4

屋上の手すり、錆の匂い 1

 バイト先の居酒屋から戻った哲は、自分の部屋のドアを開けたままやや暫くそこに突っ立っていた。部屋のど真ん中に、秋野の長い身体が転がっていたからだ。

 こちらに足を向けているので、下から順に眺めていく。長い脚を包んでいるのは細身で濃色のデニム、それから渋い色合いのシャツ。特別な格好ではないが、何故か垢抜けて見える。そして、よく見ると身に着けているものの質がいいのは何度か会ううちに分かっていた。

 着るものには人並みの興味しかない哲でも分かるくらいだから、相当いいお値段なのだろう。だからと言って分かるところにブランド名が書いてあったりしないのが秋野らしい。どっちにしろ、秋野が何を着ていようが哲には関係ないのだが。

 哲は転がる秋野を跨いで部屋に入り、秋野の頭側に立って煙草を取り出した。

「……転がってるとやっぱでけえな」

 どうでもいいことを呟きながら煙草に火を点け、首を傾げる。

「つーか、何でこいつがここにいんだよ」

 哲はよく部屋の鍵を掛け忘れる──というか、ほとんど施錠したことがない。たまに川端や友人が訪ねてきたときは大抵呆れられるが、哲にとって自室の施錠はそれ程重要なことではないのだ。

 このボロアパートの錠は玄関、窓、どれも玩具とそう変わらない。入居者ではなく錠前屋として見ると、防犯上はゼロより少しマシ、という程度だ。ちょっとピッキングができる奴ならあっという間に開けられる。それに加えて財布を持って外出してしまえば金目の物など何一つないのだから、物好きな空き巣が入りたいと言うなら入ればいい、と思っていた。

 そんなわけで今日もいつものように開けっ放しで出かけたのだが、その隙に空き巣ならぬ秋野が侵入したらしい。ただ、闖入者は何か盗むどころか夢の中だったが。

 改めて見てみると、秋野は形の良い眉を顰めて何やら苦しげにしている。だが、哲が見る限り呼吸は正常だった。胸は規則正しく上下していて、呼吸が浅いようでもない。

 顔色はよくはないが、明らかに真っ青というわけでもないから、気絶しているのではなくて単純に眠っているのだろう。哲は短くなった煙草を灰皿で揉み消し、欠伸をした。

「まあ、放っておいても死にゃしねえよな」

 哲はもう一度欠伸をし、歯を磨こうと立ち上がった。



 額にひんやりと触れるものがあって、瞼を開けるより前に突然意識がはっきりした。

 ひんやり? いや、少し違う。冷たくはないが、熱くもない。かさついた感触が額の上を滑り、離れようとしたから反射的に捕まえた。秋野が無意識に握ったものは硬く、やたらと骨ばっていた。

「おっと。起きたか。離せよ」

 目を開けたらすぐそこに誰かの手があった。焦点が合わないくらい近くに掌がある。ぼやけたそれを遠ざけたら、少し遠くに手の持ち主の顔が見えた。秋野が掴んでいたのは哲の手首らしい。

「ああ──?」

 哲は静かに手を引くと、少し首を傾げて秋野の顔を見つめた後、小さく溜息を吐いた。

「苦しそうにしてたから、熱でもあんのかと思って」

「哲……?」

「どっからどう見てもな。残念ながら」

 哲はそう言って片笑みを浮かべて見せた。何故笑うのかと一瞬考え、少し前に哲のいい夢を中断したことを思い出した。

 寝転がったまま周りを見回してみると、古いワンルームの部屋が目に入った。壁に押し付けられたベッドはフレームがなくてマットレスだけ、ソファはない。マットレスの上の寝具はやや寝乱れていたが、秋野がいるのは床の上だ。身体のあちこちが少しずつ痛いのはそのせいか、と今更気付く。

「ああ……そうか、あのまま寝たのか。悪いな、人の部屋で」

 秋野は上体を起こして頭を軽く振ってみた。頭の芯を引っ張られるような痛みが走って思わず顔を顰める。口の中には薬を飲んで眠った時特有の嫌な味がした。

 強烈な頭痛は去ったものの、こうなると一週間は治らない。いつも、と言うわけではないが馴染みのそれに、秋野はうんざりして溜息を吐いた。

「なんだよ、二日酔いか?」

 秋野は訊ねてきた哲を見上げ、今度は慎重に首を振った。

「いや、頭痛が酷くてな。この辺まできてどうにもならなくなって、横になりたかったんで、勝手に上がらせてもらった」

 以前から何度か訪れていた哲の部屋はいつも鍵が開けっ放しだった。哲はか弱くもないし金持ちでもないが、さすがにいくらなんでも不用心だ。何度言っても改善しない癖には呆れていたが、まさかこんな形で感謝することになろうとは思ってもいなかった。

「ふうん。俺は二日酔い以外で頭痛になったことなんかねえなあ──あ、そういや、あんた朝飯食う?」

「朝飯」

 予想外の言葉に瞬きした秋野に構わず、哲はキッチンの方を振り返った。古臭いワンルームだから、キッチンというよりは台所と呼ぶ方が相応しい。ただ、古い木造建築は新築の鉄筋マンションよりは部屋が広いし、スペースには余裕がある。哲の部屋もコンロは二口あって、シンクも大きいほうだった。

「店でしじみが余って、昨日親父さんに無理矢理持たされたんだよ。味噌汁と、あと米しかねえけど。卵くらいなら焼くけど、食えるか?」

 頭を動かさないようにゆっくり立ち上がり、哲の背後からコンロを覗き込む。片手鍋の中にあとは味噌を溶かすばかりのしじみとだしが入っていた。

 透き通った薄青いその色に、一瞬、昨日の逃げ水を見た気がした。




「おっさん! 何してんだ、あんたは!」

 哲の大声に川端は振り返って手を振った。

「おー、哲ー」

「ああ、いい、いい! 危ねえからいいって!」

 いかにも年季の入った脚立の頂上に乗った川端は、哲に手を振るのを諦めてよたよたと脚立を降りた。

 秋野は朝飯を食ってさっさと消えた。結局どうして頭痛になったのかはよく分からなかったものの、自分に関係があることでもない。日曜はバイト先も定休日で、特に予定はないからそのまま掃除と洗濯をしてぼんやりしていたが、そろそろ家賃の支払い日だと思い出したのでやってきた。

 川端は多少支払いが遅れたところで文句も言わないだろうが、そもそも支払いが遅れたことはない。

「ふう」

 床に降り立った川端はたったそれだけの動きで息を弾ませている。川端は親戚でもなんでもないが、哲を気にかけてくれていることに変わりはない。いくら他人への興味が薄い哲とは言え、さすがに少し心配になる。

「おっさん、少し痩せたら?」

「何だ、今更」

「高血圧とか血管詰まったとかで死んじまったらどうすんだよ」

「心配してくれるのか、優しいなあ。おじさんは嬉しいなあ」

「嬉しくなさそうに言うなよ。つーか何してたわけ」

「蛍光管を換えてたんだ」

 言われて応接セットを見る。確かに、テーブルの上に裸の蛍光管が一本置いてあった。しかし古いとは言え一般家庭と違い天井が高い企業向けの雑居ビルだ。古い脚立の頂上でゆらゆら揺れている腹の出た中年男はこちらの心臓にかなり悪い。

「そんなん管理会社にやってもらえよ」

「あのチカチカする蛍光灯ってのはよくない。イライラしてな。管理会社なんか呼んでも一日待たされて、その間に俺はノイローゼになっちまうよ」

「大袈裟だな。ほんとにそんな待たされんのかよ」

 川端はそれには答えず、交換した蛍光管を持ってデスクに戻る。哲は壁際に蛍光管を立てかけている川端を避け、デスクの上に尻ポケットから取り出した封筒を置いた。

「今月分」

「ああ」

 川端はちらりと封筒に目を向け、そのまま哲に視線を戻した。

「なあ、哲。お前、あの仕入屋とまだ付き合いがあるのか?」

「付き合いがあるっつーか……たまに仕事してるけど。あいつがどうかした」

 川端は向きを変え、粗末と言っていい応接セットにどっかり腰を下ろした。新品だったのは恐らく昭和の時代だろうが、いつ頃かまでは分からない。ソファは安っぽい合皮で、川端が身じろぎする度にぎしぎし言う。川端はソファの悲鳴はものともせず、煙草を銜えて火を点けた。

「なんかなあ、やばいのが色々訊いてまわってたらしいぞ」

「何だよ、やばいのって。コレか」

 哲がこめかみから頬に指で線を引くと、川端は頷いた。川端の向かいに腰を下ろすと、尻の下でソファが情けない音を立てる。

「何でだ」

「詳しい話は知らんぞ」

 川端の吐き出した煙はゆらゆらと立ち上り、交換したばかりの新しい蛍光管に向かって漂っていった。

「そっち関係の男に依頼されて何か用意したらしいが、その男っていうのが組の金を横領したとかしないとか、そんな話だ」

「横領とあいつが何の関係あんの」

「さあ、そこまでは知らんな。そういうわけで哲、お前はこの件が落ち着くまで仕入屋に近づくな。お前は佐崎のじいさんの……」

「分かった分かった、分かりました」

 いつもの台詞なので適当に答え、哲は立ち上がって川端を見下ろした。

「警察とヤクザとは仲良くしない。じいさんの教えは守ってますって」

 川端は眉を上げて哲を見たが、それ以上は何も言わなかった。

「それより不動産屋のおっさんがなんでそんなこと知ってんだよ?」

 川端はにやりと笑って自分の耳を引っ張ると、眉を上下に動かしながら笑って見せた。

「地獄耳」

「そうかよ。じゃあ俺行くわ」

 まったく食えないオヤジだと毎度思うことを思いながら、哲は川端の事務所を後にした。


 耀司と真菜の住む大谷ビルヂングは、遂に「ル」の字が落ちて「大谷ビ」「ヂング」になっていた。大谷ビって何だ、と呟きながら、階段を上る。

 ここに来るのが何回目かは、数えていないから分からなかった。哲と秋野との間には妙な一線があるのに対し、耀司との間にはそういうものは感じない。

 仲がいいというわけではないが、年齢が近いせいもあるだろう。秋野と耀司が兄弟なら、哲と耀司は同級生に似ているかもしれない。

 今日は秋野が来る予定はないというのは予め確かめてあった。電話越しの耀司は不思議そうだったが、特に突っ込まれることもなかったから、理由は説明しなかった。真菜は女友達と出かけたらしく、暇だったのか、扉を開けた耀司はやたらと嬉しそうだった。

「いらっしゃい。何だよ、不景気な顔して」

 ありがたいことに耀司は普段どおりだった。一度勤めに出る前の耀司と出くわし、見た目は立派に美女だが仕草も声も男そのもの、という恐ろしい姿を目にしてしまった。

 哲はオカマと呼ばれる男たちに嫌悪感は持っていない。本人が思う性別でいればいいと思うし、好きな格好をすればいいと思っている。例えどれだけ化粧が似合わなくても、女の服が入らなくても、本人が女だと言うなら女なのだろう。

 ただ、耀司の場合はまったく違う。女装は仕事でしかない上に、プロフェッショナルでもないから、顔は化粧で美人に化けても耀司にしか見えないのだ。そんな姿でマナちゃんでぇす、なんてシナを作られても気色悪い。

「いつもこういう顔だっつーの」

「そう言われたらそうかもしんないけどさ。どっかの帰り? 今日はバイトあんの」

「いや、日曜だから定休。不動産屋に金払って来た」

「……まさか土地売買してるとかじゃないよね?」

「するわけねえだろ。家賃だよ、家賃」

「だよなあ。何か飲む?」

「いらねえ」

 哲が答えると、耀司はじゃあ自分の分だけ、と言ってキッチンの方にぶらぶら歩いて行き、コーヒーの入ったマグカップを手に戻ってきた。

「それで?」

 ソファに腰を下ろした耀司はコーヒーを啜り、カップの縁から哲に目を向けた。

「わざわざ秋野が来ないって確認して話したいことって何だよ?」

 耀司の猫のような目の奥に一瞬厳しい光が見えた。いくら哲と耀司が普通に話せると言っても、本当に親しいわけではない。子供のころからお互いを知っていて、兄弟のようだという秋野との関係には遥かに及ばない。

 もしも哲が秋野に危害を加えようとすれば、耀司は哲に重りをつけて海に沈めるくらいの事は平気でするに違いないと確信できた。例え耀司自身ができなくても、誰かを雇うくらいはするだろう。

「ちょっと変な話聞いたからな、一応」

「変な話って?」

 哲は川端から聞いた話を耀司に伝えた。マグカップをテーブルに置いて腕を組み、耀司は眉を寄せた。まるで水面に何かが書いてあるかのように、難しい顔でマグカップの中を覗き込む。

「……確かにこの間、ヤクザ屋さんから仕事の話あったけど。二件続けて」

 眉間に刻んだ皺を更に深くして、耀司はますますカップに顔を近づけた。そんなに睨んだらコーヒーが沸いちまうんじゃねえのかと思ったが、とりあえず口には出さずに黙っておく。

「ヤクザと知り合うの嫌だし、どっちも本当は受けたくなかったんだけどね。一件目はもう二週間くらい前の話で、もう一件はついこの間の話」

「この間?」

 訊ね返した哲に耀司は頷いた。

「うん。確か、秋野は昨日そいつと会ってるはずなんだけど」

 昨日。その言葉に、秋野の苦しそうな寝顔がぱっと浮かんで消えた。


 耀司は秋野の仕事の受付窓口のようなものらしい。

 女装趣味もなければまったく隙のない異性愛者のくせにゲイバーのホステスなどといういかがわしい職業に就いている理由は、その役割のため──だとは本人の弁。だが、どう考えても窓口がゲイバーにある必要性はないだろう。

 哲が思うに、ゲイバーのホステスがいかがわしいのではない。そういう職業に就く動機も理由もないのにやっているからいかがわしいのだ。

 耀司の父親は多数の飲食店やビルを所有する会社のオーナー社長で、耀司はその一人息子だという話だった。

 平日の昼間でも大抵家にいるかそこらをうろうろしていて、いくら御曹司とは言え怪しいことこの上ない。もっとも、居酒屋の厨房アルバイトと錠前屋、というのが生業の哲が言えた義理ではなかったが。

 耀司の話によると、秋野に取り次いだヤクザらしき依頼人は二人。一人目は職業に関係なく個人として頼みたいと懇願したらしく、断り切れなかった耀司が秋野に連絡し、渋々受ける形になったらしい。この仕事は既に終わって、品物の引き渡しも支払いも滞りなく済んでいた。そして、もう一人がつい先日秋野が会ったと言う男だった。

「最初の方はね、偽名でパスポートが欲しいって」

 それで、どうやらそちらが川端の言っていた横領男らしいと見当がついた。

「ヤクザって言うか、見た目は水商売みたいな感じであんまりやばそうじゃなかったよ。名刺見たら消費者金融だったけど。結局根っこは一緒なんだろうけどさ、今時刺青しょってヤクザです! って商売も成り立たないから」

「ああ」

 昔懐かしのヤクザを見なくなって随分経つ。以前は存在を誇示し周囲を威嚇してなんぼだったのかもしれないが、今は下手に目立つことをしても得にはならない。余程大きな組織だというならまだしも、その辺の小さな所帯はどこも青息吐息だ。

「あいつは二人目に会ったんだろ?」

 哲が訊ねると、耀司はマグカップの表面を撫でながら頷いた。

「そのはずだよ。そのお客さん同士繋がってるなんて知らないし、ただ単に断るつもりでだけどね。もうさ、もーのすごーく強引で、俺が電話で何言っても聞いてくれないもんだから。店に来るとか脅すようなことは言わなかったからよかったけど」

 耀司は子供のようにマグカップを両手で抱えて溜息を吐いた。

「何だかなあ。身内の不始末は身内できれいにしてくれないと」

「──そうだな」

「やっぱり哲のコーヒーも淹れるよ」

 立ち上がった耀司に礼を言いながらここにはいない男の顔を何となく思い浮かべ、哲は小さく舌打ちした。



 秋野は強張った首筋を手で揉んだが、その程度で治るものならそもそも頭痛になっていないと思い直し、諦めて手を離した。腕を湯の中に沈めてみる。波紋が広がって腕や足が歪み、そしてゆっくり形を取り戻す。

 営業しているのかどうか見ただけでは一瞬判断がつきにくい銭湯は、今時滅多に見かけないくらい古ぼけていた。経年劣化であちこち歪み、色々な意味で傾きかけている。

 とはいえ湯は入っているし、古いながらも清潔ではある。たまに寄る秋野に店番の老婆──年齢不詳だが、八十代の半ば以降であることは間違いない──はいつも親切だった。

 しかし彼女は何度聞いても秋野の名前を覚えられないらしく、秋野は「オギノさん」と呼ばれていた。いくらアキノだと訂正しても次に来た時にはオギノに戻ってしまうのだ。別に本名で呼ばれたいわけでもないのについつい主張してしまうのは、案外意地になっているのかもしれない。

 今、男湯には「オギノさん」と、前にも見かけたことのある二人の爺さんが洗い場のあちらとこちらにいるだけだった。二人ともよくよく見ると身体を洗っているようだが、何せ動きが緩慢すぎる。注視していなければ眠っているのかと思うくらいだ。周囲には何の関心もないらしく、秋野のことが見えているのかどうかさえ怪しかった。

 秋野は湯船の縁に頭を預け、身体を伸ばした。秋野の身長では部屋に備え付けの風呂場は狭すぎる。細かいタイルが張られた湯船の縁は硬くて痛かったが、頭と首の境目の窪みを押し付けると痛いような気持ちがいいようなで、思わず呻き声が漏れた。

 目を閉じると、瞼の裏に別に見たくもなかった男のキツネに似た顔が浮かび上がった。


「へえ、意外と男前だねえ、仕入屋さん」

 待ち合わせの場所に現れた男はいかにもヤクザ、というふうに見えた。痩せて尖った顎に細く吊り上がった目。確かに笑っているのに、瞬きの間のほんの一瞬、粘りつくような目つきをする。

 年齢はよく分からないが、四十より下と言うことはないだろう。これで角刈りならばイメージとしては完璧だが、残念ながらごく普通の短髪だった。

 この暑いのに着込んだ黒いスーツに合わせているのは、臙脂色のワイシャツとダークグレーのネクタイ。見ているだけで更に暑くなってくるが、本人は汗のひとつもかいていなかった。

 高価そうな──趣味の悪さはともかく──スーツは、男が痩せているせいで、身体に引っかかっているように見える。白いスーツに赤い花柄の開襟シャツを着て、喜平のネックレスでも光らせてくれればもっと面白かったのに。

 どうでもいいことを考えながら、秋野は無言で男の顔を見つめた。今日はカラーコンタクトを入れている秋野の虹彩は、日本人の大半と変わらない焦げ茶色に見えている。

「あれ、この暑いのにホットコーヒーかい」

 暑苦しいスーツを着ているくせに、男はそう言って手にしたアイスコーヒーをテーブルに置いた。

「ご依頼は引き受けられないとお話したと思いますが」

「ええ、まあね。でもほら、こうして会ってもらったんだし、考え直してもらえねえかなあ」

 男はにやりと笑い、秋野が口を開く前に、身を乗り出して言葉を続けた。

「っていうかね、話を聞きてえだけなのよ。兄さん、この間、脇田わきたって男にパスポート売ったろ?」

 秋野は内心舌打ちしたが、表情には出さなかった。確かについ二週間ほど前、脇田と名乗る男に偽名のパスポートを頼まれた。

 耀司には断るように言ったが、向こうが承知しなかった。ヤクザとは関わりたくなかったが、ティアラに乗り込んで来られても困る。断るために会ったというのに脇田は待ち合わせた知り合いのバーで秋野の顔を見た瞬間、助けてくれ殺されると大騒ぎした。

 開店前に場所を借りただけだったので、奥の事務所にオーナーがいた。彼が驚いて飛び出してきたくらいの泣き声だったのだから余程響いたに違いない。

 絶対に組にばれるような真似はしない、あんたの名前も漏れないと泣き、拝み、終いには土下座する始末だったから、もう面倒になって引き受けた。パスポートの受け渡しが済んだのはつい先日のことだ。

 やはり受けるんじゃなかった、と後悔したがもう遅い。

「なあ、隠したって無駄だよ」

「……確かに頼まれましたが、それが何か?」

 知らないと粘ると思ったのか、男はちょっと驚いたような顔をして黙り込み、目の前のアイスコーヒーのストローを弄った。

 駅前のコーヒーショップは人の出入りが多い。ノートパソコンを小脇に抱えた会社員が席を探して店内を見回している。会社員は一瞬こちらを見たが、すぐに目を逸らして向こうを向いた。

 秋野はともかく、目の前の男はどう見ても堅気ではない。関わり合いになりたくないと思われているのだろう。

「あいつが何したか、兄さんは知ってんのかい」

「さあ。仕事に必要なこと以外に興味がないので、訊いてませんし」

「ウチの組で、消費者金融やってんのよ。脇田は何人かいる支店長の一人だったんだけどな」

 あっさり組という言葉が出てきたが、予想外でも何でもない。秋野は無言で先を促した。男はさっきから口をつけてもいないアイスコーヒーにガムシロップを入れ、子供みたいに勢いよく掻き混ぜた。

「ま、横領ってやつさね。おまけにあいつの支店が抱えてた若い奴ら、まとめて他所の組に渡しやがって」

「若い奴ら?」

 秋野は聞き返した。ヤクザが上に言われたからと言ってほいほいと組を変えるなど聞いたこともない。

「電話かけるのが専門でねえ。構成員でも準構成員でもねえのよ」

「ああ──掛け子ですか」

 所謂特殊詐欺というやつだ。年寄りに電話をかけ、孫や子供の振りをして金を振り込ませるというのが有名だったが、最近はパターンも増え、高齢者だけが気を付けていればいいというものではなくなった。

 給付金や還付金がもらえる、と言ったものも多く、シナリオも手口も多彩らしい。何人もの若者を組織立てて使い、結構な収益を上げているヤクザがいると言う話はよく耳にする。掛け子というのは電話を掛ける役の人間のことだった。

「ああいう若いのは、金さえ貰えりゃどこの組が仕切ってようが気にしないんでねえ」

 それはそうだろう。彼らはある意味ヤクザより質が悪いと言ってもいい。

「それと俺に何の関係が?」

「あいつの使った偽名、教えて欲しいんですよ」

 男は更にアイスコーヒーを掻き混ぜた。速度を上げて渦巻くコーヒーに翻弄される氷が、からからと涼しげな音を立てて回転する。

「兄さんにはもう関係ないことじゃねえのかなと思うしね。ウチはあんたに何の興味もないから」

「残念ながら教えられませんね」

 秋野の答えに男の手が止まる。グラスの中の氷は惰性で回り続け、秋野の目は何となく氷を追い続けた。

「知らないんだから仕方ないと思いませんか」

「だって、あんた」

「パスポートに載せて欲しい名前と顔写真を封筒に入れて渡されて、俺はそれを業者に渡した。だから見てないんですよ」

「──じゃあ、その業者の名前を教えてもらえねえかな」

「それは俺の信用にかかわるので、勘弁してください。同じような商売とは言いませんが、まったく違うわけでもない。多分ご理解頂けると思いますが、いかがですか」

「あのねえ、兄さん」

 男の目に一瞬冷たい光が浮かんだが、すぐに消える。首筋が硬く強張って、背骨の付け根が重たくなる。後頭部が引っ張られるような感覚に思わず瞼を閉じたくなったが何とか堪えた。

「……また連絡しますよ。それまでにあんたの記憶が戻るかどうかするんじゃねえかって期待しながらね」

 男は腰を上げ、振り返ることなく出て行った。貧相と言ってもいい背が店の外に消えるのをガラス越しに見届け、秋野はようやく溜息を吐いた。

 恐怖はない。ヤクザが怖いと思うことはない。ただ、面倒に巻き込まれたことが腹立たしくはあった。

 男の残したアイスコーヒーのプラスチックカップに水滴が浮いている。強烈な頭痛の前触れを後頭部に感じたまま、秋野は暫くそこに座り、ただ水滴を眺めていた。


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