第1話 狂人
私はどこかわからない暗闇の中にいた。
完全に光が遮断されているようで、目を開けているのか閉じているのかすらわからない。
辺りは静寂に包まれており、心臓の鼓動すら聞こえない。
訳も分からず手足をばたつかせるが、その全てが空を切る。
すると心の奥底に無理やり隠していた寂しい、怖い、辛い、苦しいなどの感情が溢れ出してきた。胸がズキズキと痛む。
思わず『誰か私を助けてよ。』と来るはずのない助けを口にする。
するとそんな願いが通じたのか、唐突に暗闇の中に一点の光が現れる。
私は藁にもすがるような思いでその光に手を伸ばすと、ぱあっと視界が色鮮やかに染められていった。
そこにはたくましい父親と慈愛溢れる母親に手を引かれる小さい頃の私の姿があった。両親と私は心の底からの笑みを浮かべている。幸せな家族がそこにいた。ノスタルジーな思いで胸が飽和する。久しぶりに感じた安堵が胸の痛みを少しずつ取り除いていく。
しかしそんな幸福な光景は唐突に終わりを迎える。
まるで写真が炎で焼かれたかのように、目の前の光景が黒く染まっていく。
そして暗い光景の中に映し出されたのは、母親と父親ではない男の姿。
父親ではない男は脂ぎった薄汚い顔に醜悪な笑みを浮かべながら近づいて来る。
嫌だと叫び、逃げ出そうとするが凍りついたかのように体は動かない。藁にもすがる思いで母に向かって助けてと叫ぶが、母はそんな私に微笑むだけ。
どうして?動悸が激しく視界が何重にも揺れる。吐き気がする。
そしてぐちゃぐちゃの頭で私は悟った。味方は誰もいないのだ。
意識が急速に遠くなる。もう全てがどうでも良い。
そこで私は目を覚ました。
呼吸が荒く、心音がうるさい。全身は汗でぐっしょり濡れている。
涙が頬を伝っていることに気づく。
本当に最悪の目覚めだ。
私は上着の裾で涙を拭い、その上着を床に荒々しく脱ぎ捨てた。
・・・・・・・・・・・・・
ここは兵庫県の東の方にある、とある高等学校の図書室。
私こと高校2年生の日向沙耶華は夏休みだというのに制服を着込んで、学校の図書館にて、虚ろな目で夏休みの課題や読書に精を出していた。
部活動に所属しておらず親しい友人もいない。
そしてこれといった趣味もないので、これがこのところの私の日課だ。
高校2年生、青春真っ只中の学生がそれでいいものかと思うかもしれないが、私はこの生活に思いの外満足している。
正直人生山あり谷ありなんてもうたくさんだ。
これから一生平坦な人生でも神様を恨みはしない。
読みかけの小説も終盤に差し掛かり、本から顔を上げる。
ずいぶん時間が経ってしまったようで、図書室には私の他に一人の男の子がいるだけだった。
ふと窓の外の景色に目を遣る。
空は分厚い雲で覆われ、今にも雨が降りしそうだ。
まだ17時30分になろうかという時間なのに、外は暗い。
そういえば朝の気象予報で兵庫県は夕方から大雨だといっていた気がする。
だが、傘を持ってくることを忘れていたことに気づく。早く帰らなくては。学校から家までは徒歩で20分ほどかかる。今から走って帰ればなんとか土砂降りになる前に家に帰ることができるだろうか。
私は急いで参考書や筆記用具を手提げ袋にしまい、椅子から立ち上がる。そして返却ボックスに本を返却し図書室から退出した。
窓越しに暗さを増していく外の景色を見ながら、これはもう間に合わないかなと思いつつも、校舎の3階にある図書室と階段をつなぐ廊下を早足で歩く。
廊下も中盤に差し掛かった時、目の前を稲妻が駆け抜けた。ドーンという怒号が鳴り響く。校舎からは明かりが消え失せ、辺りは暗闇に包まれた。
数秒後、遠くから雨の匂いが近づいてきて、ぽつぽつと雨が降り始めた。
私は突然暗闇に包まれた校舎を不気味に感じ、身を震わせた。
早く学校を出ようと、少し早足気味に廊下を歩く。
異変が起きたのは、私が階段へとつながる曲がり角を左折しようとした時だった。
曲がり角からぬらっとした大きな影が動き、一人の男が現れたのだ。
その男は夏だというのに長袖の黒い襟付き、黒い長ズボンを着用している。全身が黒に覆われているため、今にも暗闇に溶け込んでしまいそうで不気味だ。その表情はあたりが暗いために、うかがい知ることができない。
背中の毛穴が開いて、じとっとした汗が流れる。
この男とは関わってはいけないという警笛が頭をガンガン打ち鳴らす。
私は危機回避本能に従い、すぐさま男の横を通り抜け、階段を降りる事を決意した。サッと脇目も振らず、素早く男の横を通り抜け階段に足を延ばす。
何事もなく男の横を抜けることができ少しホッとする。
だがその足は階段に着地することはなかった。ガシッと左の二の腕のあたりを強く掴まれ、私はうっとうめき声をあげた。肺から空気がひゅっと抜ける。
そして粘着質のある声が私の耳を舐めまわした。
「なんで相思相愛の僕から逃げようとするのかな、ひーなーたーちゃん。
悪い子にはお仕置きしないとねえ。」
男は私をつかんだ手に力を込めて横に払い、私を階段の側壁に叩きつけた。
背中を強く叩きつけられた衝撃でかはっと肺から空気が抜け、一瞬視界が明滅する。
相思相愛ってなんだ?私には親しい友人が一人もいない。恋人は言わずもがなだ。当然あなたと愛し合った覚えはない。あなたは誰だ。
男の顔が近づいてくる、先ほどよく見えなかった男の顔が嫌でも見えてくる。
見たことのある顔だ。生活感のないボサボサの黒髪、粘着質な目線、不気味に歪められた口元。
多分同じクラスのやつだった気がする。ああ、粘着質な目線で思い出した。
いつも私を気色の悪い目で凝視していたやつだ。名前は知らない。
「僕だけの日向ちゃん。僕だけの日向ちゃん。僕だけの日向ちゃん。
ねえ、ねえ、ねえ、いつまで待たせるの。
首を長くして待っていたよ。指折り数えて待っていたよ。一日千秋の思いで待っていたよ。
さあ、早く僕と愛し合おう。身の心も一つになって、骨の髄まで。
初めてが人気のない校舎とか凄くそそるね。怖い?心配しなくても大丈夫だよ。僕はジェントルマンだ。君を優しさで包み込んであげるよ。」
こいつは完全に狂っている。現実と妄想の区別がつかなくなっている。
「変態。離れやがれ。今ならまだ周りに何も言わないでいてやる。」
無駄だと分かりながらも、彼を正気に戻すための抵抗を試みる。
だが彼には無駄な抵抗は通じない。
「違う、違う、違うだろぉぉぉ!そこは愛しています、勇気君だろぉぉぉ!
どの口が僕の悪口を言った。ああ?どの口だ。ああ、この口か。」
彼は狂ったように顔を歪めて、私の頬を張った。パシーンと乾いた音が鳴る。
頬に鋭い痛みを感じ、顔を歪める。
痛みで涙が出そうになるがぐっとこらえて、私は無言で彼を睨みつける。
「なんだその挑発的な目は。僕のかわいい日向ちゃんがそんな目を僕に向けてはいけない。調教してあげないと。元のかわいい日向ちゃんに戻してあげないと。」
彼は再び手を振りかぶり、私の頬を張る。
「ほら、何か僕に言うことがあるんじゃないの。」
パシーン。
「なんとか言えよ。」
パシーン。
「わたしが悪かったです。許してください、勇気君だろ!!!」
パシーン。
何回打てば気が済むんだこいつは。私は痛みをこらえながら精一杯声を絞り出した。
「くたばれ、クソ野郎。」
彼は私の頬を張る手を止め、無言になった。
それは嵐の前の静けさを連想させた。
「もういいや。」
しかし彼の返事は予想外のものだった。
よかった。正気に戻ってくれたのだろうか。
そうだ、私は君の理想の恋人の日向ちゃんではない。
私はホッと安堵のため息をついた。
「君を調教するのはもういいや。諦めたよ。でも嫌がる女の子を無理やりってのも
そそるよねぇ。」
そう言うや否や彼は私を抱きしめ、体を弄り始める。
必死に抵抗するが、彼の体は離れようそうない。だめだ。こいつは正気に戻らない。助けを呼ぶか。図書室に誰かもう一人いた気がする。・・・だめだ、ここは図書室からだいぶ距離が離れている。きっと私の声は聞こえない。ヒーローはきっと来ない。私がなんとかするしかない。とっさに男の弱点を思い浮かべる。私はニヤリと笑い、片足を男の足と足の間にねじ込め、思い切り振り上げた。
「っっっ!?!」
瞬間、男の顔が苦痛に歪み、私を拘束する力が弱まる。私は思い切り男を突き飛ばした。
男は両手で股を抑えこみ、前かがみになりながら、こちらを苦悶の表情で睨みつけている。
「キサマ、キサマ、キサマァァァ!!!やってしまったね。はるか彼方ロシアにあるバイカル湖よりも透明かつ深い慈悲の心を持つ僕だからこれくらいで許
してやっていたが、もう容赦はしない!!!許さない。」
必死の形相で彼が掴みかかってくる。私は必死に手足をバタつかせ抵抗した。
そしてその時はやってきた。やってきてしまった。
彼が私の肩を掴んだ時、私のばたつかせていた手が偶然彼の顔面にクリーンヒットした。
すると彼はバランスを崩しゴロゴロゴロと階段を転げ落ちていった。
やがて階段の一番下でべちゃりと止まった。
脇から嫌な汗が伝う。私は彼の無事を確かめるべく、急いで階段を下った。
男はかろうじて生きていた。
しかし打ち所が悪かったのか、血を吐いて、ピクピクしている。
「助けて・・・。」
絞り出した男の声はかすれてはいるが、生きている。
今から救急車を呼べば助かるかもしれない。
私は左胸のポケットの中に入っていたスマートフォンを取り出して119番に電話をかけようとした。だが119と打ち、通話のボタンを押そうとした私の手が不意に止まった。
なんで私がこの男を助けなければならないんだ?
純粋な疑問が私の頭の中を駆け巡る。
何も悪くない私を襲うようなクソ野郎だろこいつは。むしろこのまま死んだ方が社会のためになるんじゃないか。そうだ、そうに違いない。それにこいつはこのまま生きてもまた同じ過ちを繰り返すに違いない。
・・・だめだ、だめだ何を考えているんだ私は。
男は生きている。そう、まだ、生きている。早く助けを呼ばないと。
しかしなぜだか頭に思い浮かんだのは、脂ぎった顔に醜悪な笑みを浮かべる男の姿。それは憎しみの権化。暗い感情が腹の奥深くから溢れ出してきた。
・・・こいつは私に乱暴した。
・・・こいつは私を犯そうとした。
・・・こいつは私を傷つけた。
どくどくどくどく
心臓の高鳴りが激しさを増す。
暗い感情が乱流と共に、全身を侵食する。
この感情をもう我慢できない。
早く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トドメを刺してあげないとね。
何かがガチャリと外れた音が聞こえた気がした。
人気のない学校の校舎に雷鳴がおどろおどろしく轟く。
暗い校舎には、雷鳴と共鳴して、私の笑い声と男の体を蹴るつける鈍い音が鳴り響いていた。
「死んだっ。死んだっ。死んだっ。私が殺した。殺してやった。あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっっっっっっ。こんな・・・・こんな愉快なことがあるのかしらぁぁぁぁぁぁぁ。人が一人死んだ。バカな奴が一人死んだ。無残に死んだ。学校を卒業できずに死んだ。就職もできずに死んだ。結婚もできずに死んだ。何もなさずに死んだ。私よりも先に死んだ。」
私は男の体を蹴り続ける。
顔を、胸を、腹を気が狂ったように蹴り続けた。
時には頭の上に足を置いて思い切り踏んづけてやった。
言いようのない快感が私の体の隅々に広がる。
シタイニクチナシ、ナニヲヤッテモユルサレル。ワタシハナニモワルクナイ。ワタシハナニモワルクナイ。ワタシハナニモワルクナイ。ワルイノハコイツ。シンダノハコイツノセキニン。
溢れ出す狂気の出所は何処か。
どれくらいの時間が経っただろうか。体の隅々を巡ったエンドルフィンの効果が切れ、私は正気に戻った。
私の目の前には首がおかしな方向にひしゃげたボロボロの男の死体があった。
顔面はゾッとするくらい蒼白で、生気は感じられない。開かれた目は虚ろでもう二度と光を拝むことはないだろう。
私は目の前の光景に呆然とする。これは本当に私がやったのだろうか。目の前の景色は現実なのか。私が人を殺した?放って置いても、男は息絶えていたかもしれない。だがトドメを刺したのは、間違いなく私だ。
彼を殺した時のグシャッとした嫌な感じが思い出される。
外では、分厚い積乱雲がバケツをひっくり返すような雨を降らせている。
落雷の影響で停電した為に、雷光によってのみ薄暗い校舎の様子が照らし出される。そこに映し出されたのは物言わぬ死体と愚かな殺人犯。
雨の降りしきる校舎に、私の乾いた笑い声が鳴り響く。
本当に狂っているのは私だった。
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