第2話 日常からの逃走
私は何も考えずに走る。下駄箱で靴を履き替えることすら忘れ、上靴のまま学校を飛び出す。
車軸を流すような雨は降り続いているが、纏わり付いた嫌なものは洗い落とせそうもない。
どこに行こうか。・・・どこでもいい。もうどうでもいいか。
校庭を、街を、田んぼ道をびしょ濡れのまま走り抜ける。
足を一歩踏み出すごとに、泥が跳ねて白の制服の上着に褐色の染みが一つ、また一つとへばりついていく。その中途半端さに無性に嫌気がさす。
茶色い泥で濁った、人1人くらい飲み込んでしまいそうな大きな水たまりを避けもせず、バシャバシャと踏み入った。跳ね上がった大量の泥水が白を覆い隠した。
雨の勢いは増すばかりで、鼻呼吸をしても、口呼吸をしても溺れそうなくらいに雨水が入り込んで来る。吐き出すのが億劫で、飲み込むと不快な塩気を感じた。
ふと立ち止まると、私は大きな川に掛かる橋の上にいた。川を覗き込むと、土砂が混じった濁流が全てを飲み込まんと流れ続けている。
私は手すりに体重を預けて、その様子を眺めながら考える。
何で逃げ出しているんだろう。罪には罰が与えられなければならないのに。
何故だか、自動車でひき逃げを犯した犯人の気持ちが少し理解できた。
怖い。事実から目を逸らしたい。何も考えたくない。
でもそんなの全部自己防衛だ。どうしようもないクズだ。
私はこの先どうなるのだろう。しかるべき裁判を受けて、少年院とか刑務所に入るのかな。世間のみんなが私をバッシングするだろう。就職できるかな。結婚できるかな。幸せになれるのだろうか。
いいや、もう私にその資格はない。私の未来には私以外に誰もいないのだ。
こんな人生に一体何があるのだろうか。
目線を下に向ける。滔々たる濁流が流れている。
今までは死にたくないから仕方なく生きてきた。
でも、もういいじゃないんだろうか。全て投げ出してしまっても。
誰も咎めやしないよ。責任なんてどうでもいい。
風向きが変わり、大きな雨粒が背中を押し、私を濁流へと誘う。
あの流れに身を任せれば・・・楽になれる。
死体は見つかって欲しくないな。願わくば、私の死体は川を下り、瀬戸内海に流れ着き、やがて土砂に埋もれ、地層の一部となることを望む。そしてずっとずっと先の未来の考古学者たちが私の遺骨を発見し、研究材料とするのだ。その時が来るまで私は安らかに眠るとしようか。
荒れ狂う濁流は不思議と私の心を落ち着かせた。そして私は覚悟を決めた。
さようなら。17年、長いような短いような中途半端な時間をありが「ねえ、
君こんなところで何してるの。」
唐突にこの世界に対する最後のメッセージが遮られた。
私は少し苛立ちを覚えながら、声のした方向に顔を向けた。
そこにはどこか見覚えのある男の子がいた。
中性的な均整の取れた顔立ち、少し垂れ下がった目、ニキビのない女の子のように白い肌。少しなよなよしてそうな雰囲気がある。
ここまで走ってきたのだろうか、肩で息をしており、白い頬は上気している。
上気した頬を、降りしきる雨が伝うのが妙に色っぽい。
「あはっ、僕の死んだ姉貴と同じ顔だ。単刀直入に聞くけど、『私はもう生きることに疲れた。濁流に飛び込めば楽になれる。』とか考えてた?」
驚くことに正確である。
雨が降りしきる中、びしょ濡れの女の子が橋の上で、危ない目をして濁流を見つめていたら誰でもそう考えるだろうが。
「そうですけど。それが何か。」
なるべく低いトーンで相手を威圧するかのように答える。
それに対して彼は両手を体の前で組んで、ニヤニヤとした笑みを浮かべる。
「あはは。やっぱりそうだよねえ。ちなみにどうして自殺を考えているのか、その理由を聞いてもいいかな。」
そしてストレートに理由を聞いてきた。
このタイプの人間は少し苦手だ。人の心の中にズカズカと無断で侵入してくる。
私は無意識のうちに両眉を内側にぎゅっと寄せた。
「そうですね。・・・人を殺したからです。」
まっすぐに投げ返してやった。すると彼は目を大きく見開いた。
だがすぐに何事もなかったかのように目を閉じて、しばらく何か考え事をする。
そして何かひらめいたとばかりにぽんと手を叩いた。
「それはすごく都合がいいや。僕は君に出会えたことを神に感謝しないといけないね。」
頭の中にいくつもの疑問符が浮かぶ。私は頭を傾けながら、その理由について考える。実験の被験体、臓器売買、体目当てなど碌な理由が思い浮かばない。
得体の知れないものほど怖いものはない。
彼は疑問符だらけの私の顔を見て、あははと笑いながら告げる。
「こんなにもワクワクすることが今までにあっただろうか。すごいよ、君は。
毎日毎日、同じ出来事の繰り返しでつまらないこの日常をぶち壊すポテンシャルを秘めている。」
彼の頬は赤く染め、うっとりと呟いた。だがすぐにキリッとした顔に戻り、人差し指と中指をビシッと立てた。
「さて、僕から君に2つ提案がある。心して聞くんだ。1つ目は、今すぐにここから飛び込んで死ぬことだ。これは素晴らしい。君はすぐに楽になれる。君が殺した奴もあの世でバンザイするだろう。だが僕の日常はつまらないままだ。
さて、2つ目は僕に付いてくることだ。この選択肢はとてもとてもとても素晴らしい。君は僕に付いてくることで、生きることの素晴らしさ、生きることの意味を見出すだろう。僕を刺激溢れる非日常を楽しめる。」
警察に素直に出頭するという選択肢はないようだ。
どうやらここで死ぬか、彼に付いていくしか道は残されていないようだ。
「ちなみにあなたに付いていくとは、具体的に何をするのですか。」
「簡単なことだ。君には僕と共にこの退屈な日常から逃げ出してもらう。つまり殺り逃げだ。」
「・・・私と一緒に警察から逃亡するのですね。」
「そうさ。」
「その場合、あなたも殺人に何かしら関与していると疑われますよ。」
「そんなの、この退屈な日常から脱出できることに比べたら安いものさ。捕まったとしても、君に脅されて無理やり付いて行かされていたとでも言えばなんとかなる。」
典型的なクズかよ。私はじとっとした目を彼に向ける。
しかし彼はそんな視線を軽く笑い飛ばして、最終選択を迫る。
「あははは。冗談だよ。さて、本題に戻ろう。
君は死ぬの––––––それとも逃げるの。」
彼の目は真っ直ぐに私を射抜く。とても冗談を言っているようには思えない。
どうせ私の人生はこれから碌なことにならない。彼と共に派手に逃走するのもなんだか悪くないような気がする。それは彼の人生を大きく狂わせることを意味するのだが、どうでもいい。こんな戯言を述べる彼はきっと碌な人間にならない。ならば、私と一緒に痛い目を見た方が社会のためになるのではないだろうか。彼には共に堕ちるところまで堕ちてもらいましょう。私と一緒に。
心なしか雨の勢いが弱まる。先ほどよりも高めのトーンで返答する。
「そっか。じゃあ、責任持って私をこのくそったれた日常から連れ出しくださいね。」
狂い出した歯車はもう止まらない。
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