女にしたのは、彼の秋野に対する、精一杯の慰めだったのかもしれない。すでに成人した息子がいるのに小さな娘を育てるのは体力的にも大変なことだ。そんなつもりで相談したわけではないと訴えたが、尾山は聞く耳を持たなかった。

 多香子の子供。俺の子供ではない。そう思っても不思議と悲しくはなかった。利香という個人に対してはただひたすら愛しさを感じる。無償の愛というのはこういうものなのだろう。利香のことを考えるだけで心があたたかくなる。見返りもいらない。ただ健やかに、幸せに育ってほしいとそれだけを願った。

 なのに、心の中の多香子が触れた部分だけはそのまま麻痺したようになっていた。硬くこわばり、冷えて、触れても触れているのかどうか分からない。

 だが、それで困ることもない。何も感じないが痛むこともないのなら、無理矢理切り離さなくてもいいのだから。

 あれから四年、利香は尾山の家で愛され、幸せに成長している。

 そうして、秋野は今でもたまに多香子の夢を見る。




「あんたの子ならよかったのにな」

 哲が小さな声で呟いたら、秋野は少しだけ笑った。心からの笑みではなかったが、少なくとも作り笑いではない。

「どっちにしろ俺が引き取るわけにもいかないし」

「そうか」

 秋野は手で顔を擦り、溜息を吐いた。ほとんど口をつけていないビールの缶をテーブルに置いて煙草を銜え、火を点ける。

「利香が俺のお嫁さんになる、なんて言うと結構こたえるよな」

「似てんのか」

「ん? ああ、あいつにか?」

 秋野の口から出たあいつ、という言葉に引っかかった。耀司を呼ぶのに使う同じ単語とそれはまるで違う。親しみを表しているわけではない。多分、未だに彼女の名前を簡単に口にできないのだろう。

「そっくりってわけじゃないけど、やっぱり似てるよ。親子だから」

 秋野は視線を上げて哲を見た。日光に当たると黄色にも金色にも見える薄い茶色の瞳。この目を自ら進んで手放した女の気が知れない。

 思った端から自分に突っ込みを入れたくなったが、そう思ったのだから仕方がない。いくら目がきれいでも、どこか野生の獣のような男だ。確かに扱いづらく、ある意味手に負えないのだろうが、それでも。

 それとも、だからなのだろうか。女が──多香子が求めたのは、そんな男ではなかったのかも知れない。

「夢って、どんな夢だよ?」

 飲み干したビールの缶をテーブルに置き、煙草を銜えながら訊いてみる。本当は秋野の見る夢がどんなものであれ興味はない。それでも垣間見えた秋野の内側を引きずり出してみたい衝動に負けて口に出した。

「ああ……。あいつが一遍戻ってきたときに、これ以上触らないでほしい、とか何とかそんなことを──」

「触んなって? 何で」

「さあ。キスしたら、そう言われた」

 面白がるようにわざと曲げられた口元とは裏腹に、目は翳っている。以前なら分からなかっただろう。ほんの微かな陰は、隠す気がないのか違うのか、確かにそこに見えていた。火を点けたばかりの煙草を灰皿の底で揉み消して、秋野は両手で顔を覆った。

 普段見たことがない疲れたような姿に、少しばかり罪悪感を感じる。かわいそうだとか同情するとかそういうことではないが、冗談にして笑わせてやるくらいはしてやってもいいだろう。

 灰皿の縁で穂先の灰を払い、一口吸い付けて灰皿に置く。細い煙が秋野の黒い髪の上でゆらゆらと漂った。

「下手だったんじゃねえの」

 言い終わる前に秋野が動き、気がついたら秋野の身体の下に巻き込まれていた。世界が回転し、後頭部が床にぶつかる。痛え、と口に出そうとしたが、声は喉の途中でつっかえた。秋野の大きな手で目を覆われ、視界が真っ暗になったからだ。

 そして間を置かず、唇が塞がれた。

 反射的に腕を伸ばし、秋野の襟首を掴まえて引っ張った。渾身の力を籠めたのにあっさり引き剥がされ、逆に腕を掴んで押さえられた。何も見えないせいか、ぶつけた後頭部の痛みのせいか、舌を突っ込まれ舐めまわされているせいか、くらくらする。多分全部だ。

 押さえつけられた腕が痛い。もがいてみたが身体のどこも自由に動かせなかった。秋野の心臓の鼓動を感じる。遅くも早くもない、しっかりとした拍動。唇は普通の温度だが舌は少し冷たくて、当たり前だが濡れている。 

 舌を吸われ、甘く噛まれる。潜り込んできた舌から逃れようと顎を上げたが、より深く奪われる結果になった。

 哲は低く呻いて抵抗を止め、絡みついてきた舌を受け入れた。どうせ見えなきゃ誰にされようがキスはキス。男にされたからって死ぬわけじゃあるまいし。そう思ったら、急にどうでもよくなった。


 暫くして、秋野の唇がゆっくり離れ、次いで手が外された。

「痛え」

 あらゆるところが自由になると同時に口に出したら、秋野が目を瞠った。

「痛い?」

「頭だよ、あ、た、ま。床にぶつけた」

 寝転がったまま睨むと、秋野は声を上げて笑った。長い前髪と睫毛の隙間から見える薄い色の目は透けるように美しかった。

「そりゃあ悪かったな」

 哲は身体を起こし、灰皿から吸いかけの煙草を取り上げた。灰の部分が増えていて、持ち上げたらぼろりと崩れる。銜えてみたらそれは随分短くなっていた。

「下手だったか?」

 にやにやする秋野を座ったまま蹴っ飛ばす。

「大変お上手でした。ったく、中途半端に興奮させんじゃねえよ、馬鹿たれ」

「深呼吸しろ、深呼吸」

「あんたほんと質悪ぃな」

 哲は腰を上げ、立ち上がって秋野の肩を蹴った。すっかり元に戻った秋野が、もう一度、喉の奥を鳴らすようにして笑った。




 夢の中の多香子はいつも最後に戻ってきたときの姿をしていた。服装もそうだが、悲しそうな、申し訳なさそうな顔で俯いている。

 楽しいこともたくさんあった。二人で過ごした時間のほとんどは幸せだったのに、夢に出てくる多香子はいつでも泣きそうな顔をしている。

 きれいな女だった。

 誰もが振り返るような美貌ではない。だが、確かにきれいな女だった。

 他人事のように夢を俯瞰する秋野の意識はそうしていつも多香子の頬に手を伸ばす。現実でも夢の中でもひんやりとした、陶器のような、それでいて確かに血の通った女の頬。

 だけど、そろそろ笑えよ。

 秋野は何度も多香子にそう語りかける。

 なあ、多香子。

 お前の笑った顔が、好きだったよ。


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