第9話 私は今この瞬間を生きている

真夜中の午前2時ごろ、いわゆる草木も眠る丑三つ時に、海岸沿いの国道250号線では自転車とバイクによる壮絶なレースが繰り広げられていた。


「はあっ、はあっ、はあっ。一体全体どこまで逃げればいいんですか!!!」


「はははははっ、わからないよ!!!とりあえず町があるところまでじゃないかな!!!」


一本道は進めども進めども荘厳に屹立する山と終わりの見えない海が果てし無く広がっている。

おまけにアップダウンとまがりくねりの激しさが容赦なく私と木陰の体力を奪う。


そろそろ心折れそうです。泣いてもいいですか。


「待ちやがれ!!!お前たちは絶対ぶっ殺す!!!」


少し離れた先からチンピラの親玉が叫びをあげて、追従してきます。

私たちを追うよりもまず、仲間割れしているバカ4人をなんとかしたらどうなんでしょうか。

そもそも、自転車とバイクって馬力違いすぎませんかね。

ずるいってもんじゃないですね。


そんな呑気なことを考えていたら、もうすぐ後ろにチンピラの親玉が迫ってきています。


「まずは、お前だ!!!地獄に落ちやがれ!!!」


チンピラの親玉がバイクに乗りながら、私を掴もうと手を伸ばしてきました。

私をあの速度で地面に叩きつける気でしょうか。

マジで死にかねませんね。ははっ。


しかしその手は私に届くことはありません。

前を走っていた木陰君がとっさにスピードを落とし、私とチンピラの親玉の間に割って入り、袋の口を開けて先ほどの謎の粉をチンピラの親玉にめがけて浴びせました。


「がああああああ!!?まだ持って嫌がったのかよ!」


効果は抜群だ!チンピラの親玉は大きくバランスを崩し、バイクごと派手に転倒しました。

チンピラの親玉はバイクから投げ出され、地面をゴロゴロと転がって行きます。

きっと身体中、打撲だらけでしょう。

そのまま死んでくれ。いや、死ななくてもいいから動けないレベルの重傷を負ってくれと私は心の中で必死に祈りを捧げる。


しかし無駄に頑丈な体を持っているようで、直ぐにむくりと起き上がる。

それでも、地面に叩きるけられた時に身体中に打撲を受けたようで、

頭から血を流している。

しかし、私たちへの憎悪の感情は消えないようで、殺気を宿した鋭い目つきで私たちを睨みつけ、咆哮をあげる。


「もう、お前らは許さねえ!!!殺す殺す殺す!!!そして海に沈める!!!」


その根性をもっと別のところに使った方が良いのではないでしょうか。

と言うか、さっきからこの人、殺すって単語使いすぎじゃないでしょうか。語彙力が死んでいますね。先ほどの衝撃でさらに脳細胞が死滅した見込みです。脳の言語野の神経細胞が少しでも生き残っていれば良いのですが。


少しふらつきながら、チンピラの親玉は倒れたバイクを立て直し、ブンブンとエンジン音を鳴らして再び追いかけてきました。




私達とチンピラの親玉の追いかけっこは続きます。


私達はなるべく空気抵抗を減らすために頭を屈めた低空姿勢で走る。下り道ではペダルは漕がず、なるべく体力を温存して走る。上り道では下り道で得た加速を最大限に使って全速力でペダルを踏みしめる。そして曲がり道は車道外側線ギリギリをエッジを効かせて曲がる。


私達はお互い、前と後ろを数分ごとに交代することで、空気抵抗の少ない後ろになった時に休めるように工夫しながら走り続けます。

それは非常に高度な共同作業、私と木陰君は2人で1人、まるで何十年も共に過ごした熟年夫婦のように息が揃っている。


そして時間は走馬灯を見ているかのごとく悠長に流れる。

頭の中の雑念や複雑さは全て綺麗さっぱり消失し、この状況から逃げ切ることに全ての集中力が注がれている。

5感は限界まで活性化されている––––––––––––視界は人間の視野角の限界である120度を遥かに凌駕し360度全てを見渡しているよう。

自分の内側から生じる呼吸音や心臓の音以外にも木陰君がぜいぜいと呼吸する音、後ろから迫り来るバイクがブオンブオンとなる音、自転車がギシギシ軋む音、海がごおごお鳴る音、風をビュンビュン切断する音、全てが鮮明に明瞭に克明に聞こえる。

身体中から流れ落ちる独特な汗の匂い、活力を与えてくれる刺激的な海の匂い、優しく包み込んでくれるような山の匂い、空気はこんなに美味しかったのだろうか。肺に取り込まれたナノレベルの大きさの空気中の1分子1分子が私の体の中で活き活きと躍動しているのがわかる。




しんどい、でも間違いなく私は––––––––––––––––––––今この瞬間を生きている。












はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ 

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はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ はぁ 


苦しい。どれだけ激しい呼吸をしたのでしょうか。120回?冗談でしょう。描き切れていないだけです。もっと多いです。過呼吸のような激しい呼吸を永遠と繰り返す。

胸の奥、肺が締め付けられるような痛みがする。喉が焼けるように痛い。

太ももは限界まで乳酸が溜まり、パンパンに張っているのがわかる。

自転車のハンドルを持つ手の握力もそろそろやばくなってきた。おそらく手のグーパー運動が今はできないだろう。

ジャージは上下汗でびしょびしょだ。でも、今は私の頬に汗入ってきたりとも流れていない。どうやら汗は出し尽くしたようだ。

涙も出やしない。


さっきまであんなに輝いて見えた目の前を流れる景色は色あせはじめ、

歪みがどんどん大きくなってくる。もう・・・だめかもしれない。

意識がだんだんと遠のいていくのがわかる。



やばい、死ぬ––––––––––––––––––––––––––––––––––––悪くない・・かな。




自転車がフラフラと横に傾き、車道外側線を超えて山肌に倒れこんでいった。







「おい!しっかりしろ!!!日向!!!」


木陰君の鋭い叫び声が聞こえたと同時に、私の左肩に彼の左手が回されて、ぐいっと彼の方に倒れかけていた体が引き寄せられる。


しかし私は全身の力が抜け落ちていて、彼に体重を預けることしかできない。

彼は私を抱えながら自転車を漕ぎ続ける。


しかし彼も満身創痍、この状態は長くは持たない。やがて、重心が徐々に横にずれていき、私達2人は重なり合って地面に倒れた。


「はははっ、もう指一本も動かす力が残ってないや。もう耳くそだってほじれやしない」


彼の乾いた声が響く。


万事休す、絶体絶命、八方塞がり。私たちの命運は尽きた。


そして最悪のタイミングで、ブルンブルンと重厚な音を立てながら、バイクの音が近づいてきた。


「ったく、手間取らせやがって。さっさと有り金と女を渡しとけば、俺もここまでキレなかったのによ。バカだよ、お前ら。」


チンピラの親玉がバイクから降りて、ゆらゆらと死神のような足取りでこちらに向かって歩いてくる。私は彼の手に死神の鎌が見えた気がした。





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